ゴミの山で生きて、学んで、笑って

第9章 それぞれの夢  2001年8月

☆移住

 ゴミ山崩落惨事から2か月後の9月、最後まで避難センターに残っていた人たちもモンタルバンの再定住地に移住した。パアララン・パンタオの生徒も半数近くが、親たちと一緒に移っていった。
 10頭の豚をどうすればいいのかと心配していたテリーも移住した。ゴミ山で残飯を拾うこともできず、豚は死んでしまった。生き残った1頭だけ、エデン先生にあげた。
 ゴミの山が閉鎖されて、人々はゴミ拾いができないために現金収入がなく、いっそう貧しく不自由になった。仕事を探すためのお金がほしい、お米がほしい、病気になったので助けてほしいと、隣人たちは言った。
 パアララン・パンタオのレティ先生(61歳)は、朝のルガウ(お粥)もおやつの菓子も一時期ただで子どもたちに与えた。さらに10月から週に1度か2度、無料の給食サービスもはじめた。ルガウをつくるキッチンが給食センターになった。給食の日、生徒たちの出席率は100パーセント。かつてない出席率だ。
 11月になってダンプサイトが再開した。はじめは夜中にこっそり来ていたが、やがて昼間にゴミをシートで隠して、そして以前と同じように堂々とゴミのトラックが来るようになった。
 「ダンプサイトが再開したときは、みんな喜んで、まるでクリスマスみたいだったよ」とレティが言った。崩落事故が起きたほうの山はさすがに閉鎖されたままだが、もうひとつの山は、すっかり以前と同じにぎわいが戻ってきた。
 移住した人たちも、ゴミを拾うためにパヤタスに通ってくる。移住先の家に戻るのが面倒なので、ゴミの上に再び小屋を建てて住みはじめた人たちもいる。
 道で会ったジャキリーン(12歳)とシリー(10歳)が「案内する」といって一緒にダンプサイトにのぼってくれたが、のぼるとたちまち「臭いよ」と降りていった。2人とも今日のゴミ拾いはもう終わっているのだ。ジャキリーンは、髪に金色のつけ毛のついたバンダナをまいておしゃれしていた。
 ゴミの上で思い思いに働く人々。ほんの4歳くらいの子が、長靴もはかずにゴム草履のままで、ゴミのなかにいる。2人の子を連れた母親が、拾ったゴミを入れた袋を背負っていく。
 少年たちが、ビンの蓋などごく小さいものをめがけて、カラヘグ(ゴミを拾うための鉤型の鉄のピック)を投げて突きたてる遊びをしている。拾ったゴミを賭けて遊ぶのだ。
 降りそうかなと思ったときにはぱらぱら降りだして、たちまち、どしゃぶりになった。麓のジャンクショップのテントで、しばらく雨やどりした。

