ゴミの山で生きて、学んで、笑って

第4章 ワンパクたち  1996年9月

☆ワンパクたち

 1996年9月、一年ぶりにパヤタスを訪れた。着いたのは深夜近く。家々のあかりもおおかた消えた暗がりの坂道を降りる。学校前の道は、去年よりもさらに深くえぐれてぬかるんでいる。道端にいた男たちが、渡り終えるまで足もとを懐中電灯で照らしてくれた。
 レティ(56歳)とグレース(7歳)が迎えてくれる。朝、家を出て、夜、帰ってきた、そんなふうな自然さ。話したいことはたくさんあったのに、言葉が出てこない。「あとにしよう。とにかく食べなさい」とレティ。
 来てみると、つかのまもここを離れたことはなかったような気がする。翌朝、教室で九九を暗誦する子どもたちの元気な声を聞きながら、台所でコーヒーを飲み、レティが揚げてくれた朝食のバナナを食べた。
 今年も生徒は200人を超えている。午前中はデイケア(5歳まで)と、6歳から10歳までの3つのクラスがある。年齢別と能力別を組み合わせたかたちでクラス編成がされている。同じ年齢でも、読み書きのできる子もいれば、できない子もいるからだ。午後は10代20代の生徒たちの3つのクラス。
 レティとベイビー(34歳)のほかに3人の新しい先生がいる。メリージェーン(17歳)は向かいの家の娘。ハイスクールを卒業したばかり。サリーは給水塔の近くに住んでいる。マジョリー(23歳)はレティの姪にあたる。夫や娘と田舎から出てきてレティの家で暮らしている。一方、レリタ先生は飼っていた豚が病気になって先生をやめた。何といってもゴミを拾ったほうがましなくらいの薄給なので、生活が厳しくなると続けられない。
 「今年の生徒は落ちつきがない」とレティは言った。去年まで子どもたちは比較的おとなしく授業もやりやすかったが、今年はレティが見回っていないと授業にならないこともあるという。精神的に不安定な子どもたちの様子から、レティは、その家庭環境に多くの問題があると察した。
 いっときもじっとせず、教室じゅうを飛び跳ねていて、たちまち目についた男の子がいた。この年フィリピンに留学して、毎週パアララン・パンタオに通っている太田君は、彼に「ワンパク」というあだ名をつけた。ワンパクは今、子連れ出勤してくるマジョリーの2歳の娘のジェシカと一緒に、入り口にすわって、はげしくなった外の雨を見ている。

☆ブロークン・ファミリー

 デイケアのクラスで家族の絵を描かせたとき、2つの家族を描いた子がいたという。父親の家族と母親の家族。別れても他の土地に移ることもできないので、ごく近所に別の家庭をもつことが多い。子どもたちの環境は複雑だ。
 「自分の子かどうかを疑われて、父親に殺されかかった男の子がいる。親の暴力を逃れて町に出て、ストリートチルドレンたちに身ぐるみはがされた少年もいる」とレティ。
 ブロークン・ファミリー(家庭崩壊)の問題は深刻だ。家庭が壊れると子どもが教育されない。ワンパクは10歳だが、名前も数字も書けない。彼の父親は人を殺して刑務所にいる。母親は他の男と出奔した。ワンパクはお婆さんの家にいるが、お婆さんはゴミを拾って生活するので精一杯。「ワンパクは誰にも育てられていない。自分で勝手に育ってきた」。
 「ビッグ・ワンパクもいるよ」とレティが笑った。自分勝手に生きることに慣れて、授業中も気の向くままにお喋りし歩きまわる10代後半の少年たち。リサ(16歳)はマリファナをやっていたこともあるという。ともあれレティは、リサにも少年たちにも、授業中に教室で煙草を吸わないことは約束させた。

