ゴミの山で生きて、学んで、笑って

第5章 地球が舞台  1997年7月

☆地球が舞台

 『ストリートチルドレンとともに』というタイトルの、世界各地の取り組みを紹介したユネスコの報告書(1995年)に、パヤタスのゴミ山の学校「パアララン・パンタオ」のことが書かれていた。一部抜粋してみたい。

 「ゴミ山に学校を創るといったら興味深い話だが、パアララン・パンタオはユニークな学校だ。パアララン・パンタオには定期的な収入はなく常勤の教師もいない。すべてがありあわせだ。生徒たちに制服はなく、学年もない。ここは空っぽの建物からはじまり、ゴミ山からリサイクルしてきたものでまかなわれている。生徒たちは既存の学校制度をはずれた者たちだ。
 パアララン・パンタオは、二つの組織の協力でできあがった。一つは地域の住民組織「ダンプサイト隣人組合」、もう一つは、新たな教育芸術を目指すグループ「劇を取り入れた子どものための教育の実験室(略称チルドレンズ・ラブ)」である。
 財源はごくわずかだったが、子どもたちに教育を与えたいという熱い思いと、人間本来の創造性で、この地域の子どもたちにもっとも必要な学校を創りあげた。子どもたちには、仕事を続け家計を支えながら、自尊心やアイデンティティーを形成できるように、時間的に融通のきく学校が必要だった」
 「パアララン・パンタオのねらいは明快だ。
○共同体を支援し、創造力や機知に富んだ可能性を開発する。
○子どもを一人の個人として、あらゆる面で創造的な人間として受け入れる。
○子どもに安らぎの場を与える。既成の教育観にとらわれず、学習成果や創造的な経験の分かちあいの場としていく。
 パアララン・パンタオは子どもたちに知識を与えるだけでなく、行動を重視した学習過程から、自分自身を見つめる勇気を与えた」
(以下略)

 何年も前の、学校ができた頃の様子が伝わってきて、興味深い内容だったが、何よりも「分かちあう」という言葉に、私は驚いた。日本で十何年も学校教育を受けてきたが、「分かちあう」という言葉はそこにはなかった、と思った。勉強は自分の問題で、他人とは関わりのないことだった。そのことが、何かさびしく思えた。
 報告書のパアララン・パンタオの章には「地球が舞台」というタイトルがついていた。私たちはそれを、パアララン・パンタオのニュースレターのタイトルにした。
 訳して送ってくれた太田君は、留学生活の後半をパアララン・パンタオに下宿し、通訳のアルバイト料で学校の運営を支えてくれていた。お金が底をつこうとしていたのだ。
 97年6月、新学期がはじまるのに送金できない。途方にくれていたとき、新聞に学校を紹介する短い文を掲載する機会を得た。寄せられた寄付から、なんとか半年分の送金をすませたときは、もう心底ほっとした。

☆イサ・ダラワ・タトロ

 1997年7月の終わり、パアララン・パンタオを訪れた。教室はペンキが塗られて、とてもきれいになった。空気が明るい。どこか深いところから幸福がにじんでくるようで、朝、子どもたちの声で目覚める度に喜びが湧いた。今年も200人近い生徒が通ってくる。
 午前中はデイケアのほかに10歳までの3つのクラスがある。ワンパク(11歳)が去年と同じように教室を飛び跳ねている。午後は2つのクラス。一番年長の生徒は20歳だ。生まれてはじめて学校に通う彼は、アルファベットを習っている。
 ベイビー先生(35歳)の娘たちもパアララン・パンタオの生徒になった。ロレン(5歳)がデイケア。リンリン(7歳)が1年生。ずっと公立小学校に通っていたジョイ(11歳)も今年はパアララン・パンタオで勉強している。「学校まで遠いし危険だから」とベイビーは言ったが、妹も学校に行く年齢になって、2人も学校に行かせるのは、経済的に厳しいのだろう。
 レティ校長(57歳)はデイケアのクラスを教えている。「イサ・ダラワ・タトロ(1・2・3)」。レティのかけ声にあわせて、にぎやかに足踏みする小さな足たち。

