連載「子どもと音楽」(16)
リトミック再発見
  昨年の夏にシアトルを訪れました。縁あって、その時に会ったジュリア・ブラック教授(ワシントン大学)の著書『リズム・インサイド』を翻訳しています。 この本は「リトミック」について説いたものです。リトミックは「音楽性を高める」という観点から語られることが多いのですが、ここでは併せてコミュニケーションのセンスを獲得する貴重な場であること。また身体的なものから、心的なもの精神的なものへと高められてことが述べられています。リトミックの様々な可能性について触れています。以下、訳書から抜粋し、紹介してみましょう。

 「作曲家であり演奏家でもあったダルクローズは、音楽を通したコミュニケーションの特性を十分に理解していました。この特性は、子どもの教育で開発の必要、不可欠なスキルであると考えていました。」

 「1年目のレッスンで、子どもたちはとても激しい気質を示しますが、2年目ではグループの中で自分の主張を通すばかりでなく譲歩することも学んでいきます。このような社会的な側面はとても重要で、特に子どもは顕著な発達が見られます。」

 「ピアジェによって編み出された法則(脳のある部分は動作によって刺激を受けない限り覚醒しないという論点)とリトミックの関連性について述べています。動作は想像力の開発にとって欠くことのできないものです。」 (J・ブラック他著「リズム・インサイド」、西日本法規出版)

  ここには、リトミックが音楽が音楽能力の獲得だけを求めているのではないことを示しています。自己の意志を失うことなく他者との協力関係を構築し、それがひとり一人の自信に繋がっていく−このようなセンスは、長い人生の中に色濃く反映されていくのだと考えられます。翻訳を通して、リトミックの新たな一面を再発見したような、なんだか得をしたような、そんな気持ちに浸っています。
CHC通信第28号(2002年7月 発行)

連載「子どもと音楽」(17)
おしゃべりとスピーチ
 「あなたの好きなことをして遊んでいいんだよ」と言われると、戸惑ってしまって遊べないという子どもたちに遭遇することがあります。同じように、音楽レッスンで「あなたの好きなように演奏してごらん」と伝えられたとき、演奏を継続できないという事例は少なくありません。
 例えば、私は、暗譜するのが苦手だったり、スピーチをしようとしたとき、緊張してしまって予め考えていたことの半分も話せなかったという経験があります。普段のお喋りのように話せば何てこと無いのに・・・。このお喋りとスピーチ(演奏と即興演奏)の差異は何なのでしょう?

 普段、私たちが楽しんでいるお喋りは、「即興」で行われています。話の流れ(ストーリー)が事前に決められているわけではありませんね。その場の流れや雰囲気を(瞬間的に)判断しながら、相手に返答する言葉や行為を瞬間的に選び出し、新たな場の流れを生み出すのです。

 お喋りを楽しむとき、私たちは、まず@他者の存在を認めることが必要です。そしてA相手の話を聴き、相手の心情を読み取る、B話の脈略を記憶する、C対話の中に自分の意志を表明する、などの要素が含まれています。同じようなセンスは、音楽表現においても重要となります。「お喋り」を「演奏」に置換してみるとわかり易いでしょう。
 @他者の存在を意識すること
 A音楽を聴くこと=音楽はどんな意味を伝えようとしているか(音楽的な耳)
 B記憶すること=音楽の断片や連続を記憶する(音楽的語彙の拡大)
 C音楽の流れに自らの意志を添えること=想像力や創造力を発揮しよう。
 私たちがお喋りや演奏を「楽しい」と感じられない時は、おそらくこれらの要素のどこかが欠けているのではないでしょうか。私たちは、氾濫する情報や人間関係の希薄化といった現代社会の中に生きています。その暮らしの中で、私たちは、ふと、人と接することを煩わしいと感じることがあります。その底辺には、他者の思いがうまく読みとれなかったり、自分の意思を明確に持つことができなかったり(判断できなかったり)、あるいは自分の思いや考えを他者に正確に伝えられなかったりすることに起因しているように思われます。

 音楽の学習は、人が人とよい関係性を生み出し、維持・発展させていくためのセンスを培うための貴重な学習機会を提供してくれているのです。
CHC通信、CHC音楽教室(2002年12月発行)

連載「子どもと音楽」(18)
音楽を愛する心
 新生児は生まれながらにして多くの能力を持っています。例えば、赤ちゃんの手の平にそっと指を添えるとグッと握り締めたり、大人の呼び掛けに微笑んだりする行為はよく知られています。音に注意を注いだり、明るさや動きを目で追ったりします。このように乳幼児は「音楽を愛する人」として誕生します。
 しかし多くの場合、このような能力はそのまま放っておくと退化し、その変化に反応しなくなってしまう。つまり、それらの音や動きの意味付けが放置されると記憶されず、やがてその刺激に応答しなくなる。大人も同様。大きな変化には驚きますが、その刺激が意味もなく繰り返されると、その変化を無視してしまうのです。