☆太田君のチャレンジ

 前年の留学生たちに倣って、ときどき折り紙や日本語を教えていた太田君が、午後のクラスで科学の授業をするという。1日目の今日は、なぜ科学を学ぶのか、学習の目的と方法を説明する。
 「世界は謎に満ちているよね」と出だしはかっこよかった。それから自然の変化を話そうとしたらしい。もみじの紅葉を例にあげたが、フィリピンにもみじはない。生徒たちは首を傾げる。レティが「かわりに」と外からカモテ(いも)の葉を摘んでくる。だが、カモテの葉は紅葉しない。
 何だかはらはらするような授業の最後は、アンジーという13歳の女の子が「科学を学ぶことは、謎だったことが謎でなくなるということなんですね」とまとめてくれたらしい。
 太田君の授業は、彼の英語をマジョリー先生がタガログ語に訳すというややこしさ。日本の学生が、ここで拙い授業をすることに意味があるのか、ということだが、「大いにある」というレティの価値発見のまなざしはしたたかだ。子どもたちは英語がよくできない。習ってもここでは使う機会もないので上達しない。そこでレティはこう言って励ますのだ。「彼は英語が上手じゃない。でもチャレンジしている。チャレンジしているうちに上手になる。おまえたちもやればできるんだよ」
 英語が上手でないからこそ、その授業に価値がある。その人でなければできないことがある。このまなざしは、何よりも太田君を勇気づけた。

☆豚小屋のあかり

 裏庭では鶏と七面鳥、それから豚を4頭飼っている。少しでも現金収入を得られるように飼いはじめたが、世話は大変だ。外が暗くなった頃、豚小屋の前では火が燃える。ベイビーがドラム缶で豚の餌を煮ている。「ダンプサイトに餌を拾いに行ければいいけど、毎日とても忙しいから買うほうが多い。マジョリーの夫がゴミのトラックに乗ってるから、ときどき餌をもってきてくれる。レストランの残飯のスパゲティやチキン。豚は私たちよりずっといいものを食べてる。とてもたくさん食べる。1日に5回も食べるよ。私は朝コーヒーを飲んで、パンをふたつ食べたきりなのに」と笑う。
 リンリン(6歳)がドラム缶のまわりを飛び跳ねる。小さなインディアンの歌の、インディアンをバボーイ(豚)に替えて私たちは歌った。リンリンはしっかり自己主張をするようになり、皿を洗うお手伝いもする。見違えるようにおてんばになった。ベイビーの小屋では、長女のジョイ(10歳)がカマドで米を炊いている。
 火、というのは不思議だ。夜のなかに、豚の餌を煮る火が燃えはじめると、そこに行きたくなる。ベイビーの横顔が赤く染まる。きれいだな、と思う。なんだかうっとりするような時間が流れる。

☆ダンプサイトの子どもたち

 ティナ(7歳)とジョスリン(7歳)が大きなゴミの袋をひきずっていく。その袋を一緒に運び、そのままダンプサイトに向かった。昨夜の雨のせいでひどいぬかるみだ。山にのぼるだけでけっこう疲れる。こんなにぬかるんでいては、ゴミからゴミへ渡るのも難儀だが、子どもたちは飛ぶように軽々とゴミの上を渡っていく。
 1台のトラックが落としたゴミに子どもたちが群がり、残飯の山を夢中で掘り返している。みんなが探しているのはランソーネス。黄土色の実が房になっている甘酸っぱい果物だ。残飯のなかから一粒ずつ拾いあげて、夢中で食べている。オレンジを見つけた女の子が、皮を剥いて、近くにいた少年と分けあって食べた。
 ジェニファー(10歳)も夢中でランソーネスを食べていた。学校の生徒だ。
 ジェニファーがデイケアの頃、クラスをずっと休んだ。心配したレティが家を訪ねると、一家7人全員が病気で寝ていた。レティは家族を病院に連れていった。そのとき5人いた子どもの1人が死んだ。帰宅した家族を見舞ったレティが「子どもに薬を飲ませているか」と訊くと、母親は「処方箋が読めない」と告げた。レティは絵を描いて説明した。その後さらに2人の子が病気で死んだ。一家は田舎に帰ったが、1年後にパヤタスに戻ってきた。そのときには母親も病気で死んでいた。7人いた家族は3人になった。
    *    *
 ある朝、学校に近所のお母さんがやってきた。13歳の息子のニーニョがいなくなったという。「シャイで真面目ないい生徒だよ」とレティ。ニーニョは2日前からいない。お金ももたずシャツも着ず、ズボンとゴム草履の格好でいなくなった。何か悪いことが少年の身に起きるのではないかと、お母さんは心配している。でも誰もどうすることもできない。ニーニョの家はお父さんが病気になったので、売れるものは全部売って、隣人からお金を借りて生活している状況だという。

