連載「子どもと音楽」(73)
マスタリーのセンス
 「マスタリー」という単語があります。このマスタリーは、イギリスの音楽教育研究家のスワニック博士が説いた単語です。まだよい邦訳がないのですが、敢えて言うなら、“何かを遂行するために、自信に満ちた状態で操っているワザ”を指しています。スワニックは、音楽的センスの発達において、「模倣」と「想像」のセンスに加えて、この「マスタリー」のセンスを強調しています。

 模倣は、まさに他者になることです。自分ではない他者になり替わるのです。「○○に変身」とか「○○みたい」になるのです。ごっこ遊びでは、模倣が大きな役割を担っています。模倣を通して、他者の思いも疑似体験できるのです。
 想像は、模倣とはまったく対照的な概念です。想像は、自分の身の回りの人やモノを、自分の都合の良いように置きかえるセンスです。空の雲の形を見て、象の姿をイメージしたり、風鈴の音を聞いて風を感じたり、など。何かと何かを重ね合わせるセンスと言えます。小説を読んで、時代や季節や表情などをイメージしたりするのもこの想像のセンスです。

 スワニック博士によれば、模倣や想像のセンスは、「マスタリー」のセンスなしでは発揮されない、と考えられます。つまり、マスタリー(ワザ)は、遊びを成立し、発展させるために欠かせないセンスとなるのです。ここで大切なことは、「自信に満ちた状態」を伴ったワザであることです。
 優れたテクニック(ワザ)をもった演奏家はたくさんおられます。しかし、テクニック(ワザ)だけでは、その演奏はすぐに飽きてしまいます。テクニックがないと、思いは果たせない。重要なのは、テクニックの基礎にある心情です。

 リトミックでは、音楽に合わせて歩きます。歩くときの心情が大事です。ヴァイオリンやピアノの演奏では、難しい旋律を奏でることができます。演奏者は、その旋律に託して伝えたいこと(メッセージ)を込めることが大事です。マスタリーのセンスを磨きましょう。それは、私たちの「心とからだ」のバランス感覚をもはぐくむことに通じているように思われます。
CHC通信,第64号,CHC音楽教室発行,2014年7月
連載「子どもと音楽」(74)
学習を始める前の準備に目を向けよう
 勉強(遊び)に集中できない。人の話が聴けない。落ち着きがない、など。子どもたち(あるいは私たち自身)の姿を考えるとき、このような問題に直面することがあります。自らの学習課題を持ち、自らの力で問題を解決していくこと、これは学習のあり方を考える時に看過されないことです。

 マズロー(1908-1970アメリカ)という心理学者が唱えた欲求階層説は、動機づけ理論の基礎として、多くの人々に注目されています。マズローによれば、人間の欲求は5つの階層から構成され、低次の欲求が充たされると、より高次の欲求を求めようとする、というものです。
 最も基本となるのは、@生理的欲求です。これは生きるための本能的な欲求(食べる、寝る等)です。この欲求が充たされるとA安全欲求を求めます。これは危機回避の欲求、つまり安全・安心な暮らしをしたいという欲求です。健康の維持や安住の空間が欲しくなるなどが含まれます。更に、B社会的欲求。これは集団に属したり、仲間が欲しくなったりします。この欲求が満たされない時、人は孤独感や社会的不安を感じやすくなります。ここまでの欲求は、外的に充たされたいという欲求と言えます。人の欲求は更に高まります。ここからは外的なものよりも、むしろ内的充実に心が向いていきます。C尊厳欲求(承認欲求)。これは他者に認められたい、尊敬されたいという欲求です。そして、最後にD自己実現(自分の能力を引き出し創造的活動がしたい等)の欲求を求めるようになります。このマズローの説は、様々な研究に引用され、更に深化されています。

