フリースクールから未来を築こう
〜フィリピン・パヤタスのゴミ捨て場に生きる人々


文・工藤律子(くどうりつこ/ジャーナリスト)
写真・篠田有史(しのだゆうじ/フォトジャーナリスト)

フィリピンの首都マニラの北東部にあるパヤタス地区は、広大なゴミ山がある場所として有名だ。その地でゴミを拾って生計を立てる人々の子どもを集め、小学校程度の教育を施す女性がいる。子どもたちの未来のために。


面積は約16ヘクタール。暑いときはウジ虫がわき、煙が立ち上る。危険で不衛生なゴミ山だが、生活の糧でもある

緑あふれる谷間に現れた山

 パヤタス地区のゴミでできた台地には、毎日三千人をこえる人々が集う。装置用から日暮れまで、ひたすらリサイクル可能なゴミを拾い、廃品回収業者に売って日銭を稼ぐ。「スカベンジャー」と呼ばれる人たちだ。売上は一日百〜二百ペソ(約二百五十円〜五百円)。僅かだが、家族を支える大切な収入だ。
 ここパヤタスのゴミ集積場には毎日、首都圏のゴミの三分の一にあたる約二千トンが運ばれてくる。周辺には、学歴も仕事もなくゴミで生計を立てる人々が、十万人は住むと言われる。
「私が来たころは、家も少なくて、谷を望む、緑溢れる美しい所でした」。
 そう話すのは、パヤタスと隣町モンタルバンで、貧困家庭の子どもたちのためのフリースクールを運営するレティシア・レイエスさん(65)、通称レティさんだ。
 大学で経営学を学び、各地でレストランなどの商売をしていたレティさんは、三十代で夫と死別。パヤタスに土地を買った姉に誘われ、一九八二年に五人の子どもを連れて移ってきた。
 パヤタスでは、やがて谷間につくられたゴミ集積場が拡大し、一帯はスカベンジャーが家賃を浮かすために勝手に建てるバラックで埋め尽くされていく。姉は環境の悪化を嫌い、引っ越してしまった。しかしレティさんは残ることに……。
「私は地域の住民組織の代表だったので、ここを離れるわけにはいかなかったの」。
 だから、雑貨店を経営しながら子どもたちを育て、人々の生活向上に尽くすことにした。


パヤタスのゴミ集積場
以前は大勢の子どもがゴミを拾っていた。
今は危険回避のために14歳未満は入れない。


モンタルバンの町
事故後に政府が用意した移住先は家賃が高いうえ、周囲に仕事が何もない。


レティさんの長女 マリリンさん(42歳)も先生を務める。

子どもたちに教育を

「あるとき、私がわが子に勉強を教えているのを見た近所の人が、うちの子も見てくれませんか? と言いに来ました」。
 隣人の要望に応えて勉強を教え始めたレティさんは、一九八九年、フリースクール「パアララン・パンタオ(思いやりの学校)」を開く。
 フィリピンでは、小学校六年間とハイスクール四年間の計十年間は義務教育で無料だ。が、文具や制服代、行事費用などは、各家庭持ち。スカベンジャーとして働く親が子どもを全員、適齢期に通学させるのは難しい。また、子どもも働く家庭も多い。そこでレティさんは、学費ができるまでの間、「パアララン・パンタオ」で無料で教えることにした。
 初めは自宅で仕事の合間に教えていたが、あっという間に生徒が増えたため、住民組織と地元NGO(非政府系組織)の協力で廃屋を改修し、校舎を準備。ほとんど無給で手伝ってくれる人を探し、幼稚園と小学校レベルの授業をはじめた。
 そのうちユニセフなどを通して学校のことが世間に知られはじめると、時々海外から支援金が届くようになったので、先生を四人雇った。教員免許保持者一名と、ハイスクール中退・卒業者など教える力のある隣人だ。しかし、資金が尽きて給金が払えなくなると、皆辞めた。レティさん曰く、
「皆お金になる仕事をしないと生活できないのよ。なかにはスカベンジャーに戻った人もいたわ」。
 失業率五十%とも言われる首都マニラでは、高い学歴とコネがないと、まともな仕事につけない。だからこそ、レティさんの活動が重要だとも言える。
 九〇年代後半に入り、活動に共感した日本の若者たちが支援グループをつくると、学校運営は少し安定した。ところが二〇〇〇年七月、新たな転機をもたらす大事件が起きる。


