パヤタス日記<前編>
原 大祐(はらだいすけ)


◎入山−「一線」の向こう側へ

 ごみ山のふもとに位置するフリースクール「パアララン・パンタオ」。パヤタス生活の出発点となったこの学校は、一九八九年に住民組織と非政府団体により設立され、地域の子供たち百三十八人が学んでいる。フィリピン滞在中は、毎日のようにここに足を運び、子供たちと遊んだり、ボランティア活動をしてきた。
 パヤタスのホームステイ先も学校創設者のレティ先生に頼んだ。先生は「スカベンジング(ごみ拾い)は頼めばさせてくれるし、夜はここ(学校)で寝なさい」と最後まで考え直すように説得された。
 ごみ山では、文字通りごみの中で暮らすわけで、衛生状態がいいわけがない。スカベンジングにしてもそうだ。彼らには生活がかかっているから必死だろう。もちろん掟(おきて)もあるだろうし、何も知らない状態で入り込んでも「お遊び」と思われるだけかもしれない。
 不安は消え去らないが、今日からはただのバラックに住み「傍観者」だった自分から一歩前進するのだ。乗り越えられなかった一線の向こう側にいる人々と本音で話せることを期待して・・。
 レティ先生に紹介されたホストファミリーは、学校に通っているジロ(5)の家族。ジロの家はごみ山東斜面、奥まった路地を入った所にあり、周辺部へ足を踏み込むのは初めてだった。東斜面はパヤタスの中でも貧しい地域で、多くの家が隙間だらけのバラックで電気のない家がたくさんある。
 夕闇が迫る中、目にしたジロの家もごみ山で拾った廃材で建てられていたが、家の中は比較的きれいにしてある。電気もある。「電気代は払っている」とのことだったが、怪しく絡み合う配線は盗電しているようにしか見えなかった。
 家の中には、廃品を再生した古いテレビがあって、夕食を終えたばかりの近所の人々が集まってくる。これまでは、ごみ山に入ってもジロジロ見られているという感じが消えなかった。僕もどこかで住民を警戒していたけれど、中へ入った今はなにか温かいものを感じる。
 家族は三男のジロ、お父さんのルピー(35)、お母さんのディーナ(35)、長男デニス(12)、二男クリスチャン(9)、長女ネネ(2)、ディーナの弟アルビニ(24)の計七人。家は六畳程度の部屋と土むき出しの部屋四畳半の二間だ。
 僕はその四畳半の部屋でアルビニ兄さんと二人でごろ寝。廃材を組み合わせただけの壁の隙間からは星空が見える。風に乗って臭いも入ってくる。隙間はゴキブリ、柱はアリの通り道。横になった途端、かゆくてたまらなくなった。ぜいたくを言えないことは重々承知だが、思わず苦笑いが出る。
 携帯電話や財布は学校に置いてきた。「体一つ」で飛び込めば、環境にも慣れるようになると信じているけど、どうだろう? 明日は朝六時から仕事だし、寝るとしよう。


◎初仕事−臭すぎて息できず

 今日は初仕事。午前六時に起きてスカベンジング(ごみ収集)に連れて行ってもらう時を待った。午前九時前になって迎えに来てくれたのは、ホストファミリーの主、ルピーさんの姉、マナユリさんだった。
 彼女にごみを掘り起こす道具「カラヘグ」を貸してもらい、ごみに関する説明を一通り受けながら山へ向かった。
 「アルミ類はいい金になる」とか「カップスと呼ばれるファーストフード店用のコップ類も一応お金にはなる」「しっかりしたビニールも売れる」「(整地をしている)ブルドーザーには気を付けよ」などなど。
 緊張とはやる気持ちで頭に入らなかったが、内心は「拾い始めればどうにかなるだろう。山にはこれまで数十回足を運んでいるから大丈夫」ぐらいの気でいた。
 しかし、その自信も山を登りだした途端に揺らぎ始めた。いつもはダンプカーが出入りする道を通って山に入っていたが、パヤタスの人々はそんな道は使わない。道と呼べるほどのものではない、ごみを踏みならしただけの、今にもごみの山が崩れそうな急斜面を登り降りしているのだ。
 怖くて足がすくんだ。連日の雨で水を含んだごみが流れ落ちて飲み込まれるんじゃないかと本気で思った。スカベンジャー(ごみ収集人)として足を踏み入れることは、今までの「見学」とは全く異なる覚悟が必要なのだと思い知らされた。
 山を登り詰め、ごみとそこに群がるスカベンジャーを目にした時、いつも見ているはずなのにいつもと違う思いがした。僕もこの一部になるのか。このためにここに来たのに、直前で拒もうとする自分があった。
 仕事を始めても集中できない。ただカラヘグを振り回し、ごみを掘り起こして下から出てくる残飯を意識なく見つめるだけ。一時間もしないうちににおいとガスで頭がくらくらしてきた。いつも一時間は平気なのに、仕事をしているとなぜかそうなった。
 時々ふとわれに返ったりして、自分がごみの中にいることを意識する。食い散らかされて好き勝手に捨てられる、誰のものとも分からんごみの中に。割れた花瓶、片方だけになった靴、紙片・・すべてに髪の毛や変色して異臭を放つ残飯がまんべんなく絡まっている。「何でおれがこんなもんの中におらなあかんの?」。臭すぎて息ができない。ごみ拾いにも集中できない。逃げ出したかった。泣きたくなるほどつらかった。
 「一つだけ、このルールには従え」。もうろうとした意識の中へマナユリ姉さんの声が飛び込んできた。「グループに入っている者以外は新しいごみを捨てるダンプカーの近くでは拾ってはいけない」と。「それを破ればただじゃすまない」とも。
 ルール・・。「そんなものあろうとなかろうと、みんなスカベンジャーやんけ」。そう思うばかりで、掟(おきて)の重みは知るよしもなかった。