 私たちは、音楽を聴いたり、仲間とアンサンブルをしたりして、生きる喜びを見出し、精神的な充実感を得たりすることができます。他者の思いを受容したり、他者に何かを分け与えたりする姿は、前述したような欲求が充たされたときに生まれていきます。これはかなり高次なレベルの欲求と言えます。
 学習を深めようとするとき、事前の準備が重要です。欲求を満たしていくこと―これはそのまま、私たちは今何をしなければならないかを解くヒントとなるように思われます。
CHC通信,第65号,CHC音楽教室発行,2015年1月
連載「子どもと音楽」(75)
音楽は生きている:譜面に描かれていないセンス
 ピアノやヴァイオリンを演奏しようとするとき、「譜を読むこと」は避けて通れないことです。譜を読むのが遅い、速く読めるようになりたい、と願う気持ちは誰もが思うことです。
 楽譜は記号です。記号には約束事があります。譜は、音の長さ、ピッチ、どの音を繋ぎ、どこで音を切ったらよいのか(スラーやフレーズ)、更にどんな強さで奏でればよいのか(強弱)などが具体的に示されています。このように楽譜にはさまざまな情報が書かれているのです。
 楽譜に書かれている情報を素早く読み、演奏することができたら、良い演奏をすることができるのでしょうか。残念ながらこの段階の演奏は、つまらない演奏に聴こえてしまいます。音楽することが楽しいと感じられるようになるのは、その先にあるのです。
 音楽は生きています。音楽を聴いて、呼吸しているような感じや情緒的な印象を感じられるようになるためには、譜面に描かれていないことを(譜面から)読み取るセンスが鍵となります。例えば、グルーブの感覚(本紙に記された有谿先生の文章を参照)や、ワルツの揺れの感じは譜面に書かれていません。
 楽譜に書かれたことを忠実に奏でようとする態度―これはクラシック音楽を学ぶときの伝統的な態度のように思われます。そもそも、クラシックという言葉には「古典派」という時代や地域を暗示するだけでなく、「厳格に」というような意味が含まれていますから、その態度は間違ってはいません。
 同時に、音楽の学習では、楽譜に書かれていないことがあるということも知る必要があります。「楽譜を読む」とは、譜面に書かれていないことに気づくセンスが不可欠なのです。音楽と動きを重ねる体験(リトミック)は、譜面に隠された見えないセンスを感じ取る、大事な体験となるのです。
CHC通信,第66号,CHC音楽教室発行,2015年4月
連載「子どもと音楽」(76)
好きになること
 音楽が好きになる。この「好き」の中には、さまざまな心とからだの動きが伴っている。人を好きなるという状況を重ねてみると分かり易い。
 好きな人がいると気になる。気になって、こっちを向いてほしいと思う。気になる人のことを、よく観察する。細やかにみるので、少しの違いでも手に取るようにわかる。違いが分かると、それだけで心が揺らぎ、一喜一憂する。
 好きな人に、私を好きになってほしい、相思相愛になることを願う。願うだけでは伝わらないので、何かのメッセージを送る。メッセージが伝わるように、真剣に考える。相手の心を想いながら深く考える。そして思いを伝える。
 こうして、相手に思いが伝わり、それに応えてくれると嬉しくなる。嬉しくなって、最高に幸せな瞬間を味わう。

 音楽を好きになるというのも、この一連の過程と似ていないだろうか。気になる音楽がある。気になるからしっかり聴く。耳を凝らして聴くと違いがよくわかる。好きな音楽を奏でてみたいと思う。思がしっかり伝えられるように、懸命に想いをこめる。思いが伝わると、嬉しくなる。更に精進して、音楽が自分を愛してもらえるように、自分の心と技に磨きをかける。
 ここでいう好きな相手は、音楽そのものである。音楽を愛し、音楽(もう一人の自分であり、他者である)に愛されることである。

 音楽が好きになる、好きな音楽を奏でる過程では、さまざな体験が蓄積されていく。まずは聴く―違いに気付く―自分の思いを込める―伝えるために行動する―好きになってもらえるように努める―相手の思いを想像する―想いが伝わると嬉しい―相手の思いが感じ取られる―一喜一憂する―喜びを味わう―幸福感を味わう、等など。
 ここでは、心とからだが総動員されている。自らの姿を照らし出す、もう一人の自分で自分自身を見つめることも欠かせない。こうして音楽は、一人ひとりの生活や人生と重なり合っていくのだろう。
CHC通信,第67号,CHC音楽教室発行,2015年7月
連載「子どもと音楽」(77)
「見ること」と「体験する」こと
 普段の生活の中で、私たちはいろいろな出来事に出会います。音楽を聴いたり、本を読んだり、絵を描いたり、スポーツを楽しんだり、など。季節の行事や家族旅行なども素敵な思い出となります。これらの出来事に出会ったとき、私たちは、それを「見ていた」のか「体験した」のかでは、その評価に大きな違いが生まれることがあります。

 例えば、山登りをしようと、山を眺めていたときと、実際に山に登ってみたときでは、大きな違いがあります。坂道を登るときの汗、足腰の痛み、肩に食い込む荷物の重さ、吹く風の厳しさ、など。そして山頂での爽快感も―。「みている」のと「参加した」のとでは、その味わいは大きく異なりますね。体験することによって、私たちは多くの気づきを得ているるのだと言えます。

 さて、この体験によって、私たちは何らかの感情や価値を伴った状況に導かれます。例えば、アンサンブルを体験して、それが楽しかったら、それはプラスの感情(価値)に包まれます。よい体験をしたのだと言えます。一方、アンサンブルはつまらないと感じたとしたら、それはマイナスの感情に導かれてしまうのです。

