パヤタス日記<後編>
原 大祐(はらだいすけ)


◎独立−嫌がらせにも負けず

 今日は午前五時前に起き六時半すぎに仕事場へ出た。家を出る時、昨日35ペソで買ったばかりのごみ収集用道具「カラヘグ」を盗まれたことに気付き、一気にブルーな気分になった。新品のカラヘグは先端がとがっていてごみの刺さりがよかったのに・・。結局、居候先のディーナさんが借りてきてくれたカラヘグを持ってごみ山へ向かったが、気乗りがしない。
 朝日が昇ったばかりのごみ山は日中とは違ったにおいを放っていた。朝露でごみが湿り、湿気を含んだ独特のにおいがする。湿っている分足場も悪い。気持ちは憂うつなままで仕事ははかどらなかったが、知らないおじさんと目があって会釈をしたら、次から次へカップ類を僕の方へ投げてくれた。僕が「初心者」だと知って「これを拾え」と教えてくれているつもりなんだろうけど、うれしくてブルーな気持ちが一気に吹っ飛んだ。
 それからは仕事もはかどり、2時間足らずでかごが一杯になり山を下りた。今日から一日2回、仕事へ行こうと決めていたから、涼しくなる夕方まで休むことにした。
 ごみ山に戻ったのは午後三時半ごろ。今回から一人で行動し始めた。顔見知りも増え「たくさん取れたか」「まだカップ類しか拾っていないの」と声を掛けてくれる。
 午後のにおいもまた違う。日中、熱を目一杯吸収したごみは、夕方に足元から熱気とともににおいを放つ。ガスも出ていて煙も充満する。何度もめまいに襲われた。さらには僕がやっていることを不快に感じる人もいたりして、ごみをかけられたり、蛍光灯を目の前に落として破裂させる人もいた。
 「何でおれがこんな目に遭わなければあかんの」とその都度落ち込むが、子供たちの笑顔や他の人々の優しさが大きな支えとなってくれる。
 今日は、ごみ拾いに熱中するあまり、気が付いたらブルドーザーの近くにいてかなり肝を冷やした。それでも、ブルが掘り起こしてくれたごみの中にプラスチック類を見つけては飛びついた。危ないことは分かっていても「ブルが通った後は狙い目」と後ろをついて回る自分の変わりように驚く。
 ダンプカー近くの最前線でごみを拾える人でも表面のごみしか取れない。そして、表面のごみを取り尽くす。その後方にいる僕たちは表面のごみには期待できない。だからごみを掘り起こしてくれるブルの周りに群がるのだ。
 ブル運転手の仕事はかなり適当で、気分次第で急転回したり手放し運転を披露する。素人の僕に「運転してみるか」と何度も勧めたりもする。人が巻き込まれたらどうなるか、などとは考えていないのだ。
 ごみ山では計七台のブルが二十四時間休みなしで搬入されたごみをならし続ける。運転手は二交代制、つまり十二時間ぶっ通しで働く。休みは月一回。知人の運転手は覚せい剤を使っているようで「もう三カ月寝てないよ」と真っ赤な目でうそぶいて見せた。


◎環境−これでいいわけがない

 今日は朝から雨。山が少し崩れたという話があって、スカベンジング(ごみ収集)にも行かせてもらえず、市民団体運営の学校「パアララン・パンタオ」へ行って昼寝をした。午後からも学校の先生たちから「雨の日は山へ行かないって約束して」と言われ、行けずじまい。今日は久々にゆっくりした。
 昼食のおかずは魚を使ったシニガンスープ。食後、二十人以上の人たちに囲まれて記念写真を撮ったりした。隣人の一人が「妻がいないなら、この子どうや」と近所の女の子を指さして場がどっと盛り上がる。「(結婚して)ジャパゆきになるのは嫌だよな」という声も聞こえたりして、胸にぐさりとくる。みんなが集まると会話は必ずビサヤ語。全く分からないけれど、なぜか笑えてくる。楽しい。
 家族や隣人が集まる場には、たとえ酒宴であっても必ず子供たちの姿がある。パヤタスの大人たちは、たとえ小さな子供であっても一人のスカベンジャー(ごみ収集人)として接する。大人が子供の集めたごみを取り上げることはないし、仕事の邪魔をすることもない。大人と子供がごみの取れ具合を評価し合うこともある。スカベンジングを通して子供たちは大人の世界へ踏み込み、さまざまなことを学ぶ。
 日本には、年上の人との接し方を知らず、社会に出ても人とうまく付き合えない若者が少なからずいるが、そのような人はここにはいない。その裏側には、否応なく若いうちから自立していかなければならない厳しい現実があるわけだが・・。
 ところで、居候先の主、ルピーさんは、バランガイ(最小行政区)職員でごみ山の警備を担当している。仕事のない時は、家にやって来た隣人たちと一緒に床に寝転がってテレビを見ている。自宅が隣人らであふれかえっても嫌な顔一つしない。本当にいい人だ。
 「いい人」のルピー兄さんだが、体は全身入れ墨だらけ。聞けば、十代のころはツッパリグループのリーダーで、仲間の一人が強盗をしてしまったため9年間も刑務所に入れられたという。刑務所内でも「ボス」だったため、入れ墨をたくさん入れなければならなかったらしい。たとえ前科者であっても人望があればバランガイ職員に選ばれる。面白い国だ。
 ルピー兄さんの家では、高床部分の一角が私の寝床になっている。ゴキブリがはい回り、体中もかゆかったりして少し不快に感じる時もあるけれど、リラックスして生活を楽しませてもらっている。今では一人で家に帰るのが嫌なぐらいになった。
 しかし、この環境に人が住んでいることを「是」としているわけではない。かわいい目をした子供たちの皮膚はボロボロに荒れているし、夜寝静まった隣近所からはせき込む音が無数に聞こえてくる。いいわけがない。これでいいわけがない。でも彼らはここを離れない。仕事をしながら家族と一緒にいられるというフィリピン人が最も大切にしているものがここにはあるから。