☆ワークショップ

 通称を「チルドレンズ・ラブ」というNGOがある。パアララン・パンタオの開校当初から、教科書の提供や教師の育成など、学校への技術的な支援を行なってきた。アランは、チルドレンズ・ラブのスタッフ。レティが精神的に不安定な生徒たちの問題を相談したことから、このところ毎週来ている。
 アランの早口の英語を、レティがゆっくり喋り直してくれる。彼らのNGOがいま取り組んでいるストリートチルドレンの売春やエイズの問題を彼は言い、日本の子どもたちにはどんな問題があるのかと訊く。その頃しきりに報道されていた、いじめや自殺の問題を言うと、「10歳や15歳の子どもが自殺するのか?」と驚いている。子どもが自殺する。どんなに生きる環境が厳しくても、ここではまず考えられないことだ。
 夜、一度帰宅して夕食をとった生徒たちが戻ってくる。10代の12人の生徒が、アランを囲んで輪になってすわる。これで3度目のワークショップがはじまる。目的は、つらかったり、不幸だと感じた経験を、自分のなかに閉じこめるのではなく、問題を分かちあうことで、乗り越えていく強さを見いだすこと。
 歌やゲームでなごやかになったところで、アランは黒板にグラフを書いた。横軸に年齢、立て軸に数字を0から5まで刻む。数字は幸福感をあらわしている。5がとても幸福、0がとても不幸。「ライフグラフ」とアランは書いた。
 まず自分のライフグラフについて語ったアランは、生徒たちに、それぞれのライフグラフをつくらせた。ひとりの少年は、10歳のときを5として、そこで書くのをやめた。アランを見て笑っている。「その後はどうなの?」とアランが促すと、彼は5から現在値(12歳)の0まで一気に下降線を引いた。もう笑っていない。アンジーも現在値は0だ。
 おずおずと、子どもたちは自分自身について、語りはじめた。
    *    *
 いったい、子どもたちをとりまくどんな問題があるのかと訊くと、アランは言った。「具体的には、親や隣人からの肉体的暴力や言葉などによる暴力。体や心が傷つけられると、それは必ず心理的な問題になって残る。ケアが必要だ」
 家庭で暴力にさらされた子どもたちがストリートチルドレンになっていく。親の性暴力から逃れるために家を出た女の子が、ストリートで売春を覚えていく皮肉。彼女らもやがて結婚するが、離婚するケースが非常に多い。でも子どもが残される。同じことが繰り返される。貧困、家庭崩壊、子どもへの虐待、売春、犯罪が密接にからみあっている。
 「日本ではどう?」とアラン。
 「子どもへの暴力は日本でもある。でも大人たちは知りたがらない。子どもたちは話せない。傷ついた子どもは自分を表現できないでしょう。それが暴力だと認識できるとも限らない。暴力は隠されてしまう」
 「それが一番問題だ」とレティ。
 パアララン・パンタオでは、1人の男の子と4人の女の子のケースがあきらかになっていた。9歳の男の子は、父と兄からの肉体と言葉の暴力。女の子たちは義父や隣人からの性暴力。
 発見された暴力はほんのわずかで実際はもっとあるだろう。「このような犯罪が現実にあることを、まず知らなければいけない」とレティは言い、「子どもの権利を守るために闘える強さが要る」とアランは言った。
 「子どもたちに自分がひとりの人間だと認識させること、暴力を受け入れない、立ち向かう動機づけを与えること。そして、何よりパアララン・パンタオのように、暴力から子どもを守れる場所が必要なんだ」
 子どもたちには、心から安らぎを感じられる場所が必要だ。とりわけ家庭が危険になってしまった子どもたちにとって、パアララン・パンタオの存在はかけがえがない。