☆新学期

 事故から1年。去年、事故と移住でパアララン・パンタオの生徒は激減したが、6月になり新学期の登録をはじめると、今年も138人ほどの生徒が登録した。
 ジェニファー(15歳)もメリッサ(13歳)も、去年は来ていなかったが今年は戻ってきた。ジェニファーは、弟たちをパアララン・パンタオに通わせるために、自分は勉強を中断してゴミの山で働いていたのだった。
 デイケアのジョナタン(3歳)は、ちっともじっとしてなくて、先生や留学生たち、誰か大人を見つけては甘えている。
 午後、ときどきアニーダ(10歳)がお母さんと一緒にやってくる。アニーダは知的障害児。小さい頃の病気のせいで、体の半分に軽い麻痺も残っている。ベイビーが積み木を使って、色分けする遊びをさせている。言葉はほとんどないが、よく泣きよく笑う。帰り際、アニーダはお母さんを探し、お母さんは壁の陰に隠れて、しばらく母子で隠れんぼして遊んでいた。
 給食は週に1度か2度。だが何曜日にするかは決めていない。子どもたちには内緒なのだ。でないと、給食のある日だけやってきて、あとはさぼってしまうから。「給食を毎日にしたい」とレティは言った。そうすれば親たちも、子どもを毎日学校に来させるようになるだろう。
 給食の効果は絶大だ。いつも元気がなく、学校に来ても黙ってすわっているだけだった5歳の男の子が、2度目の給食の日、みんなの前でアルファベットを読んだのだと、レティは嬉しそうに言った。
 「先生たちの給料もあげたい」とレティ。年齢も学力もばらばらの生徒たちを一度に教えるという難しい仕事なのに、給料が安くて、先生たちは自分の子どもの教育費もままならない。エデン(46歳)は娘をカレッジへ行かせるために、夜もダンプサイトでゴミ拾いをする。夫のいないベイビー(38歳)は「よそで働けばもっとサラリーもいいけど、ママ・レティを助けなければいけないから」と言っている。
 マジョリー(29歳)がやめて教師が減ったうえに、給食がはじまって仕事量も増えていた。半日100ペソを150ペソに引き上げることになった。
 「デイケアも教えているし、私は一日じゅう働いているのに、私の給料はない」とレティが笑う。実際、パアララン・パンタオは彼女の献身と、必死のやりくりのおかげで、少ない予算でもなんとか学校を続けていけているのだ。

☆もとの家

 ベイビーと娘たちは、事故のあと、家にいるのが怖くて離れたところに部屋を借りていたが、いまは裏の小屋に戻っている。「部屋を借りると家賃を払うのが大変だ」とベイビー。狭くても裏の小屋ならただで住める。小屋をのぞくとリンリン(10歳)ロレン(9歳)エライジャン(6歳)が絵を描いて遊んでいて、私にも描けという。何を描くのというと、何でも好きなもの欲しいものを。みんな家の絵をかいている。紙の上にはたくさんの部屋と家具、たくさんの洋服。
 エライジャンは本を読むのが好き。タガログ語の物語をせがまれて読んだ。音読はなんとかできても意味はさっぱりわからない。
 ころんで痛かったり、何かつらかったりすると、エライジャンは誰に訴えるでもなく、ひとりで隅っこにしゃがみこむ。そうして痛みがとおりすぎるのを待っている。
 近くにあるレティのもとの家は、壊されこそしなかったが、危険な場所にあるため閉鎖されてしまった。レティたちは学校で生活しているので、その家にはずっとマジョリー一家が暮らしていた。家が閉鎖されることになるとマジョリーたちも移住するグループになった。だが、実際はパヤタスに残って、死んだ父が住んでいた道沿いの小屋で、マジョリーはサリサリストア(駄菓子などを売る小さな店)をはじめた。通りがかるとコーラと飴をおごってくれた。

☆撮影

 日本のテレビで、レティ先生のことが紹介されることになり、取材スタッフがやってきた。週末、麓の集落にレティとカメラを抱えたスタッフたちが入ると、はしゃいだ子どもたちがパレードのように、前に後について歩いた。
 このときのレティの家庭訪問で、事故の後ずっと学校に来ていなかったリアリン(10歳)が、翌週からクラスにもどってきた。
 インタビューされた奨学生のジュリアン(19歳)とレイナルド(25歳)は語った。彼らにとってパアララン・パンタオはチャンスのドアだった。もしここで人生がはじまらなかったら、自分は今のようではない、と。レティは親のようでもあり、人生の案内者でもある。勉強したい子どもたちを心を開いて受け入れてくれる。助けてもらってとても感謝している。
 ジュリアンの、カレッジでの授業風景も撮影された。「ぼくががんばることで、ゴミ山で働く子どもたちに、努力すれば夢はかなうことを教えてあげたいんだ。それがレイエス先生への恩返しです。先生のおかげで勉強できたのだから」と、ジュリアンは言った。
 カメラに向かってレティは語った。「いつかすべての子どもたちが自分の将来に自信をもち、ゴミ山に頼る生活から抜け出すこと、それが私の願いです」。
 普段はあらたまって聞くこともないレティやジュリアンたちの願いを、私はカメラの後ろで聞いていた。