◎大雨−「汚れたら洗えばいい」

 地元バランガイ(最小行政区)には一台当たり一日150ペソの「搬入料」が支払われる仕組みになっている。一カ月で200万ペソを超える計算で、「バランガイは金にまみれている」という指摘もあるほど。ごみの山は地元自治体にとっても「宝の山」なのだ。
 ごみが搬入される限り、スカベンジャー(ごみ収集人)は山へ出る。今日も朝から大雨だったが、これ以上休むわけにはいかず、カッパを借りて僕もごみ山を上った。
 たとえ大雨の日でもごみの搬入は止まらない。搬入用ダンプカーは約五百台で、それぞれ一日三回、ケソン市などで集めてきたごみをパヤタスへ運び込む。
 雨の日は、山から水が大量に流れ出る。斜面を上るのも必死だ。上り始めてすぐに小さな土砂崩れが起こった。小さいといっても、目の前で起これば、飲み込まれてしまうほどのものだった。周りで見ていた男の人たちは「のろいヤツは飲み込まれるぜ。こんなのいつもだから」と言っている。「のろいかのろくないか、という問題じゃなく、要は運やろう」と思いながらも、恐ろしくてダッシュで斜面を駆け上がった。
 市民団体運営の学校「パアララン・パンタオ」に通うアナ(10)たちも一緒だった。アナは学校で寝起きしながら学んでいるため、最近はスカベンジング(ごみ収集)から離れていた。今日は先生が一時帰郷したため仕事に出たが、久しぶりのスカベンジングがよほどうれしいのか人一倍はしゃいでいた。小遣いができることもうれしいのだろう。
 アナたちが時々面白いことをして笑わせてくれたので少しは元気が出たが、大雨の中の作業は想像以上に過酷だった。僕はカッパを着込んで、時々長靴に入ってくる雨水に不快な思いをしていた。手には、けが防止用の業務用ゴム手袋。そんな僕の重装備を見て、Tシャツ一枚にゴム草履の子供たちは「濡れたら乾かせばいい。汚れたら洗えばいいじゃん」と言う。こんな子供たちに教えられて、自分の方が全然小さな人間に思えた。
 それからは、装備をつけたままなりふり構わず、ごみまみれ、泥まみれになって作業をした。山を下りる時、そんな僕を見て子供たちが「兄さん、臭い!」と笑いながら言っていた。「お前も臭いだろ」と言い返しながら、思い切り笑った。ここの子供たちとお前が臭いのどうのと言い合えることが、何かおかしくもありうれしくもあった。
 通りを歩いてもみんなから「汚いなー」と声を掛けられる。決してほめられているわけではないけれど、なぜか気分がよくて「そうそう、いつも汚いよね」と冗談で返した。
 しかし、今日は疲れたなぁ。