☆幸福になる権利がある

 「レイプド・チルドレン(レイプされた子どもたち)」とレティは言った。ありふれた話だ、ここでもやっぱりあったというだけだ、と平然と受けとめたつもりだったが、「マリリン」という名前を聞いたとき、痛烈な痛みが走った。体が裂けるかと思った。
 マリリンは16歳。近くに住むジェイン(34歳)の義理の娘で、午後の生徒だ。両親は離婚してそれぞれ別の家庭をもっている。マリリンは去年閉鎖されたトンドのスモーキーマウンテンで母親と暮らしていたが、義父の暴力を母親に言うと、母親は怒った。マリリンを責めたのだ。マリリンと妹は母の家を出て、父のいるパヤタスにやってきた。
 アンジー(13歳)はケソン市の他のスラムから去年移ってきた。両親はいない。68歳の養母と、どういうつながりなのか25歳の男と暮らしていた。アンジーに対する男の暴力を養母はとめなかった。ナイフで脅されているのも、見て見ぬふりをした。事情を知ったレティは、養母に言った。「おまえたち二人とも刑務所に送るぞ」。アンジーを家に帰せない。アンジーは今、マジョリー先生の家で暮らしている。
 少女たちは、男の暴力に傷ついただけではない。それによって、母という存在さえ失った。
 ティナは7歳。両親は離婚して、彼女と兄は祖母に育てられている。「ノートもとらないし、集中力もない。ずっと心配していたんだが、彼女は4歳のときから隣人にレイプされていた」。
 心がぐらぐらする。叫びだしたかった。
 ある朝、登校してくる生徒たちを表のテラスで迎えていると、にこにこして道を渡ってきたティナが、傍らにきてそっと私の手を握った。
 「何があっても幸福になる権利を奪われたりしない」とそのとき思った。その確信に根拠はないが、そのような確信なしに、さしのべられた手を握り返すことはできないと感じていた。
 幸福への確信。きっとそのほかには、どんな同情も善意も役に立たない。「かわいそう」というまなざしさえ、心を傷つける。見て見ぬふりをすることも。誰が自分の人生が「かわいそう」でいいと思うだろう。誰が目を背けられる存在になりたいものか。

☆心の声

 児童虐待に関する何冊かの本を、アランはレティに渡した。「勉強しなきゃいけない」。本をめくりながらレティが言った。「私は教育の専門家ではないし、まして地域開発や、心理学、傷ついた子どものケアなど、勉強したこともない。でもそれが今の私の仕事だ」。
 『彼らの心の声を聴け』というタイトルの本は、出版されたばかり。絵や言葉によって表現されたストリートチルドレンたちの内面世界を扱っている。彼らがどのような虐待を経験してきたか。その結果、世界と自分自身をどのように感じるようになったかが、経歴や家庭環境とともにあきらかにされている。
 絵の悲劇性は疑いようがない。瞳のない目。手足のない自画像。首から上しかない鳥。紙の片隅に小さく丸と線であらわされた家族。かと思うと画面いっぱいのドクロと銃。
 肉親や身近な大人からの性暴力にさらされた子どもたちの章には次のようにある。「このグループには、肯定的な世界観を持った子どもはいない。もっとも何人かは、変化の希望を抱いている。このグループには3つの異なる世界観があらわれている」。
 第1は「とても悲しく、残酷で、希望がなく、自分を拒絶する世界。彼らのほとんどが世界は邪悪で、人を助けたりしない冷淡な人々によって成り立っていると感じている。残酷で自分を拒絶する母親たちや、虐待した男たち、子どもたちを見捨て圧迫し犠牲にする男たちだけでなく。彼らの言葉はこうだ。『ひとりっきりだ』『見捨てられた』『愛されない』『使い捨てにされる』」
 第2は「困難で、重荷ばかりの、うんざりする抵抗し難い世界。受け身で助けのない立場にあるこれらの子どもたちは、世界を、混乱して無秩序で、克服することのできない苦難に満ちていると見るようになる。『どうすることもできない』。苦難に耐えるしかなく、あるいは、耐えることで報いられるだろうというのが、基本的な信念だ。解決を見出そうとするのでなく」
 第3は、それらの文脈の上に成立する期待だ。何かが変わり何かが起きるという期待。しかし自分に何かができるとは思っていない。子どもたちの絵には、手足がなかったり非常に萎縮した手足を描いているものが目についた。不可能性の檻の中に心が閉じこめられているのだろうか。期待は、はかなくてせつない。
 「『しかし私は望みつづける』『しかし私はこの問題を乗り越える寛容さを持っている』『苦難を耐えたら報いられるだろう』『残酷な母親たちは後悔するだろう』」
 「『レイプするような獣たちは、この世界から追放されるといい』『虐待するような奴はいなくなるといい』」
 少女たちは、性暴力にさらされた体験をどう見ているのか。
 「まず、悲しみと苦しみの深く抵抗し難い感覚。彼らの言葉はこうだ。『傷つけられた』『私の内面は深く傷ついている』『私の心は傷ついている』。幾人かの子どもたちは言った。自分は殺されてしまったように感じる。生きる理由がない。思い出すと死にたくなる」
 「次に、取り返しのつかないダメージを受けたという感覚。この体験によって、女性である自分はすでに失われた。『私の性は壊された』『私は何かを失った』。愛されるに値しないものになり、人生は取り返しのつかないほど破壊された」
 「この知覚は、しばしば恥の感覚を生じさせる。自分を汚れていると感じ、愛情関係も人生の成功も決して築くことはできないと感じる」
 「ひとりの子どもは、私は結婚したくない、とインタビュアーに語った。なぜなら、結婚したらレイプされるからだ。なぜレイプされるの?と訊くと、彼女は言った。『女だからよ。暴行されるの。そうでしょう?』インタビュアーが結婚していると知ると、彼女は訊いた。『あなたはレイプされているの?』」
 おそらく、肉親や身近な大人からの性暴力ほど残酷なものはない。しかもそれは隠されやすい。大人たちは巧みに暴力を正当化し、子どもを恥と罪の感覚のなか、沈黙のなかに閉じこめる。まるで、犠牲者が犯罪者の罪を負わされるような、そんな転倒の世界で、生きることが絶望的なものにならないわけがない。
 子どもにとって信じて身を委ねるしかない世界からの暴力。拒むことは、生きる場所を失うことだ。恐怖や不安を抑圧したまま、自分を破壊する存在に頼って生きなければならない光景には、言いようのないおぞましさがある。
 そしてそれは、世界じゅうで、むろん日本でも起こりつづけている現実なのだ。

