連載「子どもと音楽」(64)
学びは幸せを実感するため
 2011年は忘れられない歳となりました。3月の東日本大震災から10か月が過ぎましたが、地震と津波がもたらした被害は甚大です。原発事故の影響も続いており、広い地域に放射能が拡散し、その収束の見通しも不透明です。辛く悲しい思いを抱えたまま年越しを迎えられた方は少なくありません。この事態に私自身は情けないほどに無力です。早い復帰復興を祈るばかりです。

 こうした中でボランティアの輪が広がり、多くの方々が寸暇をみつけて労を届けておられます。それは世界からも―。このような姿を見るにつけて、日本の若者もなかなかいいぞ、と感じるのは私だけではないと思います。自分のできることで共に苦難に立ち向かい、支えあう。こういう温かな心意気は感動を誘います。
 振り返ってみますと、震災後の混乱の中、被災者の多くが寝食の不自由さを克服するのに精一杯。最近では、精神的な不安や孤独の辛さといった問題に直面しておられるようです。周囲の人の存在が重要なのだと思います。音楽はこうしたときに大きなちから(価値)を発揮します。

 ハバード・リードというアメリカの教育学者は、著書『芸術による教育』の中で「人は幸せになるために学ぶ」と説いています。能の研究家指導家として有名な世阿弥は「態(わざ)を得ること」が重要だと説いています。態(わざ)とは心意気のようなもの。わざと心の密な関係を重視しました。さらに、教育学者である佐藤学さん(東大教授、広島県出身)は、現代人の身体技法の衰えを指摘しています。身体技法は身体感覚に含まれるセンスのようなものと言い換えることができます。

 生活の情報化や現代化は、私たちの生活や価値を一変させ、同時に私たちの感性まで変えています。人がものごとを考える糸口は私たちの感覚の中にあることを指摘しているのです。周囲のヒトやモノと自分が繋がったときに(学びの価値が)実感されるのだろう。学び(探求)の喜びはここにあると私は考えています。ヒトやモノとつながった時、人は幸せを感じ、希望を持つことができるのだと思うのです。震災を通して新たな気づきがありました。
CHC通信,第56号,CHC音楽教室発行,2012年1月
連載「子どもと音楽」(65)
共に、できることで、参加すること
 あの東日本大震災から一年余りが経ちました。今でもあの惨状が目に浮かびます。昨年の日本はその対応に追われた年であったように思います。日々の生活では未だに(震災や放射能の影響で)辛い思いを抱えておられる方々が多くおられることを忘れることはできません。一日も早い復興を願わずにはいられません。同時に、震災は、日々の何気ない生活を過ごすことができることが如何にありがたいことであるか、私たちに改めて気づかせてくれたように思います。

 こうした窮状の中で、いろいろな場面で生活改善のための様々な工夫が見られます。支援の輪はそうした取り組みと言えます。問題を解決のために、智恵を絞り、協力し、そして共に喜びを交わす。智恵(学び)を出し合うためには問題を明確化することが必要です。その中で自分のできる範囲でアイデアを出し合う(具現化する)。そこでは「共に」「自分のできることで」「参加する」ことが肝要です。

 特別なニーズを抱えた子どもたちとのかかわりの中でも、この視点が有効だと思います。障害を抱えながらもその中で参加できることは何なのか。自立して生きる方途を共に探し出すことが重要です。参加すると楽しくなります。お互いを認め合えたら仲良くなれます。

 私たちの普段の生活でも、年齢や障害という壁を越えてこの発想は活かされます。音楽を奏でる(学ぶ)とき、音楽という空間の中で、共に奏で、共にリズムにノル、そして共に旋律を歌うのです。自分のできることで。言うまでもなく、私たち大人は、子どもの前に先回りして道筋を指し示す人なのではないのです。共に課題に向かい、共に感じ、考え、楽しみ、そして共に解決のため夢を広げる協働者なのです。そして喜びを分かち合う。

 ちなみに、CHCの取り組み、特に「東広島青少年オーケストラ」は、協働者の広がりを生み出していく活動なのだと言えます。こうした協働の音楽活動を通して、一人ひとりは皆、生きていることの喜びを分かち合う大切な人なのだ、という思いを交わしていきたいのです。
CHC通信,第57号,CHC音楽教室発行,2012年4月
連載「子どもと音楽」(66)
「沈黙」について

 先日のことです。ある授業の中で「沈黙」について考える機会がありました。
 例えば、授業中、先生から質問されて答えられない。その時の沈黙。言葉が詰まって辛い瞬間です。短い時間も長く感じてしまいます。
 別の例で。演奏会で素晴らしい演奏を聴き終えた瞬間、シーンと一瞬時間が止まったかのような沈黙の時間。このときの沈黙は、感動的で、何ともイイ感じです。
 このように「沈黙」にはいろいろな状況があります。

 現代音楽の作曲家ジョン・ケージは、「沈黙」をテーマにした素晴らしい作品を描きました。《4分33秒》は、音楽界に大きなインパクトを与えました。
 カナダの作曲家マリー・シェーファーは、〈サウンド・スケープ〉という考え方を提唱して、従来の〈音楽〉という概念を転換するような実践を行いました。つまり、私たちの周囲にあるさまざまな環境音を〈音楽〉として聴き、身近な音素材を用いて〈音楽〉を創作したりしています。
 リトミックの創始者であるジャック=ダルクローズも、「沈黙」の意味について述べています。

 「私たちの生活は、活動と休息によって構成されている。美術作品は線と空白で、建築では均整のとれた形の繰り返しとその間にある空間で、音楽では音のあるところと無いところで。それぞれ沈黙を暗示する箇所がある。」(ダルクローズ著『音楽と人間』より)

 私たちも沈黙を経験しています。誰かとお喋りしているとき、皆が突然黙ってしまう瞬間があります。そのとき私たちは、今までお喋りしていた話を振り返ったり、うなずいたり、イヤな思いをしたり、まったく別のことが閃いたり、次にお喋りしようとすることを考えたり・・・。このように、沈黙の中には様々な感情が含まれています。
 沈黙は、音楽の中の休息と言えますが、その休息で、私たちは安堵したり、熟考したり、気分を新たにしたり、喜びや悲しみあるいは怒りの感情を深めたり、いろいろな心の動きを含んでいるのです。まさに、音楽の沈黙の中に、自分の心が映し出されるのです。

 日本には良い諺があります。「雄弁は銀、沈黙は金」。沈黙は、深い理解、想像や創造をしようとするときに欠かせないことなのです。
 沈黙には深い意味が隠されているようです。

CHC通信,第58号,CHC音楽教室発行,2012年7月