パアララン・パンタオの歩み
2007年まで

1987年 レティ先生が近所の子どもたちに勉強を教えはじめる。

1989年 パアララン・パンタオ開校。国内外からの支援で建物の整備などを進める。生徒数次第に増加し94年には150名を超える。

1995年 生徒数200名を超えるが、資金が底をつき、教師を雇えない。台風で学校の屋根が飛ばされる。パアララン・パンタオの経済的支援のために、支援グループ「パヤタス・オープンメンバー」を立ち上げ、寄附を募る。

1996年 教師6人(レティ先生を含む)を確保して新学期を迎える。生徒数200名を超える。

1997年 200名ほどの生徒が登録。教師6人。学校に水道敷設(水代がそれまでの2分の1以下になる。しかし2年後、給水塔の故障で水が来なくなる)。95年の台風以来、雨漏りのひどかった天井を修理。

1998年 182名の生徒が登録。教師5人。

1999年 153名の生徒が登録。教師5人。奨学金の支給をはじめる(カレッジ2名。小学生1名)。学校と周辺世帯に電気の直接供給が実現(それまで仲介業者を通していたので通常の2倍以上かかった)。キッチンを設置(おかゆなどを安価で提供。後に給食調理のキッチンとなる)。グレース基金(心臓病の11歳少女の手術のために)受けつける。翌年3月、グレースの心臓手術成功する。

2000年 174名の生徒が登録。教師5人。奨学生3名(カレッジ2名。小学生1名)。ゴミ山崩落惨事(7月10日)。パアララン・パンタオの生徒も23名が犠牲になる。8〜9月、住民たちのエラプシティ(再定住地)への移住すすむ。ゴミ山の一時閉鎖で人々の生活は困窮する。10月から週に1度、無料の給食サービスをはじめる。

2001年 138名の生徒が登録。教師4人。給食が毎日になる。奨学生4名(カレッジ3名。ハイスクール1名)。学校の裏庭に井戸を掘る。隣人プロジェクト──母親たちの経済活動のための貸し付けを行なう。14歳未満の子どものゴミ山への立ち入りが禁止される。

2002年 154名の生徒が登録。教師5人。給食も毎日(03年1月、資金不足で中断)。奨学生7名(カレッジ2名、ハイスクール1名、小学生4名)。

2003年 パヤタス校は86名の生徒が登録。8月エラプ校開校。まず午前中のみ59名の生徒が登録。(後に午後のクラスも開く)。教師は両校で6人。奨学生2名(カレッジ1名、ハイスクール1名)。

2004年 パヤタス校117名、エラプ校110名の生徒が登録。教師・スタッフ7人。給食再開。エラプ校の増築工事はじまる。奨学生11名(カレッジ4名、ハイスクール2名、小学生5名)。

2005年 生徒数両校で300名を超える(パヤタス校92名、エラプ校210名)。教師・スタッフ11人。給食あり。奨学生14名(カレッジ8名、ハイスクール1名、小学生5名)。

2006年 パヤタス校92名、エラプ校220名の生徒が登録。教師、スタッフ12名。給食あり(資金不足で一時中断)。エラプ校の増築工事続くも資金不足のため3階の途中で中断。奨学生11名(カレッジ7名、ハイスクール2名、小学生2名)。
 9月以降ゴミ山拡張のため、パヤタス校と周辺住民の移転が具体化。近くにパヤタス校の新校舎建設はじまる。
 12月、周辺住民立ち退き

2007年 2月パヤタス校新校舎完成、移転。1988年から使用した旧校舎が取り壊される。



遠足&クリスマス・パーティ 2005

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