ゴミの山で生きて、学んで、笑って

第3章 ビューテイフル・パヤタス  1995年8月

☆危機

 1995年8月、ゴミ山の麓の学校「パアララン・パンタオ」は危機的な状況だった。生徒は増えて200人を超えている。なのに先生たちはいなくなった。6月の新学期から給料が払えなくなったからだ。 エデン(40歳)は先生をやめてスカベンジャーの仕事に戻った。ある朝ゴミの山で再会した。「夜じゅうゴミ拾いをしてたよ」と言った。教師の資格をもっているロレーナ(22歳)は、ハイスクールの教師になった。他の先生たちもいなくなった。「私はひとりになった」と校長のレティ(55歳)が肩をすくめた。
 レティと娘のベイビー(33歳)だけではやっていけない。レティは孫たちを呼び寄せた。アリネイル(14歳)とレンレン(13歳)の姉妹は低学年を教え、弟のピンゴイ(12歳)は学校に併設のサリサリストアの店番をする。
 教室には七台の足踏みミシンが並んでいる。日本から届けられたお金で買った。これで母親たちが縫製の仕事をして、学校の運営費をつくるというプロジェクトが考えられていたらしい。だが実際はミシンを買うとお金は底をつき、教師を雇うことさえできなくなった。電気代も人から借りて払っている。
 呆然とした。プロジェクトを考えた人たちはみんないなくなって、日本で支援した人たちもお金を送った後のことは知らない。留学生たちが3月に帰国してからは、訪ねてくる人もいなかった。
 そして学校がそんな危機的状況とは夢にも思わず、私は、海外旅行ははじめてというナオコを連れて、のんきに戻ってきたのだった。数日後には、トシコという学生も来ることになっていた。
 いったい何がどうなっているのか、何をどうすればいいのか、さっぱりわからない。そしてとりあえず、私たちは子どもたちと遊ぶのに忙しい。石蹴り、目隠し鬼、かくれんぼ、折り紙、ダンス。

☆もしもしあのね

 レティは、ミシンをなんとか動かそうと努力していた。夜、学校では4人の生徒、アリス(16歳)エステリータ(16歳)ニコ(22歳)レイナルド(19歳)が、仕事帰りのロレーナからミシンを習っている。けれど布もただではない。ミシンはお金をつくるプロジェクトではなくて、お金のかかるプロジェクト。
 アリスたちがミシンを踏む傍らでは、パアララン・パンタオのためにハイスクールを休学したアリネイルたちが、ロレーナを家庭教師に自分の勉強をする。グレース(6歳)は算数に夢中。黒板に簡単な足し算の問題を書いて、自分で解いたり私たちに解かせたがったりする。手の指で足りなくなると、うずくまって足の指を使いはじめる格好がとても楽しい。
 勉強やミシンの途中で、突然ダンスがはじまったり、お喋りに花が咲く。誰かが「ロンドン橋落ちた」の旋律で、「もーしもしあのね」と日本語で歌った。ジャパユキを扱ったテレビドラマの主題歌らしい。「もーしもしあのね、グストモ、トラバホ(仕事が欲しい)」
 ジャパユキについて、エステリータが質問する。「日本にエンターテイメントとして働きに行く人たちのことだよ」とレティ。この近所の家でも、娘たちがトコロザワやトチギで働いている。アリスの母親のナンシーは以前サウジアラビアで働いていたし、ロレーナの恋人もサウジアラビアに出稼ぎに行っている。
 9時を過ぎてみんなが帰った後、ベイビーやアリネイルたちは明日の授業の準備をする。娘や孫たちに支えられて、レティは何とか学校を続けている。子どもたちを教え、地域の用事で走りまわり、その合間に家事をこなし、一日じゅう忙しい。夜中に洗濯をする。家には帰らない。そして子どもたちと一緒に教室の机の上で寝ている。
 私はレティに見とれる。彼女の献身とその潔さに。誰もいなくても、どこからも忘れられても、するべきことは続けるほかない。その単純さ。その強さ。そして、敬愛できる人のそばにいられることを、私は嬉しい。
 けれど、彼女の疲労はひどすぎる。
 「学校を閉じようか」。レティは言った。「お金はないし、私は疲れたし」。それから「でも子どもたちが来るからね。閉じられないよ」と笑った。