☆リアリティとビジョン

 ある夜、学校に帰ってくると台所は異様な臭いが漂っていた。「天井裏から猫の死骸が出てきたんだ」とレティ。何だかあっけにとられた。
 台所は臭いので、教室でコーヒーを飲みながら、レティは、ダンプサイト(ゴミの山)で迷子になっていた4歳の男の子の話をした。教会に預けて親を探していたのが、その日ようやく見つかった。パヤタスA地区の子で、ここはB地区だから遠くから来たのだ。
 「何かハプニングが起きる度、私の祈りが足りないからだろうかと思うよ」とレティは言い、何という人だろうと私は思った。責任感とは、他人の幸福に責任を感じる心のことだろうか。祈り、信仰もまた、その責任感とともにあるものなのか。
 その夜、私たちはお金の話をした。ミシンは、教室の隅で物置き台になっている。これまでに何度か、休日に母親たちを集めて帽子や鞄を縫ってみたが、収益が得られないことを確認しただけだった。学校の運営費どころか、母親たちの手間賃にも足りない。「ミシンを踏んでも1日に20ペソにしかならない。ゴミを拾えば100ペソ。ここではゴミを拾ったほうがお金になる」とレティ。「それに私は学校の仕事がある。全部はできないよ」。それから支援してくれた人たちを気遣うように「でも、ゴミの山が閉鎖されたら必要になるよ」と言った。
 約束できることとできないことを明確にすることは大切だ。クリスマス前にもう一度送金できること、でもその後は何も約束できないんだとレティに言うと、レティは「ベストを尽くしてくれていると、よくわかっているよ。ありがとう。来年どうなるかなんて、私だってわからない」と笑った。
 前年の96年、学校は立ち退きの話に動揺した。学校周辺の240世帯で構成する「隣人組合」の土地が、地主である政府の機関から、立ち退きか土地を買い取るかを迫られた。240世帯の土地の値段は1200万ペソ(当時約4800万円)。期限は97年2月。
 その話に、私たちも動揺した。長年マニラのスラムで活動してきたNGO「PPF(心の提供基金)」の谷崎さんが、そのときに言ってくれた言葉が、胸に残っている。「できないこともありますよ。たとえ学校がなくなっても、支援してもらったのに実らなかったと考えるのではなくて、支援のおかげで、子どもたちが一年でも半年でも勉強を続けられたことを喜ぶべきですよ」
 レティは土地問題を扱っている国内のNGOにも相談した。その後、立ち退きの話は消え、97年2月を過ぎても学校も地域の人たちもしっかりとここに存在しているが、法的にはみんな不法居住者だ。多くの子どもたちは出生証明もないので、法的には存在さえしていない。いったい、これからこの土地はどうなっていくのだろう。それから子どもたちは。
 「これからのビジョンを訊かれたら、どう答えればいいだろう」私はレティに訊いた。 するとレティは「私だって教育や地域開発のプロじゃない」と肩をすくめて言った。「ときどき思うよ。もうやめようか。学校を閉じて、自分の生活や家族のことだけ考えて生きようか。どこか別の土地で暮らそうか。でも翌日になったら思い直す。私はやっぱりパヤタスが好きだ。ここの子どもたちを大切だ。その繰り返し」
 レティは言った。「もしも誰かからビジョンを訊かれたら、一週間でいいから、ここに滞在して、パヤタスの現実(リアリティ)を知るように提案するといい。そしたら、ビジョンはその人自身のなかに見えてくるよ」
 ああそうか、と思った。一人の人間が何を感じ、どう決意し、どう行動するか、ということのほかにビジョンなんてないんだ。
 「リアリティ」という言葉が胸に響いた。ゴミの山のリアリティ。それは、仕事もお金もなく、家族も故郷もなく、ここでゴミを拾って生きるほかないときに、おまえはどんな人間なのか、を問われることのように思えた。
 あるいは傷ついた子どもの傍らに、どんな人間として存在し得るのか。
 リアリティとは、人格のことだろうか。そう思ったとき戦慄が走った。ゴミの山という外的なリアリティを問うとき、私たちは同時に、自分の人間性という、もうひとつのリアリティを問われているのかもしれない。
 そして、どんなビジョンを描こうと、人間を幸福にできるのは人間しかいない。
 レティが、どんな困難のなかで踏みとどまってきたかを、あらためて思った。そして、彼女が踏みとどまっていることを、パヤタスの子どもたちのみならず、私たちまでもが守られることであるかのように、私は感じてきたと思った。
 変な臭いの漂う薄暗い教室で、深夜まで私たちは話していた。

