連載「子どもと音楽」(47)
親の願い

 昨夏の保護者の皆様の文章を拝読させていただきました。その文章を読み終え、「音楽を好きな子どもに育って欲しい」という強い気持ちを感じ取ることができました。

 「大人になってからでは絶対音感が身に付いていないと言うことで、とてもハードルを高く感じてしまう。子どもが何かやりたいと思ったときにすんなり入っていけるように、音楽的な下地を作ってあげたい」と述べられたお母さん。
 子どもの姿を見て「音楽がとても好きなのは確かです」と述べられているのが、とても印象的で、心強く感じました。
 
 「子どもの頃はみんな音楽が大好きだったと思います。(でも)いつの間にか違いが出来てしまって、……自分が辛かったことは味わってほしくない。」という言葉。

 「どのようにしていけば音楽が嫌いな子供にならないのでしょうか」という言葉も、いずれも音楽好きで長く音楽と関わって、生きる自信や支えにしてほしいという願いを読み取ることができるように思われます。

 「好きこそものの上手なれ」。その意味は、好きであれば執拗に物事に取り組むことができ、やがてその本質に迫ることができる。
 つまり、「好き」は学習の最も基礎になる条件であると思われます。
 リトミックも、まずは子どもが心から音楽に「楽しんで」参加し、その喜びの経験を「学び」の機会としたいというアイデアに他なりません。その意味でも、保護者の皆様の文章を拝見させて頂き、初期経験の重要性を今更のように再認識している次第です。

 加えて、保護者の皆様の文章から、楽しさの中に知的な経験をどのように並行して行えばよいのか−この点に関する期待とも言えるお言葉を拝見致しました。これは私どもの永遠の命題でもあります。

 譜が読めたり、ピアノをうまく弾けたりできることは、とても知的な作業だと思います。ダルクローズも指摘しているように、その知的な作業の基礎には、感情的な体験や筋肉感覚的な経験が欠かせないように思われます。
 新しい学習をするときには、どうしてもこれまでに経験したことのあることと較べながら、そこに関連性(意味)をもたせながら新たな知識を位置づけているのだとも言えます。記憶ゲームにしても、バラバラに存在していたのではなかなか覚えられません。そこに何らかの関連性や秩序が見いだせたら、記憶もどんなにかやり易いことでしょう。

 少々大げさかも知れませんが、“知識に血が通ってくると、その知識は生活に活かされるようになる。”音楽が生活の中に活かされるように感覚的に知的に援助すること−これが私どもの大切な役目だと考える次第です。
 いろいろな思いを託して書いていただいた昨夏の文章から、私どもも多くの事を学ぶことが出来ました。本当にご苦労をおかけしました。有難うございました。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
CHC通信(1994年7月)

連載「子どもと音楽」(48)
共感と共生の心で

 ここでは最近出会った出来事から一言述べてみたいと思います。
 その一つは、ある研修会での話題から。研修会では、福祉の過去と現在の相違について触れられました。その話の趣旨はおよそ次のようなものでした。

 概して、過去の福祉は、貧困からの脱却を目指して行われてきたが、現在の福祉は、自立・共生を目指して行われている、とのこと。時代の流れの中で、一人一人の持てる力を十分に出し合いながら、共に支え合いながら生きることの大切さを説かれたのです。
 つまり、現代は、縦の関係よりも横の関係作りを重視しようとするものだと言えましょう。

 二つ目は、子育てに関する事でした。先日、偶然にもテレビを見ていましたら、赤ちゃんが泣いている時にどの様に対応したらよいのか、という番組をしていました。興味深いテーマだったので、最後まで視聴しました。

 要約すると、赤ちゃんが泣いているというのは、ストレスの症状なのだそうです。おしめを替えて欲しくても、自分では何もできない、物にさわりたくても自分では取れない等のように、赤ちゃんは自分で自分の意思を遂行することが十分に出来ない。それゆえにストレスがたまり、泣くのだそうです。その泣いている赤ちゃんの姿に対応する大人の姿も様々です。
 @泣いている場面で、そのまま大人が知らぬ顔している→意地悪で、表情の欠いた姿に育っていく。
 A泣いているのを止めるため、おしゃぶりを与えたり、必要以上に食べ物を与えたりしている→赤ちゃんは独占欲の強い姿に育っていく。
 B番組の推奨する対応は、泣いている赤ちゃんを抱き上げ、スキンシップをしっかりして、いま必要な欲求(寝たいのか、お腹がすいているのか、おしっこをしたのかなど)に手助けをしてあげる事なのだそうです。言葉のわからない赤ちゃんに、笑顔で語りかけてあげることもとても重要な行為だとも伝えていました。

