ゴミの山で生きて、学んで、笑って

岩崎一三(いわさきかずみ)

第1章 空飛ぶトラック 1994年7月

☆最初の出会い

 ケソン市郊外の市場でジプニーを乗り換えた。排気ガスの臭いに変わって次第にゴミの臭いが強くなる。ゴミの山が近いのだ。1994年7月、はじめてフィリピンを訪れた私は、当時ユニセフのマニラ事務所で働いていた友人に連れられて、パヤタスのゴミの山に向かっていた。ゴミの山の麓に、小さな学校があるという。
 給水塔のところでジプニーを降りて、しばらく歩いた。あたりに漂うゴミの臭いのなかに、豚と鶏の匂いを嗅いだとき、ふいになつかしさが込み上げた。田舎で過ごした子どもの頃に鶏を飼ったこと、近所では豚も飼っていたことを思い出した。はじめての場所なのに、どこかに行くのではなく、どこかに帰る気がしているのが不思議だった。
 ゴミの山が見えてきた。人々が降りはじめた雨のなかでゴミを拾っていた。陰惨な光景に見えた。麓には、廃材を貼りあわせただけの、家と呼ぶのがためらわれるような粗末な小屋がひしめいている。ゴミだらけのぬかるんだ路地を裸足の子が歩いていくのを見たとき、胸がふさがれるような悲しみを感じた。
 集落を抜けて川まで出ると、橋の上からはあたりが一望できた。巨大なゴミの山も周辺のバラックも、雨に煙ってひどく静かな光景だ。ゴミの山の向こうには緑が続いている。ゴミが捨てられる以前は美しい谷間だったのだろう。
 心がしんとした。日本も東京も夢のように思えてきた。本当は、今見ているこの景色のほかには何もないのではないか。
 むき出しのままの景色だった。生きることは飾れない。そう思った。いったい、このさびしさは何だろう。このなつかしさは何なのだろう。
 何か立ち去りがたかった。
 訪れた学校は、ごく普通の家のような小さな建物だった。貧困や出生証明がないなどの事情で、小学校に通えない子どもたちのためのフリースクールだという。学校の名前は「パアララン・パンタオ」。思いやりの学校、という意味だ。授業はもう終わっていて、何人かの子どもたちが掃除をしていた。
 校長は、レティシア・B・レイエスさん(54歳)。思いがけないことだったが、レティ先生に勧められるまま、私は旅行の残りの日々を学校に滞在することになった。
 学校を出た時には、雨はもうあがっていた。かすかに西日が射している。給水塔で少年たちが水を汲んでいる。このあたりで唯一の水道だ。ポリ容器に水を汲み、手押し車で運んでいく。その光景が西日のなかでやさしく見える。制服姿のハイスクールの生徒たちが家路をたどる。ジプニーを待っている生徒たちもいる。ふと、小学生であったり中学生であったりした自分が、ジプニーを待つ少女たちのなかにまぎれこんでいるような錯覚をおぼえた。

☆学校(パアララン・パンタオ)のはじまり

 数日後の夜、私は日本人留学生のテルちゃんと一緒に、再びパアララン・パンタオを訪れた。その頃、学校には日本人留学生が毎週通って、子どもたちや地域の人たちと交流するようになっていた。
 レティとふたりの女の子、ジョイ(8歳、レティの孫)とグレース(5歳、レティの養女)が迎えてくれる。私たちが泊まると知ってジョイもグレースも大はしゃぎ。グレースがテルちゃんに抱きつく。ジョイが私に枕を投げる。胸のあたりにまっすぐに投げられた枕を受け止めたとき、心のなかで錆びた鎖がはずれる音を聞いた気がした。枕を投げかえす。楽しい。夕食までしばらく夢中で遊んだ。
 10時過ぎ、レティの末息子のジェイコーベン(17歳)が帰って来た。奨学金を貰い、アルバイトをしながらカレッジに通っている。「昔はここもきれいだったよ」とジェイコーベン。夫の死後、レティが子どもたちと82年にパヤタスに移住した頃、ここは緑豊かな美しい谷間だった。ところが翌年からゴミの投棄がはじまり「あっという間に」ゴミの山ができた。
 87年、それまでも何かと地域の人たちの面倒を見てきたレティが、近所のお母さんたちに「子どもの勉強を見てほしい」と頼まれたのが、この学校のはじまり。最初5人の子どもが、1か月後には40人を超えたという。
 翌年、国内のNGOの援助でこの建物を手に入れたが、当時は壁と屋根があるだけ。天井も窓も床もない。地面の上に親たちの手づくりの机と椅子が並んだ。「ひどい建物で、雨の日は傘をさして勉強したんだよ」と笑う。最初の黒板は、米の小売りをして、その収益で買った。89年に正式に開校。その後、床や窓ができ、93年には、日本の市民グループの援助でトイレや台所ができ、天井には扇風機もつけられた。
 学校がきれいになると生徒の数が激増した。今は、午前と午後あわせて167人の生徒がいる。「この学校の生徒は優秀だよ」とレティは言う。パアララン・パンタオで学んだ後、試験を受けて公立の小学校やハイスクールに編入進学する生徒も少なくない。
 学校は、地域の240世帯で構成する住民組織「ダンプサイト隣人組合」が運営しているが、慢性的な運営難だ。「先生たちの給料を払うためにも、支援してくれるところが必要なんだけど」。レティが呟いた。彼女は隣人組合の代表もつとめている。
 深夜まで、学校の前の道を通るトラックの音がうるさい。朝は4時頃からやってくるという。家は近くにあるが、レティたちは学校で暮らしている。教室の大きな青い机は、夜はジョイとグレースのベッドになる。レティも私たちも教室で寝た。