◎人間−満たされた笑顔はなぜ

 今日は朝一番で2時間ほどスカベンジング(ごみ収集)をして、教授に会うことと水補給を兼ねて(留学先の)フィリピン大へ帰った。その途中、変な話だけれども道ばたに捨てられた缶類をかなり拾った。今思い返すと自分でもちょっと怖いけど、その時は「お金に換えよう」と思って拾っていた。
 大学寮のドアを開けた時、ごみ山の居候先に比べたらはるかにキレイな部屋なのに、「また一人になるのか」と思うと無性にここへ帰るのが嫌になった。
 寮の受付に日本から一通の手紙が届いていた。夏のワークキャンプでパヤタスを訪れていた同志社の女の子からだった。その中には友達が自殺したことや幼なじみの「荒れた生活」のことが淡々とつづられ、最後はこんな質問で結ばれていた。
 「マーシャル列島の島では、米核実験で被爆した島民が賠償金や援助物資のお陰で一生遊んで暮らせるが、島民の自殺率は世界一です。救いを本当に必要としているのは、このような心の貧しい人ではないですか。私が見たパヤタスでは、心が満たされた笑顔を持った子供をたくさん見ました。彼らが働いていることは不幸なことなのでしょうか」
 この手紙を読んでいろいろなことが見えたような気がした。僕は思いを整理したくて一つずつ考えた。
 「パヤタスの子供たちはなぜ満たされた笑顔を持っているのか」
 僕自身、劣悪な環境で耐え難い仕事をしながら、それでいて大学寮には帰りたくないと思っている。それでは、なぜパヤタスにいたいと思えたのか。それは心が幸せで満ちていたから。なぜ?
 思い返せば、パヤタスでは一時たりとも一人でいることはなかった。朝起きて隣で寝ているアルビン兄さんや家族にあいさつ。そうしているうちに、隣人たちが家に入ってくる。家の中から丸見えの通りからは、いろいろな人があいさつをしていく。通りに出たら、子供たちが寄ってきてもみくちゃにされる。それを見てる人たちが僕に声をかけていく・・。
 パヤタスの人たちは確かに貧しい。みんな貧しい。だからこそ、お互いに誰かを頼らなければ生きてはいけない。見栄なんて張ってられない。みんなすべてオープンで、自分の生活にかかわる隣人のことが気になってしようがない。だから誰もが声を掛け合う。時にはけんかもするし人の子でも本気で怒る。隣のことは何でも知っているのだ。
 僕は手紙を書いた女の子に答えたい。与え続けてもらっている人に助けまで与える必要はない、と。他人が与える助けは無意味だ、と。心の孤独を埋められるのは家族だけだよ、と。
 生まれた境遇の故に、子供のころからあきらめることを強いられ続けているフィリピンの人々。そんな中でも人は自分の心を満たしてくれるものを求め続け、「大切なものはいつも近くにある」と気付く。そして、常に何かを求めていなければ気が済まない貧しい心を持った僕たちにも「本物だ」と分かる笑顔を見せてくれる。パヤタスとは全く逆の世界、日本から来た僕は心からそう思う。


◎限界−壁を前に涙止まらず

 パヤタスのスカベンジャー(ごみ収集人)になって10日が経った。山に出るのは午前五・同八時と午後三・同六時の一日2回、計6時間。雨などで休む日もあったため、結局10日間で9日、計14回山に出た。うち3回分の「収穫」は仕事を手伝ってくれた子供たちにあげてしまったので、実際にお金に換えたのは11回分のごみだった。
 集めたのはごみの中でも一番安いカップ類(一キロで2ペソ)。これまで山に入った「9日間、14回」で得たお金は総額195ペソ。総労働時間42時間で割った時給は5ペソ足らずで、「生活費」にするには全然足らない。
 10日も経つとごみを瞬時に見分ける力も付く。そうすると実際に生活できるぐらいは稼ぎたいという欲が出てきた。この日は、初めから新しいごみを搬入するダンプカーの近くでごみを拾ってやろうと思っていた。つまりは、ルールを破ってグループの縄張りを荒らしてやろうと考えていたのだ。
 とはいっても、多くの人が群がるダンプ付近で狩り場を見つけるのは容易ではない。しかし、これまで全体の人の流れを注意深く観察してきたため、だいたいの「流れの法則」は既につかんでいた。
 法則はこうだ。ダンプが捨てたばかりのごみに人は群がる。大抵はごみが取り尽くされた後、山をならすためにブルドーザーが入り、スカベンジャーは次の場所へ移動するのだが、時折捨てたばかりのごみの横に新たなトラックが来ることがある。
 そんな時、先に捨てられたごみを取り尽くす前に新しいごみを求めて移動する人が必ずいる。そして、スカベンジャーの群れに誰もいない空間が生まれる。この瞬間がごみに取り付くチャンス。もちろん他に順番を待っている人がいたり、「標的」が重なったら必ず譲って恨みは買わない。鉄則だ。
 こんなふうにして確保した狩り場で一時間ほどごみを掘り尽くした。高値で売れるアルミ缶やペットボトルが次から次に出てくる。大漁に興奮を覚えて夢中でごみをあさった。手持ちの袋が一杯になり、ふとわれに返ると背中の方から突き刺さるような視線を感じた。
 右肩越しに振り返ると、明らかに殺気だった目をしてた男数人が立ちつくしているのが目に入った。そして、左横に目をやると、僕が乱雑にあさった貴重なごみを四十歳ほどの女性が丁寧にあさっていた。
 僕は後ずさりをし、拾ったごみすべてをその場に捨てて、そこを後にした。そのまま山を下りながら、涙が止まらなかった。仲間になれたような思いが独りよがりでしかなかったことを思い知らされたからだろうか。「同じ苦しみを共有すれば・・」と死ぬ思いで過ごした日々がむなしく思えたからだろうか。もしくは、パヤタスの温かな人たちの仲間になることを本気で望み、拒まれた寂しさからだろうか。
 「限界」に触れた日から、僕はスカベンジャーとして山に近付くことができなくなった。


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