ゴミの山で生きて、学んで、笑って

第8章 ゴミ山崩落惨事  2000年7月

☆ゴミ山崩落惨事

 2000年7月10日の夕方、パヤタスのゴミの山が崩れて多数の死傷者が出たというニュースが流れた。ゴミの山のどのあたりが崩れたのか。私たちが支援するフリースクール「パアララン・パンタオ」もゴミの山のすぐ麓にある。不安で心臓がバクバクした。
 幸い、その夜のうちに学校の無事は確認できた。「現場は学校から1km離れている。大丈夫だよ」と電話の向こうでレティ先生(60歳)は言った。 
 事故は朝8時頃起きた。前日まで、台風の雨が一週間以上も降りつづいていたという。現場は、学校とはゴミの山をはさんで反対側だが、そこからは37人の生徒がパアララン・パンタオに通っていて、安否が気遣われた。
 死者は日を追って増えていった。数十人から百数十人に。10日後には発見された死者の数は200名を超えた。行方不明者も相当な数にのぼると予想された。
 一日600トンから1000トンものゴミが運び込まれるパヤタスの処分場は、広さ30ヘクタール、高さは50メートルにも達している。そのゴミの山が2度にわたって崩れ落ち、周辺の数百世帯の集落を埋めた。
 その日は交通機関のストライキで公立の学校が休みだったため、家にいた子どもたちの犠牲が大きくなった。
 留学生のキクコは、2日後に現場を訪れた。あたりはゴミの臭いだけではない、異様な臭いが漂い、また谷間に水が溜まってゴミは泥沼状態で、救出作業の容易でないことが窺えたという。案内してくれたベイビー先生(37歳)が、その泥を指して「子どもたちはまだ眠っているのよ」と言ったのが、とてもつらかった。首のない子どもの遺体が発見されたとき、その周辺の親たちがみな、自分の子どもだと言い張った、という話も聞いた。