☆ビューティフル・パヤタス

 「パヤタスはいいところだよ」。そう言ってレティは、はじめて訪れたナオコとトシコを迎えた。「パヤタスで最もビューティフルなのは、蝿と蚊と、この臭い」だと笑った。
 レティとベイビーは「ビューティフル・パヤタス」を連発していた。何があってもビューティフル・パヤタスだった。「お金がない。教師もいない。停電もひどい。問題が多いよ」「だってここはビューティフル・パヤタスだから」。肩をすくめる身振りで笑いあった。
 いったい、この明るさ、このユーモアは、どこから生まれてくるのだろう。
 一緒に生きたい、と思ったのだった。私はこの人たちと一緒に生きてみたい。
 雨上がりの夕暮れ、学校の前の道を眺めていた。ゴミのトラックがえぐったのだろう。道は去年よりも深くなり、ぬかるんで、雨が降ると川になる。ベイビーが「ビューティフル・パヤタス・リバーだ。でも泳げないけどね」と笑う。それから「私が生まれたオーロラ州にはきれいな川があったよ」と話してくれる。
 ベイビーが、ビューティフル・パヤタス・リバーと言ったとき、なぜだろう、ぬかるんだ道は、一瞬ほんとうにきれいな川に見えた。美しいパヤタス川。
 トシコが到着した夜、3人で出しあったお金を封筒に入れてレティに差し出すと、「どういう意味だ」と厳しい顔で言う。客をもてなすのが私たちの文化だ、食事や宿泊のお金は受け取れない、というレティの主張は知っている。説得にかかる。「もしもホテルに泊まったらたくさんお金がかかる。その分を学校のために使ってもらえると嬉しい」。
 翌日、レティはレリタ先生を呼びもどした。

☆学芸会

 雨季、朝の登校風景はほほえましい。小さい子どもたちが、年上の子におんぶされたり、近くにいた大人に抱えられて、学校前のぬかるんだ道を渡ってくる。
 月曜の朝はフラッグ・セレモニー(朝礼)がある。国旗の前で、胸に手をあてて国歌を斉唱。宣誓の言葉を言う。それから授業がはじまる。レティがデイケア(5歳まで)のクラスの子らにお話を読む。ベイビーが英語を、アリネイルが算数を教えている。
 授業の後、子どもたちはリンゴ・ナン・ウィカ(国語週間)の学芸会の練習をした。前日は大雨のなかで大掃除だった。ロレーナはありあわせの布で教室を飾り、女の子たちの衣装もつくった。
 当日は、夏休みにマニラに来ていた日本の学生たちも参加した。出会いがあると盛り上がるものだ。練習のとき、テープをかけても踊らない小さい子どもたちを前に、レンレンは途方にくれていたが、当日はみんな、学生たちと一緒に思いっきり踊った。
 アリス(16歳)はバヤンコ(わが祖国)という歌を歌った。「わが祖国フィリピンよ、黄金と花の国、やさしい人の心美しく輝く。だが異国の船がこの平和侵して、祖国を奴隷の苦しみに・・・」
 アリスの歌にあわせて午後のクラスの十代の生徒たちが演じる。スペイン、アメリカ、日本に侵略され続けた祖国の歴史。中央で囚われの少女の目隠しをはずすのは、レイナルドの役だ。少女の目隠しがはずされると、うずくまっていた生徒たちがいっせいに立ち上がる。「 ・・・闘いに立て。東に自由の夜明けが来る」。抑圧と解放の表現だ。
 このとき「バヤンコ」を演じた生徒の何人かは、翌年ハイスクールに進学した。レイナルドとジュリアン(13歳)は働きながらハイスクールを卒業し、99年、ふたりともカレッジに進学することができた。

