連載「子どもと音楽」(54)
感性と理解を支える「からだ」の役割
 春になりました。季節は確実に巡ってきます。4月になると、冬の厳しさを乗り越えいっせいに芽吹き、美しい花々を咲かせてくれます。花々が美しい花びらを咲かせる前には、冬の寒さをじっと絶えている時期があるのですね。これは私たちの人生にも通じているように思えます。こう思うのは、私が歳を重ねたせいなのかもしれません。
 さて、古い時代(日本でも諸外国でも)から、音楽は、天文学や算術(いわゆる読み書きそろばん)と並んで、学習の中で重要な役割を果たしてきました。しかし、その学習を継続していくことは容易なことでは在りません。途中で投げ出したくなることもあります。あきらめの気持ちを乗り越えていくためには、喜びの体験を持つことがポイントです。

 学習の過程は、次のような4つの段階がある、と私は考えています。
 第1段階は、音楽との「出会い」です。幼少期の音楽(音楽だけに限りません)との出会いは重要です。偏った体験は、将来の体験の幅を狭めてしまいます。さまざまなタイプの音楽と柔軟にかかわることがポイントです。
 第2段階は、「楽しむ」ことです。音楽の学習に限らず、学習が「楽しい」「面白い」「不思議だな」などの感情を持つことが重要です。途中であきらめない、継続的な学習の基礎には、こうしたプラス感情が不可欠なのだといえます。
 第3段階は、「理解する」ことです。情緒的に音楽を楽しむことは誰でも可能です。その体験に加えて、音楽の仕組みを理解したり、音楽の違いを明確に聴き分けることのできる耳を育てることは、高度な学習に導くために重要な段階になるのです。
 第4段階は、「馴染む」のです。反復的な体験が、私たちの気持ちを自由にしてくれます。理解したことを、からだの一部に定着させることでもあります。この馴染む感覚が、人の心を豊かにし、幸福感を導いてくれるのだと考えられます。

 @出会い→A楽しむ→B理解する→C馴染む。 この全体を支えているのは、「からだ」なのです。私たちの「からだ」は、感性や理解のための基地のような存在です。
 リトミックを創案したダルクローズは、「からだ」を通じた全人的教育を目指しました。ダルクローズの理念に基づく教育を展開している広島音楽アカデミーは、全人的な音楽学習のための空間です。リトミックもピアノもヴァイオリンも、同じ志を持った教師チームによって行われるところにも特徴があります。

 “音楽は私たちの心を豊かにし、幸福感を導いてくれる貴重な存在”です。アカデミーでは、共に音楽する豊かさを味わい、(子どもも大人も)共に成長できる場つくりに努めたいと思います。皆様の格別のご理解とご高配を宜しくお願い申し上げます。
Sottovoce(2009)広島音楽アカデミー月報4月号

連載「子どもと音楽」(55)
共に音楽の魅力に触れよう
 国立(くにたち)音楽大学に入学した新入生は、入学後の翌日から2週間、『基礎ゼミ』という大学導入教育プログラムを受講します。このプログラムには、教員の熱い思いが込められています。
 例えば、今年のプログラムの一つは、(くにたち教員や卒業後第一線で活躍しておられる演奏者で編成された)オーケストラの生演奏で、ムソルグスキー作曲の『展覧会の絵』(ラヴェル編)を聴き、ロシア音楽の真髄に触れます。その音楽のモデルとなった建物や生活の絵画を観て、作者が作品に込めた心情をイメージします。
 別のプログラムでは、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を鑑賞しました。
 いずれも第一線で活躍している先生方の熱のこもった演奏に触れます。
 このほかにも「作曲とは何なのか?」、「百年前の音楽学生は?」、「電子オルガンの可能性」等など、多様なレクチャーに触れます。
 いずれも音楽の本質に迫るオリジナルな語り口調に触れ、仲間と意見を交わし、音楽の魅力に触れるのです。こうして新入生は、大学生活の目標や課題を見出すのです。

