私たち大人は、(現代の)子どもたちに何をしてあげられるのでしょうか。
ここでは、この点について考えてみたいと思います。
現代はとても便利な世の中になってきました。電話やテレビをはじめ、新幹線や飛行機も格段に性能が良くなり利便性も高まっています。その便利さの傍らで、私たちが失ってきたものは何か? それを象徴する言葉として、少し前では「三無主義(無気力、無関心、無感動)」が聞かれました。最近では「学級崩壊」「家庭崩壊」などがキーワードと言えるでしょう。おそらく近い将来には「学力崩壊」などの言葉が頻繁に聞かれるようになるのではないかと考えられます。
これらの問題の底辺に横たわっている病巣は何なのでしょうか? その背景を考えてみるとき、多くの識者が触れられているように、他者との関係性の希薄化が浮かんできます。要は、何らかの関わりを通して、他者と共感できる経験を持てたか、あるいは他者に自分の意図を伝えられたか、あるいは他者の思いを読みとり感じ取ることができたか、などの点に帰着するように思われるのです。
つまり、人間関係の希薄化を解く鍵は、他者とコミュニケートするための手だてを持てるかどうかがポイントになると考えられるのです。表現活動、とりわけ音楽学習の役割はこの点にあると言えましょう。言い換えるなら、学習は「頭でわかる」と同時に「腹でわかる」ことが大切なのだと言えます。
この点について、リトミックの創始者ダルクローズは「心と体の一致・調和」をめざすことが大切と説きました。一人ひとりが自らの感性で「感じ取る」ことの重要性を指摘したのです。
子ども自らが考え、感じる習慣を育むために、私たち大人はどうしたらよいのでしょうか? 一つは、例えば(学習の過程で)大人が結果を先取りして、子どもに小さな失敗をさせないようにするのではないということです。むしろ、小さな失敗(つまずき)を起点にして、子どもと共にその原因を見つめ、考え、挑戦し、成功感を共に味わえるような関係作りが求められていると言えます。
人は様々な会話(言語)を通じて心を通わすことができます。同じように、音楽を通じて心のキャッチボールを行うことも出来ます。リトミックやピアノの時間は、そうした音楽による心のキャッチボールを通じて、音楽を理解したり、人の心を感じ取ったりする貴重な機会となるのです。
ダルクローズは次のような言葉も残しています。「学習の後で「私は知っている」というのではなく、「私は経験した」と言える」ような教育をめざす−と。
三無主義も学級崩壊も突然生まれてくるのではありません。それには、小さな芽があるのです。周囲のものの意味を「感じる」ことの無い生活は、喜びを味わう機会の少ない日々と言えます。その意味でも、私たちは、音楽表現活動を通じて、喜びと感謝の気持ちに包まれた「人が好きな」人に囲まれて過ごしたいのです。私は、そういう大人でありたいと思うのです。
アカデミー月報 5月号 (広島音楽アカデミー発行、2000/5/1)
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