☆グッド・ラック

 ある日、留学生の山田君が20本ほどのリコーダーを抱えてやってきた。どういうわけでか、留学生寮に長い間放置されていたのをもらってきた。学校には以前もらったピアニカもある。そこで音楽クラブをやろうかという話になり、夜、午後の生徒たち10人ほどが参加した。
 みんなリコーダーを手にするのも、ドレミの音階を習うのもはじめて。運指は正確なのに音が出せないアンジーと、音は出せるのに運指を覚えられないモニカが教えあいっこをする。先生泣かせのビッグ・ワンパクたちが優秀で、ボーン(16歳)とジョバンニ(17歳)は、たちまち「キラキラ星」を吹けるようになった。
 休みの日、グレースは朝からピーピー吹き鳴らし、裏の小屋からリンリンがピーピー応える。まるで鳥がさえずり交わしているようだ。
 明日はベイビーの末娘のエライジャンの誕生日だ。「2歳になるんだね」と言うと、「でもただ誕生日が来るだけ。ケーキもない。アイスクリームもスパゲティも風船もない」とベイビー。「月末まで、もう何にもお金がないのよね」とエライジャンに頬ずりする。「ワランペラ(お金がない)」とリンリンがにこにこしながら言う。何だか母と娘が楽しい秘密を分かちあっているという雰囲気だ。お金はなくても、涙と笑い声はたくさんある。
 その夜遅く、たらいに落ちる雨漏りの音、外の雨音、豚の鳴き声に混じって、ベイビーのピアニカが聞こえた。エライジャンのために、音を探しながら「ハッピー・バースディ」を弾いている。
    *    *
 滞在の最後の夜、「アテ・カズミは明日帰るの?」と訊くアンジーに、「来年の明日だよ」とベイビーは答えた。ふと胸が熱くなる。やさしい土地だ、と思う。やさしい人たちだ。
 別れ際、背中から抱きついてきたアンジーが「グッド・ラック(幸運を)」と耳もとで言う。言いたい。あなたこそ。本当にあなたたちこそ。

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