☆ジョシエルの作文

 レティがとても嬉しそうに一枚の作文をみせてくれた。タイトルは「ジョシエル・カニエタの人生」

 「私はジョシエル・カニエタです。11歳です。1990年1月19日、パヤタスに生まれました。母はジュリエッタ・カニエタ、父はフエロメノ・カニエタです。母はゴミ山のスカベンジャー(ゴミ拾い)です。父は仕事はありません。仕事はないのにお酒ばかり飲んでなまけものです。
 私たちは6人きょうだいで、一番下が私です。今パアララン・パンタオで勉強しています。私の楽しみは家の仕事が終わったら、遊んだり、テレビを見たりすることです。私は大きくなったら先生になりたい。子どもたちに読み書きを教えたい。いい人間性を教えたい。
 それが私の人生です。」

 ジョシエルの兄や姉もパアララン・パンタオで勉強した。上の兄は、文字を読めるようになって勉強をやめた。上の姉は読み書きができるようになってやめた。2番目の姉は読み書きもよくできてハイスクールに進んだが、毎日通えなくて落第。1年生をやりなおしている。
 もうひとりの兄はゴミの山で刺されて死んだ。
 すぐ上の姉のジェニリンとジョシエルとが、今パアララン・パンタオに通っている。ふたりともゴミの山で働いている。ジェニリンは欠席が多いが、ジョシエルは毎日通ってくる。
 レティはジョシエルを来年から公立の小学校に通わせるつもり、出生証明の手続きをすすめている。

☆鏡文字

 激しい雨がやまない。学校は、昨日から停電のままだ。教室は採光が悪いので、机の上のあちこちにろうそくを置いて授業をした。帰る頃も大雨。学校の前の道は川のようで、ゴミのトラックがしぶきをあげて走っていく。その道を子どもたちが、小さい子を背負ったり、あれこれ苦労しながら渡っていった。
 撮影の前にスタッフが用意した子どもたちへのアンケート(6歳から16歳まで30人の生徒に、親の職業や勉強のこと、夢や悩みをきいたもの)を見ながら、ベイビーが生徒たちについて話してくれる。
 全員がハイスクールに行きたいと答えている。親は子どもが学校(パアララン・パンタオ)に通えることを喜んでいるが、お金がないから、ハイスクールを卒業するのは無理だと思っている(と子どもたちは思っている)。
 ジョーマー(8歳)は5歳のときから通っているが勉強は好きじゃない。「彼のお母さんは、一緒にいてくれるだけで幸せだと言っている」とベイビー。
 悩みは、やはり貧困だ。家がない、学校に行けるお金がない。メルベメス(13歳)の悩みは、両親が別れたこと。ジェシー(8歳)は両親が離婚していなくなり、祖母とおじさんと暮らしているが、彼はおじさんにいじめられるのがつらい。ジャキリーンも両親がいない。養女にもらわれたが、養父が彼女をかわいがるのが養母は気に入らない。休み時間になると歌を口ずさんでいるジャキリーンは、いつかダンサーになりたい。
 両親の職業は、ベイビーの娘たちが母親を教師と書いたほかは、スカベンジャーかタホ(行商で売る菓子)売りのほかに職業はない。病気で働けない父親もいる。レジーナ(14歳)たち4人のグマタイきょうだいの父もスカベンジャーだが、ギャンブルばかりしている。母は死んで、おばさんと一緒に暮らしている。
 ベイビーが、子どもたちに教えるのはたいへんだと嘆く。たとえばルニンニン(9歳)は、アルファベットを左から右ではなく、右から左へ、文字も鏡に写したように逆に書く。そういえば中学校ではじめて英語を習ったとき、私もアルファベットをよく左右逆に書いたという話をすると、次の時間、ベイビーはクラスの生徒みんなにそのことを知らせていた。「みんなの励みになるよ」とレティ。 「ルニンニンには小さい鏡をあげようか。そうすれば書き取りも正しくなるかな」というと、ベイビーは「鏡なんか渡したら顔を映して髪を梳きだすよ。勉強にならない」と笑った。
 ルニンニンとマイリン(7歳)の姉妹も両親がいない。父はミンダナオにいる。家族は祖父と祖父の新しい妻と2人の兄。ゴミの山の上に並んでいるバラックのひとつに住んでいる。