 確かに、その通りだと思います。みんな、わかっているのだけど、この理想の姿を見失わないで安定して行動することはなかなか難しいことです。この事を深く認識して、その理想の姿を見失わないように取り組み、習慣化すること−これは大人の重要な態度だと思います。

 どの年齢であっても、「共感の心」で関わることはとても大切な態度です。この「共感の態度」を学ぶのも、幼少の時期の経験が大きく影響するのだと考えられます。

 さて、私たちの現実場面に目を移してみましょう。子ども達は、平素のリトミック・レッスンの中で、遊び感覚を通して音楽に親しみ、音楽の楽しさに触れています。この「親しみ」や「楽しさ」を味わうことは、成長において大きなエネルギーになると思われます。と同時に、グループで行うリトミックレッスンでは、“音楽を共有し、学びあう関係”という大切な経験を含んでいると思います。

 子ども達の将来を思うとき、温かい人間関係の中で、それぞれの持ち味が醸し出されるような空間の中で過ごしていきたいものです。その生活の中では、自分を抑制しなければならない場面もあるでしょう。でも、その我慢はきっと数倍の喜びになって自分に戻ってくるような空間。そんな素敵な時間をすごしたいと思うのです。
CHC通信(1997年10月)

連載「子どもと音楽」(49)
WEの世界

 先日の出来事です。小学校4年生では「社会」の中でゴミ焼却場や浄水場を見学して、生活にまつわる身近な問題に触れます。小学生は見学を終えて、教室で様々な事実を報告しあっていました。
「ゴミ収集車が1日に集めてくるゴミの量は相当の量になる」「焼却場のエントツの高さは百メートルもある」「ゴミを燃やす時の温度は900度にもなる」等々、子どもたちは実によく観察し記録していました。

 しかし問題はその後です。先生が「焼却場で働いている人は何をしておられたの?」と質問。それに対して子どもたちは「大人の人は制御室の椅子に座って計器を見ていた」「ゴミの仕分けは機械がしていて人は少なかった」等々。確かに、これも事実でしょう。
 とにもかくにも、その教室では、子どもたちから、なかなかゴミ収拾をしてくださる皆さんの汗や苦労などを感じ取った言葉が出てこなかったのです。

 私たちは「ゴミを少なくしよう」「ゴミを拾おう」「水は大切に」等と唱えているものの、その見えないところでモノを粗末にしたり、乱暴に取り扱ったりしている。また、私たちの出したゴミによって私たち自身が困る状況を生んでいることに気付かないでいることがある。
 そこである研究者の叙述を思い出しました。

 『子どもは初め「I(私)」の世界に生きている。その後、幼児期に様々な遊びや生活経験を通して「I(私)とYOU(あなた)」という二人称の関係の中で生きる。その過程を経た後に子どもは「WE(私たち)」の世界を形成していくのだが、その「WE」の形成には人間関係がきわめて重要な役割を成す。』(以上、神原が要約)

 前述の子どもたちの言葉からは、目の前の人(YOU)の気持ちが十分に読みとれないでいる状況があります。この背景には、人やものとの関係性の希薄な状況が考えられます。その意味でも、自分とは無縁と思われる事柄が、実はよく考えてみると自分と深いと関わりがある、ということを認識することは重要なことと思われます。
 言い換えるなら、「あなたが嬉しく思うことは、私にとっても嬉しい」「あなたの心の痛みは私にとっても辛い」という感情を知ること。相手が快い感情を抱いたり、みんなが嫌な思いをしないように、という心遣いとその表現の仕方を学ぶことも、誰もが経験しなければならない大切なことであると考えます。なぜなら、心の理解(見えないもの)は、表現(見えるもの)されてはじめて感じ取ることができるのですから。