☆椰子の木の下には

 毎日、ドラムカンをひっくり返したような雨が降った。雨が降ると子どもたちが表に出て体を洗う光景をよく見かけたが、ある日トシコとナオコが雨のなかに飛び出して行った。アリネイルやピンゴイたちも出て行って、ゴム草履をメンコにして遊ぶ。ベイビーは裏の小屋から娘たちをひっぱりだして洗い出す。心のやりきれなさを振り払うように、どしゃぶりの雨のなか笑い声がはじけた。
 雨のせいで、下のダンプサイトにはトラックが入れなくなった。2つの山の間に3つめのダンプサイトができていたが、ここのぬかるみもめちゃくちゃで、トラックはぬかるみの上にゴミを落とす。子どもたちは膝までぬかるみにつかってゴミを拾う。
 見る度に胸がつまり、目を離すことができなくなる。でも、生きるとはこのようなことなのかもしれない。素足でぬかるみをかきわけていく。頼れるものは何もない。たぶん、生きてみようという心のなかの勇気のほかに何もない。
 ここで、崩れ落ちたゴミの下敷きになって、1人の大人と2人の子どもが死んだ。3番目のダンプサイトは間もなく閉じられた。
    *    *
 夕闇のなかでかくれんぼがはじまる。ジョイ(9歳)と建物の陰に隠れる。顔を見合わせてくすくす笑う。秘密を分かち合うのは、こんなふうにくすぐったい気持ちだった。隣の家との境にある椰子の梢に、満月がかかっている。雨あがりの空気は、しっとりとうるんでいて、そこだけ見ると、絵葉書の景色のように美しい。「ブワン(月)」とジョイが言う。それから「ブコ(椰子)」。
 椰子の木の下には赤ん坊の死体が埋まっている。ゴミ袋に入れて捨てられていたのはグレースだけではない。たいていは死んでいるが、まれには生きていることもある。その赤ちゃんも見つけられたときは生きていたが、道に置き去りにされて死んでしまった。その死体が椰子の木の下に埋められている。それを考えると、心臓に欠陥をもちながらも生き延び、レティに育てられることになったグレースは、相当に運が強い。
 椰子の木の向こう、ダンプサイトでは、夜にもゴミ拾いをするスカベンジャーたちのアルコールランプの火がゆれている。

☆ジャパユキになる?

 レティはずっと風邪ぎみで咳をしていた。見ていて、はらはらする日がつづいていた。それでもレティは一日じゅう働いていたし、ジョークを飛ばすことも笑うことも忘れなかった。それが、その日は夕方から横になったままだ。週末でアリネイルたちは父親の家に帰っていた。ベイビーが娘たちの待つ裏庭の小屋に帰ってからの静けさといったら。
 その夜は停電だった。ビール瓶のアルコールランプとろうそくを灯すと、そのあかるさの分だけ、逆に闇が深くなったように感じられる。グレースが不安そうな顔で私たちを見る。
 ふいにトシコが歌いはじめた。小学校のときに習ったフィリピン民謡。グレースを膝に乗せてゆすった。それから影絵をした。ろうそくの火を掲げると、指でつくった狐や犬がコンクリートの壁に大きく写る。グレースが目を丸くして、たちまち夢中になった。これが鳥、これが猫、これが蟹。
 不安な夜。その夜、グレースが眠くなるまで、私たちは歌を歌いつづけた。
 翌日の日曜日、レティとグレースは家に戻って休み、トシコとナオコは夕食の買い出しに行き、私は学校の留守番をした。夕方になって雨が降りはじめ、たちまち激しくなった。前の道は川で、後ろはゴミの山。すっかり陸の孤島だ。窓の外は急速に暗くなる。ろうそくを灯した。
 不思議な気分だ。まるで時空が消えてしまったよう。ここがどこかわからなくなる。闇のなかに1本のろうそくがあるだけの場所。ふと思う。本当はどんな場所も、たったそれだけの場所かもしれない。そして、生きることは、目の前に火を灯すことからしかはじめられない。
    *    *
 数日すると、レティの具合は何とかよくなったが、停電はそれから数カ月もつづいた。停電のせいで夜のクラスはお休みになった。夕食後、ろうそくの火のもとで私たちは話した。高校卒業後、いろんな仕事をしてきたナオコが、フィリピーナと一緒に働いたこともあると話すと、レティは言った。
 「私もジャパユキになる。化粧してビキニを着て踊るんだ」。レティが身振りたっぷりに言うので、笑わずにいられない。「年齢なんか関係ない。ナイトクラブは暗い。化粧すれば私がお婆ちゃんだなんてわからない。私はダンサーになって、日本で稼いで、お金をもって帰る。それで教師を雇うんだ」。
 毎晩のようにレティはこの話題を繰り返した。その度に私たちは笑い転げ、笑いながら、泣きだしたい気持ちに襲われた。

☆学校を閉じる?