☆人々はゴミのなかに埋葬された

 七月下旬、以前からの予定通り、パヤタスを訪れた。レティの長男のジョジョはカメラマンだ。彼が撮った事故当日の写真は、新聞の一面を飾った。レティが写真を見せてくれる。ゴミのなかから引き上げられる死体の、思わず目を背けたくなる光景があった。
 その週末、私はレティと現場を訪れた。
 にわかに信じがたい光景だ。表通りから路地に入ると、数軒先はいきなりの断絶。見渡す限り、一面のゴミの広がりがあるだけ。ほんの半月前まで数百世帯の家々が密集していた谷間はすっかりゴミに埋められて、そこに集落があったという形跡もない。残っていた家もブルドーザーが潰してしまった。
 レスキュー隊はもう来ていない。「死者たちのことはもう忘れられている」。レティが悔しそうに呟いた。
 壊れた家で子どもたちが遊んでいた。なかに、皮膚が木の皮のような少年がいた。肌の色の濃いところと薄いところが魚の鱗のようにも見える。いったいどうしたのか、と声をかけるレティに、「病気なんだよ」父親らしい男が言った。少年の弟も同じ病気だという。
 日が暮れかかっていた。夕闇のなか、ひとりの男が立入禁止になっている事故現場のゴミの上を歩いていた。彼は妻と2人の子を失った。遺体は見つからず、家のあったあたりから、娘が使っていた本だけを見つけた。
 また別の場所では、瓦礫の上に一本のろうそくが灯されていた。4人の子どもたちが、風が消す火を何度も点けなおしていた。彼らは2人のきょうだいを失った。
 死者218人、行方不明者80人という政府の発表は嘘だ、とレティは言った。まだ何百人も、千人ほども埋まっているはずだ、という。「小さな子どもたちも赤ちゃんもたくさん。きっと私たちの生徒たちも」。
 人々はゴミのなかに埋葬された。住民登録も出生証明さえないのだから、どれだけの人が犠牲になったのか、正確なことはもう誰にもわからない。
 翌日も私たちは現場を訪れた。カンカン照りの道。国軍の兵士たち。集落を埋めたゴミの上を、ブルドーザーが均していくのを、家族を失った人たちが、なすすべもなく見つめていた。死者はもう捜されもしない。
 その傍らでは少年たちが遊んでいた。拾ったビニールでつくった凧を、ゴミの海に向かって揚げていた。
 レティは、安否のわからない28名の生徒の名前と年齢、両親の名前を書き抜いていた。そのメモをもって、私たちは、小学校、教会、屋内遊戯場と、各避難センターをまわった。一番大きな避難センターの小学校では、事務室の壁に、身元のわからない死者が身につけていた、汚れた衣類や財布などの写真が貼られていた。
 私たちは、教室や建物のドアに張り出されている避難者の名前をひとつずつ確かめた。生徒を捜しに来ているのだというと、みんなとても親切だった。いくつかの教室を一緒にまわってくれた男は、昨夜瓦礫の上でろうそくを灯していた子どもたちの父親だった。「デイケアセンターには行ったか、あそこにも何家族かいるよ」と教えてくれた人もいた。
 疲れた様子ですわっている女たちが、目があうと微笑みを向けてくれる。何というのか、自分の悲しみで他人を傷つけまいとする、心づかいが感じられて、胸が痛くなる。深く頭を下げたい気持ちがした。人間の品位というものに触れた気がした。
 先週も捜しに来て見つけられなかったが、この日も、331家族、1393人の避難者のなかに、ひとりの生徒も、その家族も、親戚さえも見つけることはできなかった。「とても悲しい」。帰りの道でレティがぽつんと呟いた。
 デイケアの幼い生徒たちの犠牲が多い。生まれたことも記録されず、死んだことも記録されず、墓もなく、この地上から消えてしまった。
 数日後、田舎に避難した5人の生徒の無事がわかった。ふと、アンヘロはどうしているだろうと思った。学校はもうやめていた。家は、事故で埋もれた集落のなかにあったはずだった。大丈夫だっただろうか。
 家族が犠牲になった生徒もいた。デイケアのアイリスは母を失った。3年生のエレイン(12歳)の姉にあたる人でもある。エレインは、7歳のときから義父に性的虐待を受けていたことがわかって、ソーシャルワーカーに預けられた。

☆子どもたちの休暇

 事故の後もパアララン・パンタオは授業を続けているが、生徒の数は激減した。事故から2週間たって、ようやく生徒が戻りはじめていた。
 事故の日も、その後も、トラックはゴミを捨てに来た。15日になってようやく、大統領の命令でゴミの山は閉鎖された。直接被災しなかった人たちも、家が危険な場所にある人たちは、立ち退きを勧告され、避難センターで、政府やNGOの援助に頼って生活するようになった。
 エデン先生(45歳)も事故以来、避難センターで生活し、隣人たちの世話係をしていた。教師は休職。ベイビーが2クラス教えている。
 学校の裏庭の小屋で生活していたベイビーと娘たちは、事故の後、こわくていられなくなり、給水塔の近くに部屋を借りて引っ越した。毎朝、下の3人の娘を連れ、預かっている赤ちゃん(姪の娘)を抱いて、学校へやってくる。
 数年前に廃校になったハイスクールの分校の、ボロボロの校舎も、避難センターになった。
 9つの教室に133家族626人が生活。被災こそしなかったものの、仕事もなく家も追われた人たちが、狭いなかにひしめきあっている。
 ここにはエデン先生など顔見知りの人たち、パアララン・パンタオの生徒たちもたくさんいて、訪ねると、変わらない笑顔で迎えてくれた。
 たちまち子どもたちに取り囲まれた。
 みんなゴミ拾いの仕事もないので、たいていの時間を避難センターで過ごしている。子どもたちには思いがけない休暇だ。「遊ぼう、遊ぼう」とたいへんな騒ぎで、私たちは手をつないで輪になり、「ブラックラク(花)」をして遊んだ。

  つぼみの花(歌にあわせて輪が小さくなる)
  ひらいた花(輪が大きくなる)
  女王が踊るよ(鬼が輪の真ん中に入る)
  体をゆらして(鬼がおどる)
 (ブム ブム イェイ イェイのかけ声にあわせて鬼が目をつむってまわり、次の鬼を指名する)

