日本音楽教育学会第30回研究大会
プロジェクト研究D「リトミック教育を問いなおす」

平成11(1999)年11月20日、13:30〜15:30、東京芸術大学

ダルクローズが目指した「体験すること」の今日的意味(要旨)

神原雅之(広島文教女子大学)

 私は、ダルクローズが音楽教育に身体運動(ムーブメント)を導入したところの今日的意味について考察してみようと思います。一つは、現代の子ども達の姿を通して、いま教育の世界で何が緊要な問題なのかという点について。そして、これと関連して、「運動を伴うこと」の今日的な意味について私見を述べたいと思います。

1.いま何が問題なのか−子どもの感性、大人の感性

 少し前から「アダルトチルドレン」という言葉が聞かれるようになりました。それは、大人のような子ども、つまりきわめて現実的で、アニミズムや子ども特有の感性を失った子どもの姿を指しています。その感性はそのまま、物事の違いを認識したり、理解したりする力の不足した、心と身体の不均衡な状況で過ごしている子どもの姿を象徴しているように思われます。バーチャルな世界にどっぷりと浸かって、現実と仮想の違いを認識できない人々の出現も、同じような事例と観ることができます。これらは明らかに「原体験の欠如」という共通性が指摘されるように思われます。最近では「キレル」という言葉に象徴されますように、自分自身の感情と行動(表現行為)をセルフコントロールできない子どもが増えているように思われます。
 他の事例で例えてみましょう。学生たちは、教育実習前に模擬授業を経験しますが、その時の指導案をみますと、音楽的な知識を子ども達に一方的に押しつけてしまう授業に遭遇することがあります。つまり、音楽は、音楽表現行為を抜きにして、記憶や知識として処理するという習慣として感じ取られている様子が窺われるます。要は、相手の感情や思考の状況を読みとる力が不足している。
 いずれの事例(アダルトチルドレン、学生の模擬授業)も、「(自分自身が)感じる」ということを軽んじてしまう、あるいは「感じる」という経験をどのようにしたら味わえるのかわからない、という状況に置かれているように思われるのです。
 ダルクローズが目指した教育改革(リトミック創案の過程)も、基本的には、この状況と同じような学生と遭遇したのではないかと思われるのです。つまり、音楽に身を委ねること(イメージしたり、イメージを膨らませたり、そのアイデアを正しく伝達する)ということ、そして他者のそれを理解する能力(知性と感性)のアンバランスな状況がみられた。そのアンバランスを克服するためにはどうしたらよいのか。そのときに、ダルクローズは「感性と知性」をリンクする媒体として身体運動に着目したのだと言えます。

2.ダルクローズの音楽教育の改革は何だったのか?

 ダルクローズの発想は、自らの感性を引き出すこと、そして音楽の概念化を図るという両極にあるものを「ムーブメント(運動体験)」によって結合したという点に特徴づけられます。

 教師と子どもの関係:その教育過程において、学習者と教師(リトミシャン)は共に刺激し合うという関係性を維持することが重要です。つまり、教師の演奏する即興演奏は、学習者自身が音楽を発見するための手がかりを与えるために行われるのです。あくまでも、学ぶ(音楽を発見する)のは学習者自身であり、教師はその援助者であるという発想が、彼の教育観の底辺に横たわっていると考えることが出来ると思います。音楽は子どもと教師のコミュニケーションを促す土俵であり、そのコミュニケーションの質が重要となるのです<双方向性>。

      音楽 → 教師 → 子ども <一方向性>
      教師 ← 音楽 → 子ども <双方向性>

3.現代におけるリトミックの意味

 (特徴1)私たちは、ともしてリトミックのユニークな運動に目を奪われてしまい、その背後にある教育内容が見えにくいのだろうと思われます。ダルクローズは、音楽体験のための具体的方法よりも、あくまでも身体運動と音楽聴取をリンクする経験によって覚醒されるところの「音楽的センスの獲得」を目指した。このことは、対象者によって様々な展開が可能であり、それ自体が応用性(創造性)に富むところでもあるわけです。しかし、実際にはこれがリトミックの輪郭をわかりずらいものにしているように思われます。それによって誤解を生じるという悪循環を生んでいるのではないかと考えるわけです。

 (特徴2)もう一つ、リトミックの特徴は、「学習者参加型」の学習スタイルを特徴としているという点にあると考えられます。(リトミックの)今日的な意味合いもこのあたりにあるように思われます。つまり、音楽は、音楽的な時間の流れ「うねり」の中に身を委ねるという行為そのものの中に意味があります。音楽的な抑揚を実感するということです。特に、音楽学習場面では、学習課題に対して、児童・生徒はさまざまな試行錯誤のプロセスを経験するわけですが、それぞれの音楽課題に挑戦する過程のなかで、子ども自身が「自己充実感」や「自己有用感」そして「自己実現」の感情を味わうことが重要となります。そこでは、誰もが参加可能な身体感覚を駆使して、“一人ひとりがいま持てる力を用いて”音楽に参加するという態度がポイントになるのではないかと考える次第です。

 (特徴3)3点目に、リトミックでは、多くの場合、他者との関係性を意識せざるを得ないという状況があると言うことです。これは人間関係の希薄な状況を補う「コミュニケーション(人間関係)」の場となるものであります。ここでも誰もが参加可能なやり方で、人と関わり合い共有感を味わうのです。ここにもリトミックの今日的意味があると考えられます。

 一部の批判の中に「リトミックは画一的である」という指摘があります。それについてもやはり、リトミックにおいて身体的に経験したときの心情の変化や知覚的に感じ取られる変化(発見の感覚)に着目してみる必要があると思われます。
 仲間と同じ動きを経験するとき、その同じ動作体験を通して、そこで自分と他者の違いを認識したり理解したりする機会を得るのだと考えられます。つまり、他者理解と自己理解(自己認識)は、自らの身体意識の覚醒によって促進されると考えられるのです。