 音楽はみんなの心を和ませたり、あるいは様々な思い(感情)を表現したりする不思議な力を持っています。その音楽による自己表現力を高めることは、前述のWEの世界を形成するための基礎的な経験になると考えられるのです。
CHC通信_16号(1998年7月)

連載「子どもと音楽」(50)
1歳児と過ごした素敵な時間

 つい最近、ある公民館で「親子のリトミック」をする機会がありました。対象は1歳前後の幼児(乳児?)とそのお母さん15組でした。
 1歳児といえば、ほとんど喋りませんし、歩くのもやっと(まだハイハイしていいる子も少なくなかったのです)。そこでリトミック? 私自身、このような場面を経験したことがなかったので、その時間がくるまで戦々恐々の気持ちでおりました。

 さて、約束の時間近くになりますと、あちこちから親子がやってきました。年長児のように、「はいリトミックしましょう」というわけにはいきません。そこで、あらかじめ準備しておいた新聞紙を手がかりに、新聞を自由にちぎったり、丸めたり−。やがて幼児はそれぞれに好きな行動を行い始めるのです。その自然発生的な行為を手がかりにして、新聞紙を振ったり、それを持って歩いたり−。その様子を見守りながら、お母さん方と一緒に新聞紙で紙風船や紙鉄砲を作りましたが、お母さん達もその製作(?)に夢中。幼児と同じ素材(新聞紙)を手がかりに大人も遊んでいると、幼児もその行為を真似し始めるのです。まるで遊びが空気伝染(伝承)されていくように−。

 こうして気持ちが和んだとき、ピアノの音楽に合わせて親子で一緒に身体を揺すったり、止まったりしましたら、一人の幼児が立ち上がって踊り(?)始めたのです。
 ぴったりと音楽に反応して、まるで音楽が身体の一部から奏でられているかのような動きで−。「安心感」が子ども達の遊びを豊かにしてくれたのだと思います。

 乳幼児は、親の愛情と場の雰囲気、そして音楽の抑揚を敏感に感じ取っている(乳幼児の感性はこうしてはぐくまれる)−こうして私は1歳児たちと共に素敵な時間を過ごしたのです。
CHC通信_17号(1998年12月)

連載「子どもと音楽」(51)
意欲を育む
 

 子どもは生来的に意欲に満ちた存在です。その意欲は、遊びや生活のさまざまな場面で発揮されますが、とりわけそこでの大人の役割は、(子どもが)意欲を失わないで遊びに取り組むことができるように「環境を整える」ことでしょう。子どもが安心して過ごせる空間は「意欲の吹き出す土壌」となります。子どもはこの安心空間を基地として、さまざまな興味や関心を開花させ、持てる感覚を駆使して自分の想いを膨らませるのです。そして、意欲はチャレンジ精神(勇気)の芽となり、優しさや思いやりの心の芽になるのだと考えられます。

 しかしながら、大人が「子どもに良かれ」と思ってしていることが、実際には子どもにとって大きな障害になっていることも少なくありません。たとえば、子どもがボタンをはめようと苦闘している姿をみて、すぐに手を出してしまう大人は、子どもの学習機会を奪っていることに気づかないでいる。ここでは子どもの苦闘を「温かく見守る態度」が重要です。

 子どもの意欲や意志を最大限に尊重することは、子どもの主体的な態度と責任感、チャレンジする勇気や粘り強さを育む原動力となるのです。当然のことですが、その遊びが周囲に及ぼす影響にも配慮しなければなりません。その気くばりの中で、我慢することや他者と共存することの意味も感じ取ることでしょう。才能や可能性は、それらの後を追うようにして伸びてくるのです。

 意欲に溢れた子ども、それは輝ける存在です。子どもの日々の生活は、未知なることに対する小さなチャレンジの連続でもあります。その小さな勇気を励まし、大きな勇気を育てること−これは子どもの教育を考える上で特に重要なポイントとなると思うのです。
CHC通信_18号(1999年3月)

