ごみと共に生きる
〜マニラのごみ集積場パヤタスに暮らす人々


文・工藤律子(くどうりつこ/ジャーナリスト)
写真・篠田有史(しのだゆうじ/フォトジャーナリスト)

2000年7月にフィリピンのごみ集積場で、ごみ山の崩落により300人以上が生き埋めになって死亡する事故が起こった。あれから4年が経とうとする今、現地の人々はどのように暮らしているのか。



2000年7月のパヤタスのごみ崩落事故現場跡。土中には今も救助されなかった大勢の人が眠っている

支払えない住宅代

 「ここでの生活は大変です。家賃も電気も水道代も高いし、まともな仕事はないし」
 病気の夫と5人の子どもを抱え、ノラリンさん(33)はため息をつく。
 マニラ首都圏最大のごみ集積場パヤタスで、長雨のためにごみ山が崩落し、300人以上の死者を出す大惨事が起きて、まもなく4年。事故現場近くに住んでいたノラリンさんたちは今、パヤタスから車で約20分のところにある、リサール州モンタルバンの再定住用住宅地区に暮らす。事故直後、政府が危険地域の住民約500世帯に、移住を指示したからだ。しかし、人々の大半は、現在の生活に大きな不安を抱いている。
 モンタルバン再定住用住宅地区は、もともとスラムから立ち退きを強いられた人々のためにつくられた。だが、そこには学歴のない貧しい人々のための職場が、何もない。にもかかわらず、政府が提供した住宅は、8畳間大の部屋に小さな台所とトイレ、洗い場が付いて、1軒16万5000ペソ(約33万円/1ペソ=2円)。その額を最初の5年は月300、後は月1000ペソずつ支払うよう言われた。
 ノラリンさんをはじめ、パヤタスから移住した人の多くは、「スカベンジャー(リサイクル可能なごみを広い集めて売る人)」として生計を立てている。朝から夕方まで地域のごみ集積場で働き、1日100ペソ前後稼ぐ。その収入では、住宅代を支払うどころか、家族が食べていくだけで精一杯だ。だから、パヤタスにいたころは皆、空いている土地やごみ山に、勝手に小屋を建てて住みついていた。なのに、ここでは住宅代が要求される。ノラリンさんは言う。
 「住宅代は一銭も払っていません。もし追い出されたら、パヤタスへ戻りますよ」
 そのパヤタスでは、事故後の約4カ月間、ごみ集積場が閉鎖された。が、それ以降は事故のあったごみ山以外は再開され、今も3000人を超えるスカベンジャーがそこで働く。中には、モンタルバンの再定住先から通ってくる人もいる。


ノラリンさんたちが暮らすモンタルバンの再定住用住宅。
1棟に3世帯が住む


モンタルバンに移住したノラリンさんと子どもたち。
家具や日用品は皆ごみ山で拾ってきたものだ


年齢制限にひっかかる子どもでも
年をごまかしたり、大人にまぎれて働く子がいる


ごみ山のふもとには、ここで働く人々の粗末な家が立ち並ぶ。
不衛生なごみ山で一日中過ごす人々の中には、
呼吸器系や皮膚の病気が多い

ごみは一大ビジネス

 「今は危険を考慮して、より組織だった仕事をしています」
 そう話すのは、「パヤタス・スカベンジャー組合」の代表者。現在このごみ集積場で働く人々は、8つの組合に組織されているという。それぞれの組合員は、同じ色の上衣と組合員証を身に付け、ごみを載せたトラックが到着するたび、組合ごとに交代でごみを拾う。
 集積場にある程度ごみがたまったら、上から土を被せ、地滑りが起きないようにする。
 また、事故後にできた警備組織が、子どもの侵入を監視している。14歳未満の子どもは、危険なのでごみ山に入ってはいけないそうだ。とはいえ実際には、家計を助けるために警備の目を盗んでごみ拾いに来る子が、後を絶たない。
 そんな現実を前に、政府はこのごみ山の完全閉鎖を口にする。が、まだ実行していない。
 「できやしないさ。だってこれは一大ビジネスだもの」
 ごみ山のそばに住むジェイコベンさん(27)は、そう肩をすくめる。パヤタスのごみ山にはスカベンジャーだけでなく、土地を所有するケソン市(ごみトラックから通行税を受け取る)、ごみを運んでくるトラック会社(約18社)、再生ごみを買い取る「ジャンクショップ」店主たち――大勢の利害が絡んでいる。だからその閉鎖は、皆の利害と一致しない限り、不可能だと言う。加えて、ごみ山で働いて事故に遭おうが有毒ガスや埃、病原菌によって病気になろうが、ごみがないと食べていけない人々が、そこにはいる。


゛未来゛を切り開くための教育

 ジェイコベンさんの母親、レティシアさん(63)は、地域の人々の心情をよく理解し、現状の下でもよりよい未来を探るために、子どもたちを対象とした無料の学校「パアララン・パンタオ(人間味のある学校)」を運営している。現在、パヤタスに1校、モンタルバンに1校あり、3歳から17歳までの子ども計約140人が通う。
 彼女は、パヤタスではまれな大学卒業者だ。教師だった夫を病気で亡くした後ここへ引っ越してきて、住民組織の代表を務めながら、5人の子どもを育てた。
 「ある時、私がわが子に勉強を教えているのを見た近所の人たちが、うちの子もみてやってくれませんか? と言いました。それが開校のきっかけでした」
 1989年、正式に学校を開設。自分の娘を含む4人の先生と交代で、午前中に幼稚園レベル、午後は小学校レベルの授業を行っている。授業の内容は公立校と同じだ。
 フィリピンでは、小学校(6年)とハイ・スクール(4年)の計10年間が義務教育。しかし、文具、制服、さまざまな行事費用など、お金がかかることが多く、スカベンジャーとして生きる人々には、子ども全員を適齢期に通学させるのは難しい。だから、学費ができるまでの間、無料で勉強を教えてくれる「パアララン・パンタオ」の存在は大きい。
 モンタルバンにいるノラリンさんも、7歳の長女と6歳の次男を通わせている。長男(9)はパヤタスにいたころに通っていたおかげで、地元の小学校に容易に編入できた。
 「子どもにだけは、スカベンジャー以外の未来を切り開いてほしいんです」
 そう語るノラリンさん。ごみ山を生活の糧に生きる大人たちは皆、同じ思いを抱く。それを知るからこそ、レティシアさんは、どんなに資金繰りが苦しい時でも、活動に共感する日本人ら海外の有志から送られてくる支援金をやりくりして、学校を続けてきた。
 「一時は本当にお金がなくて、困ったこともありました。私がダンサーとして日本へ出稼ぎに行こうかと思ったくらいですよ。厚化粧すれば、何とかなるでしょ?」
 冗談で悩みを吹き飛ばしながら、子どもたちの未来のために奮起する。そうしてきたおかげで、今では大学の修士課程に進んだ卒業生もいる。
 ごみ山とともに生きる人々は、今の現実を受け入れながら、やがてくるはずの「ごみ山と離れて生きる」未来へ向かって、一歩一歩前進している。


学校の主催者、レティシア・レイエスさんが、
幼稚園レベルの子どもたちに
簡単な英単語や歌などを教える


学校のクリスマス会。司会はジェイコベンさん。
JICAの活動や留学で
フィリピンに来ている日本の若者も参加した


パヤタスにある無料の学校「パアララン・パンタオ」

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