連載「子どもと音楽」(7)
私たちにできることは?


 私たち大人は、(現代の)子どもたちに何をしてあげられるのでしょうか。
 ここでは、この点について考えてみたいと思います。

 現代はとても便利な世の中になってきました。電話やテレビをはじめ、新幹線や飛行機も格段に性能が良くなり利便性も高まっています。その便利さの傍らで、私たちが失ってきたものは何か? それを象徴する言葉として、少し前では「三無主義(無気力、無関心、無感動)」が聞かれました。最近では「学級崩壊」「家庭崩壊」などがキーワードと言えるでしょう。おそらく近い将来には「学力崩壊」などの言葉が頻繁に聞かれるようになるのではないかと考えられます。

 これらの問題の底辺に横たわっている病巣は何なのでしょうか? その背景を考えてみるとき、多くの識者が触れられているように、他者との関係性の希薄化が浮かんできます。要は、何らかの関わりを通して、他者と共感できる経験を持てたか、あるいは他者に自分の意図を伝えられたか、あるいは他者の思いを読みとり感じ取ることができたか、などの点に帰着するように思われるのです。

 つまり、人間関係の希薄化を解く鍵は、他者とコミュニケートするための手だてを持てるかどうかがポイントになると考えられるのです。表現活動、とりわけ音楽学習の役割はこの点にあると言えましょう。言い換えるなら、学習は「頭でわかる」と同時に「腹でわかる」ことが大切なのだと言えます。
 この点について、リトミックの創始者ダルクローズは「心と体の一致・調和」をめざすことが大切と説きました。一人ひとりが自らの感性で「感じ取る」ことの重要性を指摘したのです。

 子ども自らが考え、感じる習慣を育むために、私たち大人はどうしたらよいのでしょうか? 一つは、例えば(学習の過程で)大人が結果を先取りして、子どもに小さな失敗をさせないようにするのではないということです。むしろ、小さな失敗(つまずき)を起点にして、子どもと共にその原因を見つめ、考え、挑戦し、成功感を共に味わえるような関係作りが求められていると言えます。

 人は様々な会話(言語)を通じて心を通わすことができます。同じように、音楽を通じて心のキャッチボールを行うことも出来ます。リトミックやピアノの時間は、そうした音楽による心のキャッチボールを通じて、音楽を理解したり、人の心を感じ取ったりする貴重な機会となるのです。
ダルクローズは次のような言葉も残しています。「学習の後で「私は知っている」というのではなく、「私は経験した」と言える」ような教育をめざす−と。

 三無主義も学級崩壊も突然生まれてくるのではありません。それには、小さな芽があるのです。周囲のものの意味を「感じる」ことの無い生活は、喜びを味わう機会の少ない日々と言えます。その意味でも、私たちは、音楽表現活動を通じて、喜びと感謝の気持ちに包まれた「人が好きな」人に囲まれて過ごしたいのです。私は、そういう大人でありたいと思うのです。

アカデミー月報 5月号 (広島音楽アカデミー発行、2000/5/1)


連載「子どもと音楽」(8)
再び、音楽ってなんだろう


 再び「音楽って何だろう」って考えてみようと思います。これについて多くの識者の方がその意味に触れられています。一般的には次のように記されています。「音楽は、心に描かれたイメージや感情、嗜好や思考をあらわにするために、音によって表現されたもの」。
つまり、音による意思表示(メッセージ)だということです。人と人のコミュニケーションの狭間にあるのが、音楽なのです。
 別の言い方をすれば、会話に言葉が必要なように、音楽的会話には、さまざまな音楽的語彙が必要です。リズムや旋律、和音やフレーズ、拍子に調性などは、音楽的語彙の代表といえましょう。

 コミュニケーションの観点から考えると、身振りや言葉、絵や文字なども同じような役割を担っていると考えられます。では、音楽でしか味わうことのできないものは何なのでしょう? 私は次のように考えてみました。

 音楽の特質は、「音(リズムや旋律など)のうねり」を備えていることです。「うねり」にうまくノッているとき、私たちは快感を憶えるのです。うねりは「抑揚」と言い換えることもできるでしょう。うねりの一例は「サーフィン」。波にうまくノルためには、自分の重心をたくみに操り、波の動きを予測し、しかも波に逆らわないで進むことが必要ですね。音楽も、このサーフィンの感覚と似ているように思うのです。音楽という波にうまくノリ、抑揚とスピード感、そして音楽の行方(ゆくえ)を楽しむのです。

 仲間と共に波に乗ろうとするとき(音楽ではアンサンブルするときなど)実は、共に同じ呼吸をしているのです。私たちは仲間と一緒に「呼吸する」と、どういうわけか仲間意識が芽生えてくるのです。共に呼吸すると他者理解のセンスを得ることもできる。このあたりに、音楽の魅力があると考えられます。

 幼い子どもたちが、@人との関わりを楽しみ、A音楽的なうねりに身を委ねることの快感を味わうとき、(子どもたちは)真に音楽の魅力に触れ、音楽が人生のパートナーとして欠かせない存在になるのだろうと思うのです。