 輪はどんどん大きくなり何十人もの子どもたちが中庭いっぱいに広がった。一緒に行ったレティも輪のなかで踊り、避難センターにいるテリーおばさんも白髪をなびかせながらひらひら踊った。単純な遊びに、子どもたちはいつまでも夢中だった。
 帰りぎわレティは、ジェニビー(14歳)やダニカ(10歳)の肩を抱き、「来週から学校に来るのよ」と生徒たちに言うことを忘れなかった。

☆透明な子どもたち

 カンカン照りのなかを歩きまわったせいだろうか。体が熱っぽくてたまらない。薬を飲み、頭に氷をのせて寝た。数日熱が下がらず、寝たり起きたりしている間、何度も夢にうなされた。故郷に帰ったはずなのに、廃虚のような瓦礫のなかにたたずんでいたり、狭く汚れた部屋に避難民となって押し込められていたり。崩落したゴミの山や、崩れ果てた集落、混雑した避難センターのイメージが、繰り返し夢にあらわれた。昼間は決して泣かなかったが、眠りながら泣いていた。
 暑くて寝苦しくて目が覚めたとき、ふと部屋のあちこちに、何人もの小さな透明な子どもたちがいるのを感じた。みんなあっちにいったりこっちにいったりして、何かを探している。事故で埋められてしまった生徒たちが戻ってきているのだと思った。なぜかそう確信していた。
 彼らが何を探しているのか、わからないことがもどかしい。教室はあっち、レティ先生もいるよ、と心のなかで呼びかけた。やがて、気配はうすくなって消えていった。
 気のせいだったのだろうか。窓の外は夜が明けはじめていた。

☆約束の土地

 ゴミの山がなだれた側は「ウルバン(町)」とも「ル・パンパンガコ(約束の土地)」とも呼ばれている。そもそもは、マニラのスラムで暮らしていた人々が、強制移住させられてできた町だという。その後、「町」の近くにゴミの山ができ、今回の惨事が起きた。
 ウルバン側では、被災者たちの移住がはじまっていた。周辺住民の移住の噂もあった。だが、「私たちは一度追われてここにきた。再び追われる理由はない」と、住民のひとりは言った。
 こんな話もきいた。ゴミの山周辺の別の地域では、人々は、土地と家が、いつか自分のものになると信じて、毎月160ペソを、6年間も払い続けてきた。だが、受取側の機関には、その記録がない。住民たちは詐欺にあったのだ。

☆長い列

 テレビで夕方のニュースをみていた。インドネシアで、テロリストによる爆破事件があり、ミンダナオでもテロがあり、どこかで水害があり、どこかで崖崩れがあった。そして、ゴミ山の崩壊で家族を失った人たちが、ケソン支庁舎につめかけ補償を求めるデモを行ったというニュースが流れた。
 ゴミの山が閉鎖され、トラックが来なくなって、人々は生活ができなくなった。いたるところで、物資の配給を待つ人たちの長い列を見かけた。避難センターで、教会で、デイケアセンターで。
 麓の集落を歩くと、手もちぶさたな男たちが、「何にも仕事がないんだ。金もない。食い物もない。腹がへってしようがない」と腹をおさえてみせる。「でも酒はあるんだね」と言うと、酒瓶を背中に隠して笑う。
 レティは言っていた。「仕事がないから男たちは酒びたりだ。それにギャンブル。友だちのリタも、夫が酒ばかり飲んでると嘆いてる。子どもたちの将来のことなんか何にも考えてないんだから」。
 崩落しなかったほうのダンプサイトにのぼった。トラックも来ず、すっかり人けのないゴミの山にぼんやりすわっている男たちは「神の恵みを待ってるんだよ」と言った。ゴミのトラックが戻ってくるのを待っている。
 ジェニファー(14歳)やメリッサ(12歳)たち、何人かの子どもたちが、カラヘグ(ゴミを拾うための鉤型のピック)を手に退屈そうにゴミの上を歩いていった。
 事故から1か月後、今度は1000人もの住民が、支庁舎にデモに行った。パヤタスのゴミの山を再開し、ゴミのトラックを、再びパヤタスに戻すよう要求した。ゴミが来なければ生きていけない、と。