☆アナの夢

 アナ(14歳)は、「小学校に行って、将来は先生になりたい、でも出生証明がないの」と取材スタッフに言った。それでスタッフたちは、レティ先生に相談したら、と提案し、その場面を撮影することにした。
 思いがけない展開だった。相談に来たアナに、レティは、本当に勉強したいなら、家を出て学校で生活したほうがいい、と言ったのだ。アナの母親も来てそれを了解し、翌日アナは、リュックにわずかの着替えを入れて、学校にやってきた。その日から学校で生活をはじめた。
 英語を話せないアナと私との会話を通訳したのはグレース(12歳)で、アナは自分のほうが年上なのにグレースを「アテ(お姉さん)」と呼んだ。
 アナは9人きょうだいの上から2番目。勉強はほとんどしていない。去年もほんの1か月ほど通ってきただけだ。レティが勉強したいなら学校で暮らせと言ったのも、もっともなことだった。学力は小学校の1年生ぐらい。掛け算の九々がようやく言えるぐらい。ある夜、掛け算を教えていたとき、私が新しいチョークを探しにいって戻ると、アナがいない。やれやれ逃げられた。ふりむくと、アナは黒板の後ろから顔だけ出して、いたずらっぽく笑った。

☆モンタルバン

 日曜日の午後、隣のリサール州のはずれ、モンタルバンの再定住地へ行った。パヤタスから車で40分から1時間ぐらいのところ。車で5分ほど離れた2つのアパート群はそれぞれ「カシグラハン」「サーバーバン(通称エラプシティ)」と呼ばれている。緑のなかに、こざっぱりした家々が立ち並ぶ。1軒に1家族ずつ。カシグラハンには小学校もあって、サーバーバンからもジプニーで行ける。「もし仕事さえあれば、何も問題はない」とレティ。だがその仕事がない。「ここは清潔だけど仕事がない。食べていくのが大変だ。ゴミ拾いをしていた頃はもっと稼ぎがあったよ」と住民のひとりは言った。
 移住して勉強をやめた子どもたちもいた。子どもたちが公立の小学校に通うのが難しいという事情は、パヤタスと何も変わらない。
 「みんなパアララン・パンタオみたいなフリースクールが近くにあればいいのにって言っている。空き家もあるから、ここでもクラスを開こうか」レティは言うが、お金もないしスタッフもいない。パアララン・パンタオみたいな学校を開くにはレティがもうひとり必要だと私は思った。
 ジェニビー(15歳)が駆け寄ってきた。去年までパアララン・パンタオに通っていた。角を曲がる度、パヤタスの子どもたちのなつかしい顔が次から次へとあらわれる。レティが撮影されている間、私たちは遊んだ。
 テリーさんにも会いたかったのに、彼女はパヤタスにゴミ拾いに行って、私たちはちょうどすれ違いだった。