 去年の留学生のキョウコが、日比混血児に関する卒論のリサーチに来ていた。マニラ周辺だけでも1万人はいるという。パヤタスでも日本人の父親と音信不通のままの兄弟を取材した。
 デイケアの授業を終えたレティが、キョウコとタガログ語で話している。「レティが学校を閉じようかって言ってる。もう続けていけるお金がないって」
 キョウコを送った後、街をぼんやり歩いた。胸が痛い。学校がなくなったら、少なくとも200人の子が教育の機会を失う。彼らはどこでアルファベットや数字を覚えるのだろう。でも無理して学校を続けて、もしもレティが倒れたら。
 見てしまった、聞いてしまった、関わってしまった。その責任とは何だろう。関わることは、必ず分水嶺に立つことだ。利己なのか、利他なのか。でも何ができるのだろう。
 翌日、2人の日本の学生がやってきた。「ゴミの山を見に行くの?」と訊くと、「それよりも話が聞きたい」と言う。パアララン・パンタオの困難な状況を話すと、「大学祭で支援を呼びかけましょう」、太田君という学生が言った。
 授業を終えたレティに伝えると、「約束か?」と訊く。口先だけの支援の申し出なら数えきれないほどあった。「約束です」太田君が答える。「嬉しい。私たちはとても困っている。あなたの申し出はとても嬉しい」。レティが頬を上気させて言った。
    *    *
 帰国の日が迫っていた。「ずっとここにいろ。お金がいるならゴミ拾いに行けばいい」と笑っていたレティが、ふと、「おまえたちがいなくなったら、私はまた一人だ」と呟いた。私たちがいても何の役にも立たない、面倒をかけるだけなのに、そんなことを言わなければならないレティの孤独がつらい。
 最後の夜、レティはごちそうをつくってくれた。真夜中、ジプニーに乗り込む私たちを、手を振って見送ってくれる。雨のなか、レティの姿が遠ざかる。
 帰国して、朝、子どもたちの声が聞こえないことが淋しかった。パヤタスでは、毎朝、子どもたちの声で目覚めていたのだった。

☆パヤタス・オープンメンバー

 9月の終わり、前年の留学生の沢田君がパヤタスを訪れると、学校は前日の台風で屋根が飛んでいた。彼は水浸しの学校に2週間滞在し、レティから話を聞き、学校の支援プログラムを考えた。ミシンは、学校の運営費をつくるために考えられたアイデアの1つだけれど、現実にはお金をつくらない。むしろパアララン・パンタオに必要なのは、これまであったような一時的な援助ではなく、継続的な援助だ。何よりも毎月の先生たちの給料や備品代が必要なのだった。
 私たちは、パアララン・パンタオの経済的支援を目的とする支援グループを立ちあげた。「パヤタス・オープンメンバー」と名づけ、郵便振替の口座を開いた。何ができるかわからない。でも、できることはやる。パンフレットをつくり、手紙を書き、会う人ごとに支援を呼びかけた。パアララン・パンタオを助けて欲しい。お金をください。無我夢中の数カ月が過ぎた。
 太田君は、約束を守った。大学祭で、サークルの仲間たちとおこなった展示と募金活動は、かなりの成果をおさめた。
 学生たちや、以前支援してくれた市民グループの協力を得て、翌年の3月までに7000ドル余りをパアララン・パンタオに送金できた。レティは借金を返済し、先生たちの当面の給料を確保した。
 パアララン・パンタオには、キョウコの後輩の牧野君が、留学生仲間と毎週通うようになった。牧野君はタガログ語ができるので、レティは彼に「ここで教えてみないか。子どもたちが楽しめることなら何でもいい」と持ちかけ、留学生たちは週に一度の授業を担当した。日本語、折り紙、紙芝居、福笑い、合唱、エトセトラ。
 日本からお金が届くまでの間、先生たちの給料を立て替えた栗生君は、ジャンクショップでゴミの仕分けにも没頭した。彼の卒論にはゴミの値段が細かく記載されている。
 3月、パヤタス・カードが届いた。子どもたちの絵にレティのメッセージを添えた、小さなカード。これを寄付してくれた人に送るのだが、なんといっても500枚以上の子どもの絵だ。見ていると楽しくてしょうがない。
 エミリ・ブロンテの詩を思いだした。
  「大地と月が 消えはて
   太陽と宇宙が 存在しなくなっても
   あなただけが ひとり残っていれば
   あらゆる存在は あなたのなかに存在するだろう」

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