連載「子どもと音楽」(19)
共生のセンスを培う


 厳しい冬が過ぎ、一気に春がやってきたように感じます。春になると花は咲き、鳥は歌い、冬眠していた生き物たちがゴソゴソと活動を始めます。古今東西の人々は、このような春到来の喜びを歌や詩や絵に託すのです。これは一例ですが、人間は自分の思いを周囲の人々に伝えたいという本能を備えて生まれてきます。これは、人が人によって育てられる所以と言えます。

 現代は、「情報化」「少子化高齢化」「国際化」の時代と言われています。巷には様々な情報に溢れ、多様な価値観が同居しています。いつでもどこでも世界各地のニュースを知ることができますし、コンビニもいつでも利用できます。とても便利な時代になりました。しかし、その便利さの傍らで、核家族や高齢者家庭が増え、孤育て(子育て)や孤食、孤独に耐えている人も少なくない。学校ではいじめ、不登校、非行等の問題を抱えており、併せて学力保証の問題も深刻です。

皮肉なことに、情報の豊かさや便利さの代償として、人と人の絆(きずな)が希薄になっているように思われます。人は愛されて、人を思いやる心を学ぶように、苦しみを分かち合うことを通して、勇気を与えられるのです。いま特に子どもたちに伝えたい心は「共生の心」です。それは「人を愛する」「人との関わりを楽しむ」ことだと考えます。そのために私たちは、音楽を学び、さまざまな心(感情や考え)に触れ、味わうのです。周囲の人々の思いを、音楽を通じて感じ合う体験は、一人ひとりの共生感覚を培うために、必ずや有益なものになると考えられます。
 共に楽しみ、育ち合いましょう。本年度もどうぞ宜しくお願いします。

月報「sotto voce」、広島音楽アカデミー発行(2003年4月12日)

連載「子どもと音楽」(20)
良い耳をはぐくむ
 ダルクローズは、音楽性を高めるためには「よい耳」を持つことが欠かせないと考えていました。「良い耳」とはどんな耳なのでしょうか?例えば、何の音が聴こえているのか判ったり、リズムの違いを聴き取ったりする能力は「よい耳」の証拠と言えます。が、なかなかそのような「よい耳」を獲得するのは容易ではありません。どうしたらよいのでしょうか。

 幼い子どもが音楽に合わせて歩いています。その途中で突然音楽がきこえなくなってもそれ以前とかわらず同じように歩いている。これは十分に耳を開いていない一例です。ダルクローズは、聴こえてくる音楽の変化に気づき、その気づきをすばやく動きに置き換えるトレーニングを通して、「よい耳」が育てられると考え、様々な方法を試したのです。変化に気づくためには、注意力を鋭敏にし、その注意力を持続するセンスが必要となります。言い換えるなら、リトミックのレッスンは、音に対する深い注意力を磨く時間と言えるのです。

 このような「聴く習慣」は、普段の生活にも大きな影響を持つと考えられます。例えば、私たちはロック会場のような騒音に出会すと、はじめのうちは「煩いなあ」と感じていても、次第にその騒音に慣れてくると煩いと感じなくなる。聴こえているはずなのに聴いていない。普段の生活の中でこのような状況に慣れていないか(BGMのように聴いているテレビの音に慣れてしまってそのほかの変化に気づき難い生活など)点検してみるのは重要だと思います。静かな時間が集中力を高め、思考を深め、細かな音に注意を向けるためのよい環境になるのです。

 注意力を高めるには、ドタバタと無神経に動いてしまう習慣も一考が必要です。なめらかな動きがレガートな音楽を聴く時に、また繊細な動きがピアニシモの音楽を聴くときに効果的です。「動き」と「聴く習慣」は、まさに車の両輪となるのですね。動きと音のあいだに調和が生まれたとき、「よい耳」が備わった瞬間と言えるのです。
CHC通信No.31、CHC音楽教室発行、2003年7月

連載「子どもと音楽」(21)
共生と共創
 子育ての日々、大人と子どもで会話する場面は多いですね。私は、ある保護者の集いでお話をする機会を得た時、「お子さまと会話するとき、あなたの口癖は何ですか?」と尋ねてみました。そこであげられた言葉で最も多かったのは、「早くしなさい」「○○はダメ」。これらは、いずれも命令・指示・支配を意味する言葉です。命令・指示・支配の言葉は、強者が弱者に向かって、何かを「強制」するときに用いられます。大人の言動は、子どもたちが「生きるモデル」として無意識的に接しています。言葉のやりとりの中に、一方が他方を「縛り」「強制」する意図が伝えられるとき、そこでは誰かに支配され従うときの不自由な感情だけが強調されるように思われます。これらの言葉は、子ども一人ひとりの「自立」を促すことに通じているでしょうか?