☆ダンプサイト(ゴミの山)

 ゴミの山の麓の集落を歩いた。廃材の家の、布がぶらさげてあるだけの窓から子どもたちが顔を出す。挨拶すると、はにかんだ笑顔で応えてくれる。水汲み場では女の子たちが洗濯をしている。母親が裸の子に水浴びをさせている。ひよこを連れた鶏がいる。ゴミのなかから吹き上げるメタンガスを利用してつくったカマドでは豚の餌にする残飯が煮えている。豚小屋があり、教会もある。少年がギターを弾いている。母親が娘の髪のシラミをとっている。歩いているうちに、最初来たとき足がすくむようだった路地が、何か親しい場所に変わっていった。
 角の家の子どもたちがテルちゃんを呼ぶ。カンデラリア家の8番目の子のマリアちゃんは生まれたばかり。この家の人たちと親しくなったテルちゃんは、洗礼のとき、マリアちゃんのゴッドマザー(宗教上の母親)になった。
 ゴミの山を、土地の人たちはダンプサイト(捨て場所)と言っている。滞在中、毎日ダンプサイトにのぼり、ときどきゴミを拾った。
 トラックがゴミを落とすと、男たち女たち子どもたちがいっせいに群がる。妊婦や、5歳くらいの小さな子もいる。私は長靴を履いているが、ゴム草履の子も多い。くるぶしまで、ぬかるんだゴミに埋まりながら拾っている。ガラス破片も散乱しているのに、怪我をしないほうが不思議だ。「ここで生きることは、とても危険でとても難しい」と案内してくれたジェイン(32歳)は言った。
 留学生たちはここで、何十本もの注射器が捨てられているのを見た。血液が入ったままの注射器を、少年たちが水鉄砲にして遊んでいた。そのなかのひとりが、おそらく感染症だろう、異常に痩せて数週間後に死んだという。
 足で袋を踏み、かぎ型の鉄のピックで袋を裂き、なかのものをあばく。強烈な腐臭。ピックを振り降ろす度、足場を変える度に無数の蝿が飛びまわる。残飯、布きれ、空き缶、ペットボトル、段ボール、新聞。一面のゴミのなかから、少しでもお金になりそうなものを探す。引き裂いた袋から残飯があふれ出すときの息が詰まるような臭い。老婆がそれをスコップですくう。豚の餌にするのだ。
 もとの色がわからないくらい汚れたワンピースを着た7歳くらいの女の子が、夢中でゴミを拾っていた。その真剣な、それでいて疲れた老婆のような表情に胸がつまった。

☆拾われた「神の恵み」

 1988年10月の朝、ゴミのなかで発見された赤ちゃんが、レティのところに運ばれてきた。小さな体には蛆虫が這い、無数の蚊と蝿がたかっていた。臍からは血を流していた。赤ちゃんは半死の状態。だが、ここには病院はない。レティはトラックの運転手を説得し、どしゃぶりの雨のなか、ゴミのトラックを病院まで走らせた。
 赤ちゃんを見たとき、レティが最初に感じたのは、子どもを捨てた母親に対する怒りだったという。それから、この子は神様が授けてくれたのかもしれないとひらめいた。するともうひとり子どもを育てられる喜びがこみ上げてきた。レティは一命をとりとめた赤ちゃんをマリー・グレース(神の恵み)と名付け、自分の六番目の子として育てる決意をした。
 やがてグレースの心臓に生まれつき穴が開いていることがわかった。定期的に病院に通って手術の順番を待っているが、お金もなく日程も決まらない。グレースの顔は日本人に似ている。「きっと父親は日本人だよ」とレティは言う。
 夕方、裏のドラムカンに溜めた雨水をバケツに移し、トイレのセメントの上で体を洗った。洗った髪をグレースが梳いてくれる。いいよ、私の髪なんかどうでも、と思うが、後ろからのぞきこんで笑うグレースは、何だかとても嬉しそう。首すじに小さな指が触れるのがやさしい。教室には蚊取り線香の匂いが漂っている。時間が、とてもゆっくり流れている。
 遅い夕食。さっきまで習った歌をひとりで夢中で歌っていたグレースは、眠りながら食べている。レティが、グレースの口にスプーンを運んでやっている。