連載「子どもと音楽」(52)
Yちゃんの指さし動作から

 先日、Yちゃん(1歳児)の指さし行動に遭遇しました。そのとき、Yちゃんは人差し指を出して「あっ」というような顔の表情をしながら、何かを指さすのです。でも、それは何を指さそうとしているの、私には分からない。Yちゃんは思いもかけない時にそのポーズを繰り返すのです。
 同じような行為は、バイバイの仕草をするときにも見られたのです。本来、バイバイの仕草は別れの場面で行われるものですが、その1歳児は偶発的にバイバイの行為を行うのです。

 そうした行為を観察しながら、私は、おそらくYちゃんは、指を差し出す行為、あるいはバイバイをする行為そのものを楽しんでいるのだろうと感じたのです。むしろ、いまのYちゃんには、動きの意味するところにはあまり関心がないように思われたのです。

 その一方で、例えば少し年齢の上の者(例えば児童生徒など)が挨拶をしようとするとき、なかなか「さようなら」「こんにちは」が上手く言えなかったり、動作が伴わなかったりする場面に出会うことがあります。その生徒達は、おそらく「さようなら」の意志を伝えるためにどのような行為を行ったらうまく伝わるのかということは分かっているのだろうと思われるのですが、それを行為として表すことができない(これは照れや恥ずかしさに起因しているのかも知れません)。あるいは、そこで「さようなら」の意志を伝えることが必要だということがわからないのかもしれません(このケースも少なくない)。

 ここに挙げた2つの事例は全く次元の異なるエピソードと言えます。ここには音楽レッスンの方向が隠されている。つまり、動きそのものを楽しむレベルから、やがて動きの意味を発見するレベルへと高められていくのです。そこでは焦りは禁物。子どもの成長と発達の歩みとともに過ごすことが重要となるのです。
CHC通信_20号(1999年12月)

連載「子どもと音楽」(53)
子どもの遊びをめぐって
 

 今日的な教育課題である「子どもの生きる力の育成」を考えるとき、「遊び」は看過されません。
 たとえば、遊びの中には、自己問題解決能力をはぐくむ重要なチャンスが含まれている。子ども自らがイメージを膨らませたり、他者との関わりを楽しいと実感する感情は、遊びを通して育まれるのであり、これは自己実現を味わう空間になると考えられます。

 しかし最近、子どもの遊びの質が変化していると言われています。特に、戸外遊びが減少し、室内で遊ぶ子どもが増え、それは低年齢化の傾向にあると。小学生の場合は、塾などの影響もあるでしょう。少子化や核家族化、共働きなどび影響も無縁ではありません。
 ここで私は、子どももたちの遊びの変化を憂いているのではありません。むしろ、その背景にある“大人と子どもの関係性の希薄化”に着目したいと思うのです。

 先日、私はA保健センター主催の『親子ふれあい教室』に参加する機会がありました。その教室の殆どの時間は母子のふれあい遊びに充てられましたが、その会の終盤に参加者から「普段の子育てで困っていること」を互いに聴きあう時間が設けられました。母親からは、次のような意見が出されました。
 「特に、室内では子ども(1歳半)と何をして遊んでよいかわからない。」
 「子ども(2歳)と会話がはずまない。楽しくない。」
 「人見知りをしてしまうわが子に、どう対応したらよいかわからない」
など。これは一例です。

 ここには、既に乳児期における大人と子どもの人間関係の希薄化が読みとられます。ここには、遊び(学習)の発達を抑制する要因が潜んでいるように思われます。つまり、遊びが伝承されにくい状況が、既に乳幼児に芽生えている。

 かつてホイジンガやカイヨワは、遊びは子どもの「自由な活動」と指摘しました。しかし、語彙獲得の過程で周囲の大人の会話を真似る経験が重要であるように、周囲の者の遊びを傍観したり、真似たりすることが、遊びの動機付けに欠かせません。
 乳幼児期は、精神的独立や周囲の者や物に対する興味や関心を抱く大切な時期です。前述した母親の「困っていること」は、人間関係という磁力の弱い大人が少なくないことを物語っています。
 子どもの「生きる力」を考えるとき、実は私たち大人の生き方が問われています。子どもを取り囲む大人同士が、共に手を取りあう必要がある、と私は思うのです。
CHC通信_21号(2000年4月)