初掲:CHC通信、第22号 (CHC音楽教室 発行、2000/7)


連載「子どもと音楽」(9)
プロセス(過程)を楽しむ


 幼児の集合写真を撮ろうとしたときのことです。
 先生「はーい。○○組の皆さんはここに集まってくださーい。」
 幼児「はーい」

 早速、幼児たちは撮影のためにセットされた雛壇にあがります。ある子は椅子に腰掛け、ある子は後ろに立つ。ある子は○ちゃんの隣でないと気に入らない様子。ある子は、既にピースして待っている。様々です。
 一方の写真屋さんや先生方は、幼児たちが一斉に前を向いているかどうか、誰かの頭で隠れている子はいないか、シャッターチャンスを密かに狙っています。手慣れた賢い写真屋さんは、シャッターチャンスの瞬間に人形を差し出したり、大きな声を上げたりして、注意を喚起したりされますね。
 この様な様々な方法を繰り広げても(ご存じの通り)幼児たちはなかなかジッとしていません。特に低い年齢の幼児は、まだまだ写真撮影の要領が理解されていないようです。いや、大人の都合を理解する機会に巡り会っていないのです。
 ここで一つ考えてみよう。幼児に対して、これから写真撮影が行われること、みんなの顔が見えないと「悲しいよ」「残念だよ」という大人の思いは伝えられていたのか。大人は幼児に対して正確に思いを伝えていないで、最初から“幼児はわからないから”と思いこんでいないのか、あるいは幼児はこれまでに写真を撮ることの喜びを味わったことがあるのか、など。こうして考えてみると問題点はむしろ大人の側に多く潜んでいるようです。
 ここで、私たちの発想の転換が必要です。幼児は、写真を撮ってもらう一瞬を待っているのではなくて、写真を撮ってもらう準備から片付けまでの長い時間を楽しんでいるのではないか。お風呂が一つの「遊び空間」であるように。
 音楽の学習も同じことが言えそうです。結果を追い求めようとするのは大人たち。むしろ幼児は自然に学習の「プロセス」を楽しんでいるのだと思われます。

初掲:CHC通信、第23号 (CHC音楽教室 発行、2000/11/27)


連載「子どもと音楽」(10)
共に学び、共に楽しむ

 4月になりました。この時期になりますと毎年一斉に木々は葉を付け、花を咲かせ、この季節に華やかさを添えています。4月初旬の気候は、まだ冬の延長線であるかのような思いになることもありますが、その傍らで木々はしっかりと春の到来を感じ取り、私たちに季節の変化を知らせてくれるのですね。
 さて、木々は誰に開花の時期を教えてもらうのでしょうか。誰も(木々に)教えてはいませんね。木々は、木々そのものが自然の「変化を感じ取り」、花を咲かせているのです。また、木々が芽を出し、花を咲かせるまでには「長い時間」がかかっているのです。

 考えてみますと、「教育」のプロセスは、こうした状況と同じように考えられます。とりわけ、音楽や運動のようなスキル(技能)やセンス(感覚)の獲得を伴う学習では、その学習過程で(能力が)表に顕れない「長い時間」がある。その時間をどのように過ごすのかは、学習者にとって重要な問題です。つまり、過ごし方によっては、途中で嫌になったり、飽きたり、投げ出したくなるのです。

 ダルクローズの創案した「リトミック(欧米では「ユーリズミックス」と呼ばれています)」は、子どもたちの音楽的なセンス獲得を促す学習方法です。例えば、歩いたり、スキップしたり、揺れたり、即興したり−。そのレッスン(リトミック、ピアノ、ヴァイオリン)は、机上の学習に終始するのではなく、「子ども自身がいま持てる感覚的な能力を活かす」ことによって音楽の本質に触れる機会を持つのです。つまり、音楽の違いを自分で感じ取り、音楽の揺れを「どっぷりと楽しむ」のです。

 その一方で、いつも大人が先回りして“ここまでおいで”式の学習では、子どもは自分で感じたり考えたりする機会を失ってしまう。自分で感じ取り、音楽に自分なりの意味を見いだすこと(発見のセンス)が重要なことなのです。文章を書くためには、“てにをは”を学ぶこと(方法)よりも、文章で何を書きたいのか(内容)を学ぶことがより重要であるように、音楽的センスを獲得するためには、自ら感じて、音楽の本質に触れる経験が欠かせないのです。  

 音楽が(言葉と同じように)私たちの表現手段の一つとして洗練されるまでには、「長い時間」が必要です。そこでは、焦りは禁物です。特に、継続的な学習を維持するためには、子どもと共に大人も「どっぷりと楽しむ」ことがポイントとなります。その中で、やがて子どもは、いまの楽しみに満足しなくなり、さらに上を目指す(目標を自分で見定める)ようになるのです。

 大人の先回りは、子どもを閉じこめてしまう。「共に学び、共に楽しむ」。この態度を基礎にしながら、音楽の学習を進めていきたいと思います。
 本年もご支援のほどよろしくお願いします。

月報4月号 (広島音楽アカデミー 発行、2001/4)