☆パヤタス・フレンドシップ・カード

 パヤタス・カードをつくろう。教室の隅で台紙の色画用紙を切りはじめると、グレース(8歳)が手伝ってくれる。ところが彼女は、紙をどれだけ速く切れるか、に情熱を傾けた。グレースはとても得意そう。紙はギザギザ。
 カードの左側は生徒たちが描いた小さな絵。右側はレティのメッセージとサイン。これを学校への寄付をしてくれた人たちに送るのだ。
 「パヤタス・カードはただの紙だ。そんなものでお金をもらうのは申し訳ない」というレティに、「スポンサーたちは子どもたちの絵を楽しんでくれるよ」と私たちは言った。子どもたちは、与えられるだけの存在じゃない。喜びを見つけ、それを伝えることができるのだと言いたい。そして、何よりも友情によって支えられる学校であって欲しい。
 ベイビーの娘たちがはりきった。ジョイとリンリンは家でも競いあって描いた。リンリンの描きかけの続きをジョイが描いた一枚。太陽から緑の首が伸びて葉っぱがついた。リンリンの太陽はジョイには花に見えたらしい。
 午前の授業の一時間を絵の時間にした。午後のクラスは放課後、有志が残って描いた。ベンジャミン(17歳)はとても繊細な絵を描く。「彼は芸術家だよ」と先生たちも感心している。ベンジャミンは母親とは生別、父親とは死別して、いとこの家に身を寄せている。
 アンジー(14歳)は、不思議な花の絵を描いた。去年、彼女は、ケソン市のフリースクールの生徒たちを対象にした絵画大会で、一等賞と賞金の1000ペソを獲得した。
    *    *
 翌年の3月、帰国した留学生が預かってきてくれた生徒たちの絵のなかに、とりわけ印象的なアンジーの絵があった。
 伐採されて切り株だらけの山から「公害」「暴力」「ドラッグ」という3つの大きな岩が転がり落ちてくる。山の麓で涙を流している女の子が、夢見ているのは平和な地球。画面の隅には2輪の花。ひとつはきれいに咲いて蝶が来ているが、もうひとつは枯れている。
 アンジーの絵の、花の部分を、グレースは拡大して描いていた。レティが「チャイルド・アビューズ(児童虐待)」というタイトルをつけた花と蝶の絵は、「蝶が花をレイプして、花が枯れてしまった」という意味だ。

☆つかのまの弟妹

 96年の9月、カンデラリア家のマリアちゃん(2歳)が死んだ。最後に会ったとき(死の数日前だ)お母さんのスカートにしがみついていた彼女の顔色がとても悪かった。心臓が悪かったのだ。
 ゴミ山の登り口にあるカンデラリア家に立ち寄ると、女の子たちが迎えてくれる。きょうだいが多くて、みんなとても仲がいい。ふと、椅子にすわっているお母さんの腕のなかに、去年生まれた赤ちゃんがいないのに気づいた。赤ちゃんを抱いていないお母さんの腕は、とても寂しそうな姿で、不安な気持ちがよぎった。
 「アントニオは?」と訊くと、「病気で死んじゃった」と肩をすくめた。「7か月しか生きなかったよ」と言う。では、ほんの半年の間に2人の子どもを失ったのか。思わずお母さんを抱きしめた。
 女の子たちが写真を出して見せてくれる。パヤタスを訪れた日本の留学生たちが残していった写真のなかに、つかのまの弟妹の姿があった。

☆雨降れ雨降るな

 日曜日、台所でベイビーが、チルドレンズ・ラブの依頼で、スカベンジャーの子どもたちのアンケートをまとめていた。
 「どんなことが書いてあるの?」
 「たとえばこれは午後学校に来る生徒、14歳の子だけど、朝6時から10時までゴミを拾う。収入は60ペソから100ペソ。一週間で400ペソくらい。お金はお母さんにあげるが、休みの日は自分のために使う。一日はずっと働いて、もう一日は街へ出て、映画を見たりTシャツを買ったりする」
 ベイビーはため息まじりに話し出した。
 「私は一日ここで教師をして100ペソにしかならない。夏休みの間、私は娘のジョイとダンプサイトに行ったけど、ゴミを拾ったほうがお金になるよ。工場からのゴミで大きな石鹸の塊を拾ったときは、ママ・レティにもあげた。子どものおもちゃや英語の本、椅子や壁掛けも拾った。ゴミの山のほうがお金があるよ」
 雨が降りはじめた。
 「ペソの雨が降ってこないかなあ。私の夢だよ。クレージーな夢だね」うっとりした表情でベイビーが言い、通りがかったレティが「私はドルがいい。ドルの雨降れ」と笑う。
 「明日どうなるかなんて、わからない。わかるのはただ今日だけ。今だけだよ」。外の雨に目をやりながら、ベイビーが言った。
 ここにいると「今」というときが深くなる。思うにまかせない現実でも、「今」をどんな心で埋めていくかは、私たちの思いのままだ。やさしい気持ちが通いあう「今」が本当にかけがえがないと、ここにいるとよくわかる。
 休日のがらんとした教室では、グレースが歌っていた。「雨、雨、あっちへ行け。私たちは遊ぶんだから。別の日にまたおいで」
    *    *
 真夜中、ものすごい雨音で目が覚めた。金だらいを叩く雨漏りの音も消えるほど、外の雨音がはげしい。台風だから明日は学校は休みだなあ、と思いながら、まるで洪水のような雨の音を聞いていた。自分が今、屋根と壁があるところで、台風の雨から守られているということが、何だか不思議だ。偶然にもノアの箱船に乗り込むことのできた、小さな生き物のひとつであるような気持ちがした。

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