☆隣人プロジェクト

 レティは母親たちのミーティングを開いた。議題のひとつは給食について。給食を毎日実施するにあたって、母親たちのボランティアを募りたい。誰が何曜日に手伝うかをきめた。
 もうひとつは、生活支援のプロジェクトについて。ダンプサイトが閉鎖されていた間、何も仕事がなくて苦しかった。レティは母親たちに言った。「ゴミ拾い以外の生活ができるようになってほしい。ゴミ山だけに頼る生活を変えなければいけない」と。新しい仕事をはじめるための資金の貸付けを考えていた。
 ミーティングは何度か行なわれた。母親たちは、豚を飼ったり、パンや魚の行商をしたり、サリサリストアを開きたいと言った。豚が1頭1300ペソする、いや今は1500ペソするとかいいながら、新しい仕事のことを考えている姿は何かしら楽しそうだ。
 田舎に帰って商売したいという困った相談もあった。「生活態度もみて決めなくちゃ」とレティ。「この学校が無料だから、小さい子を学校に預けて、昼間からギャンブルしている母親たちもいるんだから」
 1人4000ペソ(約1万円)、まず30人を対象にはじめたい。母親たちには少しでも経済力をつけて、子どもの教育をサポートできるようになってほしい。問題も起きるだろうが、でも挑戦したい、とレティは言った。

☆給食

 子どもたちは元気に学校に通ってくるが、毎年何人かは、朝から眠そうな、動くのがだるそうな、顔色の青い子がいて胸が痛んだ。食べていないからだった。学校で給食を出すことはレティの以前からの願いだった。
 夕方、近くの道で、明日の給食の買い出しに行っていたエデンとクリスティーナに会った。ふたりは長い坂道を、20キロほどもあるチキンをヒーフーいいながら運んでいた。夜、ベイビーとジュリアンがチキンを捌いた。
 水は、去年まで水道料金の6倍も払って給水車から買っていたが、今年レティは裏庭に井戸を掘った。飲み水は、他の地域から運んでくるが、乾季、井戸の水がなくなるとき以外は、水を買わずにすむようになっている。
 給食が毎日になる。「これで給食の日だけやってきていた生徒も毎日くるようになるよ」とレティ。一番最初に食べるのはデイケアのクラスの子どもたち。ひとりひとり手を洗うことから教えなければいけない。子どもたちは配膳してもらうのを待つ間、スプーンとフォークを鳴らしてとてもにぎやか。その嬉しそうな顔! 大きな子たちは、表のキッチンに並んで給食をもらう。先生たちもキッチンの前にテーブルを出して給食を食べる。交替で蝿を追っている。
 ところで、母親たちのボランティアは問題があった。さぼったり、来ても何もしないで役に立たないので、レティは真面目な人を2人選んで、1日50ペソずつの労賃を払うことにした。
    *    *
 給食に奨学金に隣人プロジェクト。先生の給料もあげた。毎年の経理はマジョリーがまとめてくれているが、今年は一年間でいくら必要になるのか。計算しながら不安になる。毎年、集まった寄付だけの予算しかない。今年あといくら送金できるのか、どんな約束もできない。
 「少しでもお金がある間はつづけよう」とレティ。「お金がなくなったら夏休みだ」と私。「バケーション(夏休み)!」と私たちは声をあげて笑った。前向きにいかなければ。

☆レイナルドの金メダル

 2002年3月、すごいニュースがとびこんできた。カレッジを卒業するレイナルドが、最優秀の成績をおさめて表彰され、金メダルをもらうというのだ。「嬉しくてたまらない」と留学生のカヨがメールをくれた。数日後、カレッジの表彰式の写真も送られてきた。本当に金メダルだ。
 レティから手紙が届いた。「レイナルド・ヴァレーが、02年3月22日に、船舶技師のコースを最優秀の表彰を受けて卒業したと、お伝えできることを、本当に嬉しく思います。彼のことを私はとても誇りに思います」。パアララン・パンタオの第1号の奨学生が金メダルだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
 レイナルドの手紙も同封されていた。船舶技師として、さらに挑戦を続けたいという夢と、学資を支援してもらったことへの感謝が書かれている。卒業後は海外航路の貨物船の船員として働く予定だ。
 さらにレティは書いていた。「給食プロジェクトは成功しています。138人ものたくさんの子どもたちが、途中でやめることなく一年間学校に通い続けたのです」

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