☆わたしたちは女王になる

 熱を出したので、昼間の外出を禁じられた。それで早朝、ダンプサイト周辺を歩いていたら、一人の少年が山から駆け降りてきた。「どこへいくの。ぼくが案内してあげる」とロメル(12歳)は言い、最初に案内されたのは彼の家。「これがぼくの妹、これがお母さん、これが新しい赤ちゃん」と紹介してくれる。それから、避難センターや友だちの家をずっと手をつないで案内してくれるのが、なんだかくすぐったい。娘が熱を出したので仕事を休んでいるベイビー先生の家でおやつをもらい、ひとまわりして学校に戻ってきたら、ロメルは、ぼくの役目は終わりとばかり、手を振って帰っていった。
 夕方、ゴミの山のすぐ麓の、バラックのような教会の前で、皿をもった子どもたちが長い列をつくっていた。食事を用意している女たちのなかにカンデラリアのお母さんと娘のバンジー(16歳)がいる。訊くと、牧師さんの援助で一日3回の炊き出しをしているのだという。
 レスリー(13歳)やメリッサ、顔見知りの女の子たちがいる。学校をやめたジャネット(13歳)やジェナリン(12歳)のなつかしい顔もある。拾った子猫を見せにきてくれる女の子たち。
 手をつなぐと誰かが歌いはじめ、私たちは「ブラックラク」をして遊んだ。輪がどんどん大きくなる。女王が2人になったり、大きな子が足もとの小さい子を踏んで泣かせて謝っていたり。汗が目に入るが、子どもたちはやめようとしない。
 教会の庭に大きな鍋が運び出されるまで、すっかり夕暮れてしまうまで、私たちは遊んだ。
 女の子たちと一緒に帰りながら、歌った。
    私は、あの山が好き
    あの漁師が好き
    私は好き
    月の光と、風にゆれる竹林が

 毎日のように、女王が踊るよ、と歌っていた。歌いながら私は「わたしたちはみんな女王になるものと思っていた」というミストラルの詩を思いだしていた。だれも女王にはならなかったが、詩のなかで女の子たちは歌うのだ。
   「この大地のうえで わたしたちは女王になる、
    うそいつわりのない王国の、
    わたしたちの王国は大きいから、
    わたしたちみんな 海までゆけるの」

☆それぞれの学習事情

 公立の学校へ行きたいとグレース(11歳)はレティに泣いて訴えたが、行かせられない、とレティは言った。「学校でどんな激しい運動をしないとも限らない」。手術をしたからといって、すっかり健康になったわけではない。何年かしたら再手術が必要になるかもしれない。「グレースが学校に行くときは、私も頭にリボンをつけてスクールバックを持って登校しよう。グレースのクラスメートになって見張らなきゃ」とレティは言い、私は、心配するより先に笑ってしまう。
 グレースの胸には大きな傷跡が残った。少し胸のあいた服を着ると傷が見える。女の子なのにつらいな、と思っていたら、「これは新しいタイプの入れ墨です」とグレースが傷跡をすっかり見せて言った。なんでもないよ、というふうに。グレースが小さい頃、マジックで手足に落書きして、入れ墨ごっこをして遊んだことを思い出す。「オリジナルの入れ墨だね」と私も言った。
 ジョイ(14歳)はハイスクールへ進学した。ジョイのクラスは月曜から水曜までしか授業がない。がクラスのある日は、朝6時から夕方6時まで授業があるので、朝4時に起きて行く。1クラスに62人か63人いる。
 「教科書がないの」とジョイが言う。8教科あるのに4教科しかもっていない。値段も高いし、全部の生徒に行き渡るほど数もない。日本の新聞にも、フィリピンで教科書が足りない、という記事が載っていた。小学生さえ数人に一冊の教科書しかない。パアララン・パンタオも、教科書は学校にあるだけだが、教師しか教科書をもっていない学校も珍しくない。
 「科学の授業は最悪。一時間目で眠いうえに、教師の声が小さくてわかりにくくて、それに教科書もない」とジョイがぼやく。得意な科目は英語で、苦手は数学だ。授業のない日、ジョイはパアララン・パンタオで、デイケアや1年生のクラスを教えている。
 ある日私は、黒板に書いてある4けたの掛け算を生徒と一緒に解いてみた。ふとみると隣の席の少年の計算がとても速い。私は何度挑戦してもかなわなかった。後で先生たちに訊くと、ビリー(15歳)は数学はとても優秀で、ハイスクールの幾何の内容も理解するという。ところが、読み書きは苦手で、たった4文字の単語も、次の日にはもう覚えていない。
 英単語の書き取りは、ジョシエル(10歳)が満点だった。50点しかとれなかった私に、クリスティーナ先生(30歳)がわざわざ満点の答案を見せにきた。
 掃除が終わり、みんなが帰った後もジュリアス(12歳)は机に向かっていた。黒板の問題がまだ解けない。どうやら2けたの引き算でつまずいたらしい。ジュリアスの居残りは数日つづいた。