 音楽を「愛する心」は、様々な行為と重ね合わされながら、その行為の意味するものを互いが共有することによって、刻印付けされ、意味のあるものに育てられていくのです。
 例えば、テンポの緩急と身体の動きを重ね合わせることによって、音楽の速さが含んでいる感情的抑揚を知り、ダイナミックスの変化を重さやエネルギーの変化と重ね合わせることによって、より深い音楽的意味合いを感じ取ることができるのです。乳幼児はこのようなリズム的変化に最も敏感に感応します。やがて成長と共に、旋律やハーモニーの変化にも、同じように様々な意味合いが添えられるようになります。それらの意味は一人ひとりの感情を示す音楽的語彙となって、自らの意志を顕わにするために用いられるのです。

 近年、子どもを取り巻く問題行動の底辺には、語彙力欠如が指摘されていますが、これは単に言葉の貧弱さに限られた話ではないのです。音の意味、形の意味、色の意味、数の意味等々、私たちの周囲には様々な「意味」が潜んでいる。その見えなかった意味が鮮やかに見えたとき、それは感動を伴って心に刻まれます。この感動の蓄積を通じて、私たちは、周囲に潜む深遠な意味に感応できる心豊かな人として育まれていくのです。
 「音楽を愛する心」を子どもたちにも伝えたい。それは周囲の「人を愛する」心と重ね合わされるときに達せられるのでしょう。
CHC通信、CHC音楽教室(2003年4月発行)


連載「子どもと音楽」(19)
共生のセンスを培う

 厳しい冬が過ぎ、一気に春がやってきたように感じます。春になると花は咲き、鳥は歌い、冬眠していた生き物たちがゴソゴソと活動を始めます。古今東西の人々は、このような春到来の喜びを歌や詩や絵に託すのです。これは一例ですが、人間は自分の思いを周囲の人々に伝えたいという本能を備えて生まれてきます。これは、人が人によって育てられる所以と言えます。

 現代は、「情報化」「少子化高齢化」「国際化」の時代と言われています。巷には様々な情報に溢れ、多様な価値観が同居しています。いつでもどこでも世界各地のニュースを知ることができますし、コンビニもいつでも利用できます。とても便利な時代になりました。しかし、その便利さの傍らで、核家族や高齢者家庭が増え、孤育て(子育て)や孤食、孤独に耐えている人も少なくない。学校ではいじめ、不登校、非行等の問題を抱えており、併せて学力保証の問題も深刻です。

皮肉なことに、情報の豊かさや便利さの代償として、人と人の絆(きずな)が希薄になっているように思われます。人は愛されて、人を思いやる心を学ぶように、苦しみを分かち合うことを通して、勇気を与えられるのです。いま特に子どもたちに伝えたい心は「共生の心」です。それは「人を愛する」「人との関わりを楽しむ」ことだと考えます。そのために私たちは、音楽を学び、さまざまな心(感情や考え)に触れ、味わうのです。周囲の人々の思いを、音楽を通じて感じ合う体験は、一人ひとりの共生感覚を培うために、必ずや有益なものになると考えられます。共に楽しみ、育ち合いましょう。本年度もどうぞ宜しくお願いします。(神原雅之)

月報「sotto voce」、広島音楽アカデミー発行(2003年4月12日)


連載「子どもと音楽」(20)
良い耳をはぐくむ
 ダルクローズは、音楽性を高めるためには「よい耳」を持つことが欠かせないと考えていました。「良い耳」とはどんな耳なのでしょうか?例えば、何の音が聴こえているのか判ったり、リズムの違いを聴き取ったりする能力は「よい耳」の証拠と言えます。が、なかなかそのような「よい耳」を獲得するのは容易ではありません。どうしたらよいのでしょうか。

 幼い子どもが音楽に合わせて歩いています。その途中で突然音楽がきこえなくなってもそれ以前とかわらず同じように歩いている。これは十分に耳を開いていない一例です。ダルクローズは、聴こえてくる音楽の変化に気づき、その気づきをすばやく動きに置き換えるトレーニングを通して、「よい耳」が育てられると考え、様々な方法を試したのです。変化に気づくためには、注意力を鋭敏にし、その注意力を持続するセンスが必要となります。言い換えるなら、リトミックのレッスンは、音に対する深い注意力を磨く時間と言えるのです。

 このような「聴く習慣」は、普段の生活にも大きな影響を持つと考えられます。例えば、私たちはロック会場のような騒音に出会すと、はじめのうちは「煩いなあ」と感じていても、次第にその騒音に慣れてくると煩いと感じなくなる。聴こえているはずなのに聴いていない。普段の生活の中でこのような状況に慣れていないか(BGMのように聴いているテレビの音に慣れてしまってそのほかの変化に気づき難い生活など)点検してみるのは重要だと思います。静かな時間が集中力を高め、思考を深め、細かな音に注意を向けるためのよい環境になるのです。

 注意力を高めるには、ドタバタと無神経に動いてしまう習慣も一考が必要です。なめらかな動きがレガートな音楽を聴く時に、また繊細な動きがピアニシモの音楽を聴くときに効果的です。「動き」と「聴く習慣」は、まさに車の両輪となるのですね。動きと音のあいだに調和が生まれたとき、「よい耳」が備わった瞬間と言えるのです。
CHC通信No.31、CHC音楽教室発行、2003年7月