 お互いに相手の尊厳を認め合うときの会話を想像してみましょう。「そうですね」「なるほど」「わかった」「素晴らしい」等。これらには「受容」「寛容」の精神が感じられます。相手を思う、共に育ち合うという態度(価値観)は、このような会話の中から生まれてくるのではないかと考えられます。

 音楽は、時間の流れの中にある一定の秩序と構成をもった存在です。美しい旋律やリズムの躍動には、心地よさが含まれています。共に音楽の躍動感を味わったとき、人は快感の中で「共に生きる」関係を過ごすのですね。アンサンブルを経験したときには、特にこの感情が強調されます。「共生と共創」の感情です。

 音楽は「強制と競争」の時間ではないのです。音楽を学ぶことは、(言葉を伴わない時間の中で)心で共生と共創の醍醐味を味わう瞬間なのです。音楽を聴き味わっている瞬間は、相手のことを思い、相手の心を感じ取り、相手と一緒に楽しむ素晴らしい瞬間なのです。

 日々の生活の中で、共創(一緒に工夫し創り上げる)の時間を過ごすことは大切です。この心は、次の世代にも伝えていきたい大切な態度(価値観)であると思うのです。
CHC通信No.32、CHC音楽教室発行、2003年12月

連載「子どもと音楽」(22)
動きと表現
 先日、知り合いを訪ねた時のことです。その愛娘Yちゃん(1歳児)がおもしろい動作をするのです。Yちゃんはまだ言葉を発することができないようです。突然、人差し指を出して「あっ」というような顔の表情をしながら、何かを指さすのです。でも、それは何を指さそうとしているのか、私にはうまく読みとれない。Yちゃんは思いもかけない時にそのポーズを繰り返すのです。同じような場面は、バイバイの仕草をするときにも見られました。
 そうした行為を観察しながら、私は、おそらくYちゃんは、動作そのものを楽しんでいるのかもしれない、と感じたのです。いまのYちゃんには、動きの意味するところにはあまり関心がないようです。

 一方、少し年齢の上の子ども(幼児や生徒など)では、挨拶をしようとするときに、なかなか「さようなら」「こんにちは」がうまく言えなかったり、動作が伴わないでまごついている場面に出会うことがあります。その子どもは、おそらく「さようなら」の気持ちを伝えるために、どのような動作を行ったら上手く伝わるのか分かっているのかもしれません。しかし、それを動作としてうまく表すことができない(これは照れや恥ずかしさに起因しているのでしょう)。時として、「さようなら」の意志を伝えることが必要だということがわからないのかもしれません(このケースも少なくない)。

 ここに上げた2つの事例は、全く次元の異なるエピソードと言えます。それぞれに発達的な課題を抱えている。私たちは、そこで表出される動作や表情のみに目を奪われてしまい、一人ひとりの成長の過程を読み取ることが難しい。
 そこでは焦りは禁物です。子どもの成長と発達の歩と共に過ごすことが重要となるのです。

 ここには音楽レッスンの方向性が隠されています。つまり、動きそのものを楽しむレベルから、やがて動きの意味を発見するレベルへと、次元が高められていくプロセスです。音楽の学習では、発達に応じて、音楽と身体の動きの関係性を見出す体験がポイントとなるのですね。