☆テリーさんの豚

 「この財布はテリーがダンプサイトから拾ってきた」と、レティが使っている財布を見せてくれる。「サンダルも拾ってきてくれるが、私の足にあうのはなかなかない」。
 最近のテリーの差し入れは援助物資の缶詰だ。毎日パアララン・パンタオにやってきて、避難センターの様子を伝えていく。
 「避難センターは、どんどん汚く、臭くなっている」。たしかに、学校に来る子どもたちも日に日に臭くなっている。 「母親たちに石鹸が必要だよ」。
 「風邪がはやっていて、毎晩、咳込む声がそこらじゅうでしている。薬ももっと要るよ」。
 「支給される食料が、缶詰やヌードルばかりで、みんな飽き飽きしている」。
 事故の後、キクコたち留学生がお金を出し合って肉や野菜を買い、レティがそれで600人分のシニガンスープをつくって、避難センターの人たちに振る舞ったが、「みんな、あのシニガンスープをまた食べたいと言っているよ」などなど。
 ある日、避難センターからひとりの男がやってきて、レティに、缶詰をあげるから裏庭のカモテ(いも)の葉っぱをわけてくれ、と言った。レティは、缶詰はいいから野菜は好きなだけ持っていけ、と言った。
 「ビッグニュースだ」と、テリーがとびこんできて言った。事故があった側と反対側の住民たちも、政府は移住させるつもりだ。私たちも強制移住させられる。
 移住先は隣のリサール州のはずれのアパート群。みんなそこを「エラプシティ(エラプ大統領の町)」と呼んでいた。
 いろんな憶測が乱れとんだ。政府はこのあたりの家を潰して、ゴミの山を広げるらしいよ。移住先はきれいなアパートらしい。いや、電気も水もガスもないらしい。だいたい町から遠く離れたところで仕事もない、そんなところで、どうやって生きていくんだ。
 「強制移住はたちまち行われるよ。立ち退き反対の看板を道に立てたほうがいい」
 「避難センターのみんなに家に帰るよう呼びかけようか。空き家にしていたら取り壊されるかもしれない」。
 いろんな意見がとびかい、だれもが落ちつかない気持ちだった。隣人たちのこれからを考え、レティは、何日か眠れない夜を過ごした。
 テリーは飼っている豚たちのことを心配した。「10頭の豚を、どうやってエラプシティまで連れていけばいいのよ。9頭は仔豚でこれから育てなきゃいけないのに。ゴミが来なければ残飯も拾えない。私のかわいそうな豚たち」
 政府は数か月後にはゴミの山を完全閉鎖するらしい、という噂も流れた。
 が、レティは言った。   
 「きっと逆だよ。今は閉鎖する。でも数カ月後にはまた再開する。エラプシティに移住しても、みんな、その頃にはまたゴミを拾うために戻ってきてるよ」
 そして、レティが言った通りになった。

戻る