◎初報酬−20ペソ受け取れず

 ごみ山で初仕事を初めて三時間。正午を回ったころ、スカベンジング(ごみ収集)のやり方を指導してくれたマナユリ姉さんが「山を下りるよ」と近付いてきた。その横にいた姉さんの息子ピーテール(9)の手はすごく汚れていた。僕が今日借りたカラヘグ(ごみを掘り起こすための道具)は実はピーテールのもので、僕のせいで彼は素手でごみを拾っていたのだった・・。
 僕が「体験」をさせてもらっている周囲では、普段通り生活のための作業が続けられている。その邪魔をしながら、僕がここで経験を重ねることに何の意味があるのか・・。分からない。
 山を下りてマナユリ姉さんは、拾ったごみの仕分け作業を始めた。大量のごみを一つ一つ手で分けるのだ。当たり前の作業だが、「ごみを拾えばお金がもらえる。それで生活しよう」ぐらいにしか考えていなかった僕は、気が遠くなるような作業を目にして立ちつくしてしまった。
 考えてみればすぐ分かる。ごみがそう簡単にお金に変わるわけはないのだ。今日は、カップ類や缶、瓶類だけをより分けてジャンクショップへ売りに行った。
 ショップでは、オーナーの女性が一人、ごみに囲まれた周囲とは不釣り合いなきれいな格好をして座っていた。スカベンジャー(ごみ収集人)がまず自分ではかりにごみを乗せ、それをオーナーが記録してその場で財布から代金を払う。麻袋に入って、中身の見えない場合でもオーナーは袋の中をチェックしない。
 スカベンジャーはそれぞれなじみのジャンクショップを持っていて、決して他の店とは取り引きしない。「信頼関係があるから(中身は確認しない)」と女主人は言った。
 順番が来て、マナユリ姉さんがごみすべてを計り終えた。その合計金額を聞いて信じられなかった。45ペソ。彼女が半日つぶし、僕も手伝ったのにたった45ペソ。そのうち20ペソを「あなたの分」と言って手渡してくれた。そんなお金もらえるわけがない。後で息子のピーテールに渡した。
 昼寝をした後、ディーナ姉さんのビスケット売りを手伝った。住民自立支援事業の一つで支援団体からもらった元手でビスケットを仕入れ、一つ25ペソで売る。「うちには日本人の来客がいるんだよ」と客に自慢げに話しかける姉さん。その後をついていく僕に姉さんは「お金を稼ぐことは大変でしょう?特にフィリピンではね」と何度も言った。
 夕食を終えて僕はホームステイ先のディーナ姉さんに生活費として20ペソを渡した。山に入る時、財布は近くの学校に置いてきたので手持ちのお金はない。この20ペソはこっそり学校へ戻って取ってきたものだった。
 マナユリ姉さんからごみ収集のお金は受け取れないし、ディーナ姉さんの家にただで居候するわけにもいかない・・。ごみ収集のお金で生活しようと思い描いていた僕だったが、すべてが簡単にはいきそうにない。