☆パアララン・パンタオの子どもたち

 パアララン・パンタオには授業料も制服もない。年齢を問わず誰でも学べる。午前中はデイケア(5歳まで)と低学年のクラス。午後は高学年のクラスがある。たいていの子が、ゴミ拾いをして家計を支えながら通ってくる。
 デイケアのお遊戯の輪に入ると、グレースが走ってきて手をつなぐ。歌う。飛び跳ねる。笑う。一年生のクラスで、空いた席にすわってノートを開くと、ふりむいてのぞきこむ、好奇心いっぱいのはにかんだ笑顔たち。子どもたちと一緒にいると、心のなかで透きとおった鈴の音が鳴りはじめるようだ。

 10歳から17歳の22人の生徒のアンケート。
 毎日の仕事・・・・ゴミ拾い。洗濯。掃除。水汲み。たきぎ集め。豚の世話。弟妹の面倒を見ること。
 欲しいもの・・・・たいていの子が「家が欲しい」と書いている。「ぼくの家はもうじきゴミに埋められるでしょう」と書いたエメル(13歳)は「豚ももっと欲しい。そうすれば生活が少しは楽になります」。豚に餌をやるのは彼の仕事だ。ほかには、お金、洋服、食べ物、文房具、鞄。マリベル(11歳)は「希望が欲しい」。 
 将来の希望・・・・看護婦、教師、大工、会社員などさまざまだが、全員が「がんばって学校を卒業したい」と書いている。そして「進学したい」。職を得るため、家族を貧困から脱出させるために。
 さらに書いている。「親を助けたい」「弟や妹が勉強できるようにしてあげたい」「成長したい」「良い人間になりたい」「人を救えるようになりたい」「幸せになりたい」。
 このやさしさは何なのだろう。自分のことより、家族や弟妹を思いやる子どもたちがいる。

 ある日、教室では子どもたちが絵を描いていた。ダンプサイトと学校の絵。どの絵も楽しい。七色のゴミの山。太陽をふたつ描いている子もいる。日の出と日の入り。ゴミのトラックが空を飛んでいる。
 レティが子どもたちの絵を私にくれる。20枚ほどの絵は私へのお土産だった。嬉しさと、何かとても大切なものを預かってしまったという、とまどいに似た気持ち。最後まで残って描いていた17歳のシリーが、少し恥ずかしそうにもってくる。シリーは両親がいなくて親戚のところで暮らしている。
 子どもたちの絵を見ていると、自分も描きたいとグレースがせがむ。互いに真似しながら、ジョイとグレースは太陽を描き、虹を描き、お城と木を描く。星とリンゴとハートを描く。空飛ぶトラックの行く先が、そんなふうに眩しい世界ならいい。

☆蝿のオーケストラ

 朝、大雨が降った後のダンプサイトはひどかった。ゴミの下に水が溜まって足がずぶずぶ沈む。立ち往生していると、ゴミを拾っている男たちが、あっちだこっちだと指さしてくれるが、方向が全部違う。笑いたくなった。自分で決めて歩き出すしかない。
 どうにか抜け出して麓の集落を歩いていると、陽が射してきて、ぬかるみに溜まった水も家々も、きらきらと眩しくなった。ああ、きれいだな、と思った。そのときふいに「生命のほかには何もない」という思いが湧いた。不思議な幸福感だった。心のなかは明るくあたたかくなり、すれ違う大人たち子どもたちが、ずっと昔から知っているように、なつかしかった。
 レティが昼食の支度をしている横で、ジョイがはたきで蝿を追っていた。ダンプサイトからやってくる蝿。はたきの先を何十匹飛び回っていることか。
 食事中うるさそうに蝿を追っていたレティが「これからオーケストラの指揮をとります」、そう言ってはたきをタクトのように振りはじめた。その手つきの変化に息を呑んだ。その心の切り替えのあざやかさ。
 レティからはたきを取り上げたジョイが、椅子の上に立って得意気にタクトを振る。グレースが真似したがるのを、ほら、さっさと食べて、とレティがたしなめる。ジョイの指揮にあわせてレティはフィリピン国歌を歌った。
 私が、ビザをとっていないのでもう帰国しなければならないと言うと、「私がパヤタスのビザを出してあげる」とレティは言った。(あなたがここにいたいと思うだけいてくれたら、私たちは嬉しいよ)。レティの言葉はそんなふうに聞こえた。(自然体でいなさい。自由でいなさい)。滞在中、ずっとそう励ましてもらっているようだった。
 「ここが好き。また帰ってくるね」私は言った。そうせずにいられないだろうと予感した。

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