 これらのプログラムに共通しているのは、“音楽には、伝えたいものがある”ということに気づくことです。そのメッセージを読み取る(感じ取る)ことは、音楽の学習に欠かせないのです。同じ旋律を奏でるときにも、それを演じる人の心の行き先が異なっている場合、意味合いが異なってくるのです。ここに音楽の面白さがある。

 「演奏者と聴衆」「教師と学生」「大人と子ども」。それぞれは“対”として語られます。
 しかし、音楽の学習は、そうした一方向的なものではありません。前述の「基礎ゼミ」のプログラムも同じように映るかもしれません。しかし、私たちの思いは少し違います。むしろ、音楽する同士(仲間)として、音楽の魅力を交し合いたいのです。
 
 CHC音楽教室では、子どもたちと一緒に音楽を学びます。大人も(教師や保護者も)共に音楽の魅力に気づく空間でもあります。私たち大人が音楽に親しんでいる姿をみて、子どもたちも音楽の魅力に気づくのです。共に学び、共に音楽する心を育みましょう。
CHC通信,第48号,CHC音楽教室発行,2009年4月

連載「子どもと音楽」(56)
自分を表現する術を持とう
 かの有名な芸術家、岡本太郎は「芸術は爆発だ」と唱えて多くの注目を浴びました。現代的な作風(抽象絵画や抽象彫刻)で有名な彼は、人の情念のような外にあふれ出ようとする“内なるエネルギー”を芸術の真髄と考えたようです。これは、古今東西の音楽に込められた魂(spirits)に通じるものと考えられます。

 特に、20世紀に入って、従来の(調性的な)音楽的秩序を壊し、新しい様式を模索しようとする傾向が助長されていきました。その結果、現代の音楽は多様な様式が混在しています。作曲者の作風が一人ひとり異なるという状況がそれを物語っています。
 このような現代音楽の混沌とした状況と比べると、ルネサンス期やバロック時代の古い時代は、音楽の枠組みが明確で、作曲手法も少ない。どの作曲者の作品を聴いても同じような印象を受けます。そうした意味では、学習者は現代の多様な手法を学ぶ私たちと比べて容易だったかもしれません。しかし、古い時代にそれを学ぶための教育システムは殆ど無かったようです。多くの人は表現する手段を持ち得ず、一方的に受け入れるしかなかった。

 均一な価値観で覆われた時代と、多様な価値観が混在した時代。さて、どちらが人々にとって幸せなのでしょうか。人の心は十人十色と言われます。万人が幸せを感じられるような社会を作りだすことは難しいのでしょうか。
 私たちは他者に支配されて生き続けることはできません。自立的に、自分らしく生きることが重要です。そこでは他者と共存していくこと(協調しあうこと、譲り合うこと)も賢い生き方といえます。

 多様な音楽の表現手法を学ぶ過程では、内なるエネルギー(情念)を燃やし続けること、そしてそれと同じくらい他者の立場に立って感じとることが欠かせません。要は、バランス感覚が重要となります。そこで私たちは、自分を生きるために、自分を表現する術(すべ)を持つことが大切なのだと思います。
CHC通信,第49号,CHC音楽教室発行,2009年7月
連載「子どもと音楽」(57)
プロフェッショナルな生き方
 NHKで『プロフェッショナル』という番組が放映され、高い支持を得ているようです。匠と呼ばれる知恵とワザを持った人々の姿を通して、仕事の奥深さ、働くことの醍醐味を伝えています。http://www.nhk.or.jp/professional/index3.html。
 プロとアマの違いは何なのでしょうか?
 その違いは、匠と呼ばれる技(ワザ)で生計を立てているかどうか。そのこと以上に、匠たちは一人ひとりが、人並みはずれた身体技法を備えているという点にある、と私は思うのです。

 音楽の世界に目を向けてみましょう。アマチュア演奏家のレベルは高く、プロ顔負けの素晴らしい演奏を披露してくれる者も少なくない。全国にはアマチュアのオーケストラや合唱団が編成されているし、東大や早大等にはピアノサークルもあるそうです。アマチュアバンドの中にはオリジナル楽曲を創作し、演奏する者もあり、このアマチュアたちの中にはプロに転向していく者も少なくないようです。例えば、メロディーメイカーの小椋桂も銀行員をしながら楽曲を作り、やがて独立しました。彼らは当初、皆アマチュアだったのです。音大生も例外ではありません。