◎ルール−宝の山から「撤退」

 今日は午前中、スカベンジング(ごみ収集)へは行かず、民間団体が運営している学校「パアララン・パンタオ」に日本人留学生を案内した。仕事場へ向かったのは午後三時を回ったころ。まだ日は高く太陽が容赦なく体を焼く。「獲物」は比較的拾いやすい「カップス」に絞ることにした。カップスはファーストフード店などで使い捨てられるプラスティック製のカップ類のことで、一キロ集めても二ペソにしかならない。あまりに安く、これだけ拾っても生活できないため、子どもも見向きしない。逆に収集は簡単で僕はこればかり集めていた。お陰で「カップス君」というあまり有り難くないニックネームをもらったほどだ。
 付き添いはマナユリ姉さんの息子ピーテール(9)。彼は夫を亡くしたマナユリ姉さんを助けてよく働くいい子だ。負けじとばかりに仕事に集中し、どんどんごみを拾った。知らず知らずのうちに新しいごみを搬入するダンプカーの近くまで行っていた。
 捨てたばかりのごみは、買い取り価格の高いアルミ缶やプラスティックがたくさん混じる「宝の山」。アルミ缶の買い取り価格は、カップスの15倍、一キロ30ペソにもなる。特定のスカベンジャー(ごみ収集人)グループに入っていない新参者は、「宝」に近寄ってはいけないという暗黙のルールがあるのだが、僕はこっそり知らないふりをしてごみを拾いまくった。すぐに大袋が一杯になり、調子に乗って次の袋を取ってきて、さらにダンプカーに近い場所で仕事を続けていた。
 すると、周辺にいた男たちがすごい目で僕をにらみ始めた。明らかにまずそうだった。すると、一緒にごみ拾いをしていた知り合いが「そこはグループの縄張りだからだめだよ!」と大声で僕に注意をした。これがマナユリ姉さんに聞かされていた「ルール」か。勝手にパヤタスに入っておいて、それを破ることはできない。
 マナユリ姉さんたちの話では、「タンバカン」と呼ばれるごみ山には全部で七つのエリアがある。それぞれグループの縄張りになっていて「プレジデント」が仕切っている。入会時50ペソ払えば、他グループの縄張りに入ることができるが、それぞれグループ員同士古いつながりがあるため新参者はなかなか入れてもらえないらしい。しっかり山のしきたりを把握しておかないと、仕事で問題を起こしそうだ。
 結局、今日は袋一つ半で山を下りた。ほとんどがカップ類。仕分けをした後、すべて手元で保管することにした。まとめ売りをする方が少しは高く買い取ってもらえるらしい。ということで今日の現金収入はゼロ。マナユリ姉さんは「まとめ売りした時に代金を渡すから」と言ってはいたが、「期待なんかしてないよ」みたいな優しい笑いを浮かべていた。


◎疑問−温かいのはなぜ

 このパヤタスには厳しい現実が広がる。だんなさんに先立たれたマナユリ姉さん。「女手一つで子どもを育てるのは大変だろう」と周囲に同情してもらえるわけではなく、いまだにスカベンジャー(ごみ収集人)のグループにも入れてもらっていない。45歳だが、苦労からか60歳をとっくに超えた老女のようだ。
 みんなが必死に生きている世界でつまはじきにされ、グループの回りで細々とごみを拾っている。稼ぎは一日80から100ペソ。これで長男のピーテール(9)と知的障害を持つ長女アニーダ(7)を養っている。しかし、底抜けに明るい。なぜなのだろう。
 中には、グループに所属して一日150から200ペソをコンスタントに稼ぎながら、ほとんどお金を家に入れず、飲み代やギャンブル、女遊びに使ってしまう人もいる。さらには、夫婦で仕事もせず、賭博に興じて子どもに食事も与えない人すらいる。
 かと思えば、居候先のディーナさん、ルピーさんのような勤勉な夫婦もいる。フィリピン人をどういうくくりで表現してよいのか分からないが、ただこのパヤタスの現実を目の当たりにしてここ全体に計画性のない援助を続けることは無意味だ、とは言える。
 夕食後にディーナさんの身の上話を聞いた。
 サマール島出身で、勉強はとてもできたが、16歳で父を亡くしたためやむなく高校を中退したこと。家計を助けるためマニラへお手伝いとして出稼ぎに来て、以来19年間一度も母親に会っていないこと。奉公先の主人にいじめられたこと。10年前にルピーさんと結婚し、その後の3年間はスクウォッター(違法占拠住民)をしていたこと。パヤタスに流れてきた後も生活は苦しいが、勤勉にまじめにやっていればいつか救われると信じていること・・。
 明るくて、いつも優しく接してくれる心の余裕は一体どこから生まれるのだろう。人は「スカベンジング(ごみ収集)に教育や技術はいらない。誰でもできる。スカベンジャーは生きる努力をしない人たちだ」と言う。
 しかし、僕は「生きるために必死になっている人たちが、下に見られるべき人たちなのか」と思う。ごみというものが人間にとってどんなものなのか。それを拾ってでも生きようとする人々はどのような希望を持っているのか。その答えはまだ自分には見えないけれど、生きることを頑張っている人の横にいるとなぜか温かさを感じる。ここの人はみんなそうだ。
 パヤタスに入る前、「スカベンジャーは何を考えて仕事をしているのだろう」という疑問があった。自分でやってみてふと思った。「何も考えてないやろう。僕もそうやけど、こんなごみの中で深刻に生活のことやら考えて、こんなことできる人はおらんはずや」。


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