 ダルクローズは、音楽を学ぶとき、「私はそれを知っている」というのではなく、「それを体験した」と言えることが重要だと考えました。音楽と動きを重ねる体験(リトミック)、これは傍で見ているだけでは感じ取ることのできない多くの気づきを味あわせてくれるのです。私は、怠け心が出てしまって、体験することを億劫に思ってしまうことがあります。見て済ましてしまうことが少なくない。何かに気づく機会を、自分で避けているなんて何てもったいない。
CHC通信,第68号,CHC音楽教室発行,2016年3月
連載「子どもと音楽」(78)
ルソーとダルクローズ
 最近、ルソーの名著『エミール』を読む機会がありました。ご存知の通り、ルソーが活躍したのは18世紀。スイス・ジュネーブを中心に活躍した思想家。しかも《むすんでひらいて》を作曲したらしいということでも有名な音楽家です。18世紀は、日本では江戸時代です。当時のヨーロッパでは“子ども”という概念は無かったそうです。子どもは“小さな大人”として仕事を与えられ、大人と同じように教えられた。日本でも同じような状況だったのでしょうね。

 ルソーは、子どもの頃には子どもに備わっている自然な感性を大事にして、子ども独自の生活があることを指摘しました。19〜20世紀にフレーベルやデューイらが子ども中心主義による教育の重要性を唱えましたが、それよりも前に(ルソーは)子どもの存在を指摘しました。おそらく当時の常識からは、かなりトンデいたのだろうと思われます。

 面白いエピソードが記されています。子どもは、ほっておくと堕落する。だからといって大人が先回りして教育するともっとダメになる。どうやったって、人は堕落の道をたどる、と。では、どうしたらよいの?って思いますよね。

 ルソーによれば、特に幼い時期は、人に備わっている自然な感性を大事にすること。それを歪めて矯正(指導)すると、自然な成長が歪められて、心が窮屈になる(嫌になる)。感覚と運動の訓練を通して、五感を磨くことが重要だと、私たちに教えてくれています。感覚トレーニングは、将来の知性の土壌になるのです。感性の上に好奇心や意欲を育てなければ、自律的・能動的に生きるようにはならない、と説いているのです。

 ダルクローズは、20世紀にリトミックを創案しましたが その底辺にはルソーの考え方と同じものがあります。音楽と運動を結び付けたのは画期的なことです。五感を通じて、子ども自身が感じとる「感覚的理性」の訓練なのです。まさに、アクティブ・ラーニングそのものと言えます。ルソーとダルクローズは、生きた時代こそ異なりますが、どこか似たところを私は感じるのです。
CHC通信,第69号,CHC音楽教室発行,2016年7月
連載「子どもと音楽」(79)
ありのままの心を受けとめること
 これは先日の幼稚園での出来事です。一人の子ども(4歳児男児)が職員室に入ってきました。その子の話を聞いてみると、一緒に遊ぶ友だちがいないのでつまらないとのこと。「そう。じゃぁ、先生の隣に座ってごらん」。しばらく私の仕事ぶりを隣から見ていました。でも見ているだけではつまらない。しばらくグズグズと言っていましたが、ある瞬間、近くの段ボール箱に書いてある文字を見て、「先生、先生、ここにね、“あきと”って書いてあるよ!」と声高に叫びました。その段ボール箱を見てみますと、そこには“あきとふゆのおはなし”という本の入っていた箱が置いてあったのです。「そうだねぇ。あきと君の“あきと”ってあるねぇ」。

 近くを通り過ぎる先生を見つけては、「ねえ先生、ここにね“あきと”って書いてあるよ!」と嬉しそうに伝えます。それを聞いた先生は「ほんとだ、よかったねぇ」と喜びをあらわにして応えられるのです。その先生の表情を目のあたりにして、あきと君は本当に嬉しそうです。

 別の先生がそばを通りかかりました。あきと君は、先ほどと同じように、「ねえ、先生、ここにね“あきと”って書いてあるよ!」と−。それを聞いた先生は「ほんとだ。その続きはなんて書いてあるの?」とたずねました。ひらがながやっと読めるようになった嬉しさも手伝って、なんとか文字の続きは読めたけれども、あきと君の表情はあまり嬉しそうではありませんでした。

 この二人の先生の応対は対照的です。あきと君の気持ちをより正確に汲み取っていたのはどちらだったでしょう。(そうです、前者の先生)。学習の次のステップを考える前に、まずは今の子どものあるがままの心を受容していくことが肝要だと言えます。

 ここでみられた先生の応対は、子どもの心を想像(イメージ)する力の違いと言えます。すなわち、想像力は“いま(瞬間に)示された心の様子を思い浮かべる能力”と言えます。そして、何気ないやりとりの中で交わされるイメージの交換は、人と人との信頼関係を育み、学習活動(あるいは遊び)を支える「好奇心や意欲」の源泉になる、と考えられます。

 音楽は、音によって様々なイメージが顕わにされたものです。ある音を聴いて、(いま響いた音の)イメージが膨らめば膨らむほど、楽しく音を受容できるのだと言えます。とりわけ、子どもの学習の場にあっては、知識や技術を獲得する前に、「(大人が)子どもと共に遊び、共に学び」、共感することが殊更に重要となります。こうして、子ども自らが主体的に取り組む学習態度(生活習慣)を育むことが先行される必要があると考えます。

 子どもの想像力や創造力は、普段の生活の中で交わされる大人と子どものやりとりにも大きく依存していると思うのです。
(この文章は平成7年頃に記したものです。神原雅之)