連載「子どもと音楽」(23)
変化に気づく
 時折吹く風もまだ肌寒さを感じますが、それでも3月に入って日増しに温かさが感じられるようになりました。川面の水もゆるみ、木々の芽も顔を出してきました。季節は確実に春に向かって一歩一歩近づいているのですね。自然のこうした着実な営みを思うと、本当に不思議な感じがします。
 こどもたちと共に生活をしていますと、同じような不思議を感じることがあります。生命誕生からの数年間は、特に大きな成長を辿ります。幼子が微笑んだり、寝返りやつかまり立ちをしたりする姿に触れますと、私たちは大きな喜びに包まれます。何かを指さしたり、「あー」と言葉を発したりするだけで、周囲の人々を歓びの気持ちに誘い込みます。これも子どもが持つ不思議な力だと言えます。
 これらに共通することは、それをみている主体(私)の存在です。歓びの感情は、私自身の心の姿を映し出している、ということです。
 初期の成長において身体の成長は見え易い。これに較べて、心の成長はなかなか見え難いものです。温かなまなざしを感じ取って、幼子が微笑みを返してくれるように、周囲から注がれる心地よいリズムや響きを感じ取って(幼子は)音楽の意味するところを感じ分けられるようになるのです。次第に、周囲の人々の繊細な感情と音とを重ね合わせて受け止められるようになってくる。まさに、子どもは周囲の人々の気持ちの「変化に気づく」ことによって、多くの学習をしているのです。「親の背をみて子は育つ」という諺は、大人自身が習ぶ姿を子どもたちにしっかり見せることが、学習のスタートとなることを教えてくれています。
 子どもは、周囲の大人が変化に気づき、その歓びの姿をみて、自分の周囲の様々な変化とその心情を重ね合わせていくのですね。3月は別れと旅立ちの時、4月は出会いと出発の時です。この変化と心情を子どもたちにもしっかりと伝えましょう。私はこの4月から国立音楽大学に転職することになりましたが、自ら学ぶ姿を通して、学生達と関わっていきたいと思っています。CHCの子どもたちとの関係も、これまでと同様に継続してまいります。気分一新、4月をよいスタートの瞬間にしましょう。
CHC通信No.33、CHC音楽教室発行、2004年3月

連載「子どもと音楽」(24)
アンサンブルの楽しさ、それは共に生きること
 先日、子どもたちのアンサンブル(*) の演奏を聴かせて貰う機会がありました。
  *アンサンブル(ensemble)は合奏・合唱・重奏・重唱などの演奏を指しています
 さて、独奏とアンサンブルの違いは何なのでしょうか?アンサンブルは二人以上で演奏します。ゆえにアンサンブルは一人ではできない。そこでは、お互いに息(呼吸)を合わせることが大切です。一人だけが上手くても面白くない。相手を気遣う気持ち(思いやり)が必要なのです。アンサンブルを楽しく演じるためには、相手を信じること、お互いに相手を引き立てること、一緒に演奏している人の歩み(進度)に逆らわないこと(事前の練習をしっかりして迷惑をかけないこと)などが大切です。さらに、その音楽作品は何を伝えようとしているのか、ブレスはどこでしたらよいのか、テンポはどうやって決めるか、主旋律は誰が演奏しているのか、その時にもう一人はどう演奏したらよいのか等々、互いに事前の練習で確認しておかなければならないことが少なくないのです。

 このように書くと、「独奏の方(一人気ままに演奏した方)がずっと自由で楽だな」と思う人がいるかも知れません。しかし、そう思う以上にアンサンブルは魅力的なのです。これは、一人で旅をしたり、映画を見るのも楽しいけれど、家族や仲間と一緒の方がもっと楽しいのと同じなのです。私は、アンサンブルの体験の中に、一人ひとりが自分らしく過ごすために、一人ひとりはどうしたらよいのかということ、つまり生活すること(生きること)と重なり合って見えてくるのです。

 つまり、家庭やクラスではいつも主役ばかりではない。主役になったり、脇役になったり−。わがままばかり言っていると周りの人は楽しくない。お互いに素敵に過ごすためにはどうしたらよいのか。自分の役割を理解し、それを試みてみようとすることが大切です。もし、うまくできなくても、試みようとしていることで、お互いが気持ちの通じた関係になれるのです。アンサンブルは、一緒に考えて、一緒に歩くことの楽しさを味わうのです。そして音楽に何を込めるのか、それを言葉ではない言葉で(呼吸を合わせて)一緒に語るのです。
CHC通信No.34、CHC音楽教室発行、2004年7月