ワンシーンノベル
2004

あの頃のこと(3)
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夏休みもセミの声もとっても遠くなりました

水源地には桜がいっぱい(その2)   小学生の頃は夏になるとセミ採りをするのが日課だった。特別変   わった種類のセミがいるわけでもなく、標本を作って夏休みの宿題   にするつもりもないのだが、不思議に飽きない。生きていて動いて   いるものを捕まえることが単に面白かったとしか言いようがない。   友達や弟とよくいったが、一人でもかまわずにでかけた。        私の家があった商店街ではセミの声が聞こえた記憶がない。いま   考えるとそれらしい木がなかったように思う。かろうじて商店街の   はずれの小さな川のそばに無花果の木、そこから住宅地に移る階段   のほとりに松の木があったぐらいだ。それで少し足をのばすことに   なる。大きめの網と虫かごを持って、てくてく歩いた。商店街から   少し上がると神山峠に向かう道に出る。すこし行くとセミの声が聞   こえはじめ、もう少し歩くと平原(ひらばら)水源地の南斜面が見   えてくる。平原水源地は上下二段に分かれているのだがその下段の   方だ。高さが十メートルはあると思われる斜面にたくさんの桜の木   が植わっている。ここが、私のセミ採りのフィールドだ。近くに平   原神社があるのだが木はまばらで、そのうえ背が高いのでうまくい   かない。峠にむかう道から小段で少し上がると斜面のすそを回るよ   うについている幅一メートル程度の小道があって、その当時は背の   低い鉄条網が境界に張ってあった。この小道の途中に排水溝が一箇   所あるのだが、その部分の鉄条網がどういうわけかいつも壊れてい   た。そこから水源地に入る。要するにみんなこの部分から入ってい   たため結果的に鉄条網が壊れていたに違いない。今は鉄条網ではな   く、ちょっとやそっとじゃ壊れそうにないフェンスが張ってある。   これでは子供たちも苦労しているのではないだろうか。苦労はして   いるだろうが、私としては小さなハンター達はここに入っていると   思いたい。このフェンスをこえるだけの知恵と気概が子供には有る   筈なのだ。                               斜面に入るとセミの声のサラウンドだ。捕まえるとジィー、ジィー  と鳴く「あぶらゼミ」、ミーン、ミーンの「みんみんゼミ」、ニィ   ニィの「にいにいゼミ」、ツクツクホーシ、ツクツクホーシの「ツ   クツクホーシ」。今でも思い出すのはこれぐらいだ。それらが複雑   に重なり合い、ひびき合い、斜面にこだまする。いま私が住んでい   る広島市の北部で聞く声もこれと変わらない。鳴きはじめる時期は   この順番で「ツクツクホーシ」の声を聞くと夏休みももう終りに近   い。採りやすさもこの順番だった。あぶらゼミは比較的低い位置に   とまっているし大きいし、何といっても他のセミは羽根が透明なの   にこのセミだけは茶色の色がついているので見つけやすい。一番つ   かまえやすかった。身のこなしというか敏捷さにも差があったよう   だ。「みんみんゼミ」は少し角張った身体で羽根はほんのり緑色の   ついた透明だ。「ツクツクホーシ」は「みんみんゼミ」を細長くし   た感じだった。「にいにいゼミ」は小型の「みんみんゼミ」という   印象だ。                              平原水源地は今考えても最高のセミ採り場所だった。まとまった   広さがあって、桜の木が植わっている。桜の木は樹液が甘いのだろ   うか、セミが特に好んでいたように思う。とにかくたくさんのセミ   がいた。それから、鉄条網がしてあるくらいだから人は基本的に入っ  てこないので静かだった。時々車の音は聞こえるが邪魔な音はほと   んどしない。これだけでもセミ採りには適しているが、それ以上に   斜面になっていたことが大きい。セミ採りのポイントは、セミを見   つけることとセミの声を聞いてワンクール終らないうちに捕まえる   こと、セミのいる所まで網が届くことの三点だ。最初の二点は経験   を積むしかないのだが経験で越えられないものは網を届かせること   だ。長くすればいいのだがこれにも限度がある。長くしすぎると思   うように網を使えない。斜面がいいのは、セミのとまっている木の   上手に廻れば網が届きやすい点だ。背が一メートルも高くなったよ   うな感じがするのだからうれしくなる。                  セミの声に耳をすませて、どこにいるかあたりをつける。セミの   背中を見る位置では見つけにくいので、身体を移動するか顔を動か   してセミを探す。あくまでも静かにだ。青空を背景にセミの横腹が   見える。「ツクツクホーシ」だ。「よしっ、絶対捕まえるぞ。」と   気合いを入れて、網が届くかどうか、セミの斜めうしろから網を近   付けられるかどうかを判断する。できなければ身体を移動する必要   がある。抜き足差し足で移動して木の上手に出て、セミの声を聞く。  ワンクールが終りかけていたら始まるのを待つ。鳴きはじめるとそ   ろりそろりと網をのばす。あと四十センチ。「いまだっ!」。一気   に網をのばしてセミの上にかける。間髪いれずに地面に網をおろす。  成功だ。左手で網の上からセミの身体をつまみ、右手を網のなかに   いれて取出し、肩にかけた虫篭に入れる。               今日はたくさん採れた。いつのまにか斜面の一番上に出ていて、   ふりかえれば水源地の芝生とレンガ貼りの壁が見える。帰ろうとし   て、ふと見ると、手でも届きそうな桜の木の幹に「あぶらゼミ」が   とまっている。この時期は「あぶらゼミ」も疲れていて元気がない。  いけるかもしれないな、と思って、パッと手をのばしたのだが、ほ   んの少しの差で空に飛んだ。あわてて目で追うとふらふらとレンガ   の壁に近付いて、一瞬レンガの色と重なり、見失ってしまった。や   られたな、レンガ隠れの術。夏の陽はかたむいて、「あぶらゼミ」   の消えた壁を照らしている。夕暮れの少し冷たい風が吹いた。もう   すぐ夏休みも終わりだ。                    

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