 アマチュアで活動を始め、それを継続していくためには「動機要因」と「継続要因」があるという(西本夏生,2009)。「動機要因」は憧れの演奏家や音楽に感動した体験、演奏したい作品との出会いなど。「継続要因」は尊敬できる師や、発表機会を持ち、そこで成功体験を持つこと、学習仲間の存在、そして経済的支援と周囲の温かな声援など。こうした要因が重なり合って、アマチュア演奏家は音楽を継続していくことが可能となる、というのです。確かにその通りです。

 ここで私は思うのです。これら多様な要因は、心の底から音楽を愛する感情や、高い質の音楽を求めようとする態度を強化している。そして、究極の身体技法に気づき、物事の本質と真正面から向かい合うことができるようになる。つまり、自己実現による幸福感を感じ得るかどうか。その本質との対峙への強い“こだわり”と深く関係しているように思うのです。
 前述の匠たちは、そのこだわりの象徴的存在なのです。その生き様に感化(刺激)されて、私たちは勇気と希望を得るのです。
CHC通信,第50号,CHC音楽教室発行,2009年12月
連載「子どもと音楽」(58)
感謝の気持ちをはぐくむこと
  ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで難関を乗り越えて優勝した辻井伸行さんは、盲目というハンディキャップを感じさせない、豊かな音楽性を備えた素晴らしいピアニストです。これは快挙です。彼の演奏は、多くの人々に感動と勇気を与えています。

 さて、彼の優勝という偉業を、盲目という障害を超えたことに因るものとしてみることもできますが、それは彼にはふさわしくないように思われます。彼が凄いのは、音楽性の豊かさ、音楽に対する真摯な姿、そして演奏の背後で蓄積した人並みはずれた努力が、多くの人々の心を掴んで離さないのだろうと思うのです。
 ここには、スポーツする人が自らの限界に挑戦している姿と共通するものがあるように思います。(スポーツ選手が)記録の壁を乗り越えようと努力している姿の中に、人々は何ものにもかえがたい勇気と感動を得るのです。辻井さんやスポーツ選手に共通しているのは、自分の記録に挑戦し、そのために必死で練習を重ねている姿です。
 そして、もう一つ重要なことは、彼らは自分の成果を謙虚に受け止め、周囲で支えてくださった人々への感謝の気持ちを大切にしているということです。もし、彼らの心中に感謝の気持ちがなかったとしたら、(彼らの成績が優れていたとしても)感動や賞賛の気持ちは失せてしまうでしょう。もし、傲慢な態度や他者の非難という姿をみたとしたら、反感すら抱いてしまいます。こう思うのは私だけではないでしょう。

 人が成長する過程で、感謝の心を学ぶことは重要です。感謝の心は、周囲の人々の気持ちを優しくし、共感の気持ちを誘い出すのです。子どもたちの学習に目を向けてみましょう。子どもたちが日々の学習で行っていることは、自分の前に立ちはだかる壁(課題)への挑戦です。子どもたちは、皆、自分の可能性を拓こうと挑戦している勇者なのです。
 しかし、時に、脆くも心を打ち砕かれ、その辛さに耐えなければならないときもあります。その時に、そばに居る大人の存在は特に重要です。子どもが自信を喪失し、その辛さを乗り越え、立ちあがろうとする気持ちを支えてくれる人の存在です。つまり、感謝の気持ちは、自ら課題に向かって努力すること、そして周囲の人の温かな気持ちの両方を知ることによって育まれるのではないかと思うのです。

 音楽は私たちの心(情緒)を豊かにし、幸福感を導いてくれる知的財です。広島音楽アカデミーでは、音楽の豊かさと音楽に含まれる深遠な価値を味わいたいと思います。その学習過程では、周りの人への感謝の気持ちも一緒に育んでいきましょう。皆様の格別のご理解とご指導を宜しくお願い申し上げます。
広島音楽アカデミー月報4月号(2010)