モンタルバンにも開校

 数日間続いた大雨が原因でゴミ山が崩落し、三百人を超える死者が出たのだ。レティさんの生徒も二十三人犠牲になった。ゴミ集積場は一時閉鎖され、ゴミ山の上やすぐ脇に住んでいた約五百世帯は、隣町モンタルバンに移住を余儀なくされた。生徒の半数がパヤタスを去り、学びの場を失うことに。
 そこでレティさんは決心する──無理をしてもモンタルバンに一校開こう。
「お金に困ったら友人や親戚、息子にまで借りるわ。息子は私があまり何度も貸してと頼むものだから、たまに怒って『母さん、ボクは明日もうこの家にいないと思ってくれ』なんて言うのよ!」。
 そう笑うレティさん。彼女の子ども五人はすでに自立し、頼もしい応援団になった。もう一人、赤ん坊のころにゴミ山で見つけて養女にした娘(17)がいるが、この子も立派に成長。家族と友人に支えられ、レティさんは二〇〇三年八月、モンタルバン校を開校した。
 現在「パアララン・パンタオ」では、四歳から十八歳までの子どもが、パヤタス校で約七十名、モンタルバン校で約八十名学んでいる。年齢も学力もバラバラなため指導は大変だが、先生たち五人は月給四千〜六千ペソ(一万から一万五千円)で奮闘している。運営に行政からの援助は無く、寄付で足りない資金は毎度レティさんがやりくりする。
 今はシンガポールの市民グループからの寄付金で、昼食サービスも行っている。家でろくな食事にありつけず、集中力のない子どもが多いからだ。


新校舎。敷地代はまだ払い終わっていない。


デニスくんはフリースクールが大好き。質問にも積極的に答える。


フリアンくん(左)は子どもたちの昼食の買出しや調理、何でもこなす。


デニスくんの家はゴミの臭いが漂う路地にある。

卒業生が学校を支える

 パヤタス校の昼食は、卒業生のフリアンくん(24)が調理する。
 フリアンくんは南のレイテ島出身。生まれてすぐに祖父母に引き取られ、パヤタスへ来た。ところが祖父母は、九歳の時に死去。独りぼっちの彼を救ったのは、隣人だった。近所の夫婦が、「うちは娘ばかり。息子が欲しかった」と養子にしてくれたのだ。以来、彼は貧しくともやさしい養父母と姉二人に支えられ、生きてきた。
「うちは仲のいい家族なんです。お互いに尊敬しあっていますから」。
 フリアンくんが少し自慢げに言う。
 レティさんが記憶しているフリアンくんの第一印象は、「本を読むのが好きな子」だ。「レティ先生」に出会うまで、彼は小学校1年までしか通学したことがなかった。が、十歳の時、半日はスカベンジャーとして働き学費をため、半日はレティさんに勉強を教わる生活を始めた。そして十二歳で政府公認の進級試験を受け、小学五年生に入学。卒業すると、再び「パアララン・パンタオ」に戻って一年間働きながら勉強し、ハイスクール三年に編入した。その後、奨学金で大学へ進学し、海運業を学んだ。
「海運業では就職が難しかったので、今は違う道を考えています。でも考える間、レティ先生の手伝いをしたいんです。この学校のおかげで将来に夢を抱くことができたボクが、学校を支える人間の模範にならなきゃ!」


スカベンジャーではない未来

 フリアンくんの隣人で、彼が作る昼食を糧に勉強に励むデニスくん(7)は、小学校の入学準備をしている。九人きょうだいの下から二番目で、お父さんはゴミ回収トラックの積み下ろし作業を、お母さんはスカベンジャーをして働く。両親の日収約三百ペソ(マニラの労働者の最低賃金は三百五十ペソ)で、家族九人が暮らす。
「私たち夫婦は今の生活で満足しています。でも、子どもたちには自分の好きな仕事について暮らせる人生をつかんでほしい。そのためなら精一杯応援します」。
 お父さん(51)は、真剣にそう語る。その期待通り、デニスくんの兄姉はほぼ全員が、「パアララン・パンタオ」から公立学校へ進学した。二十二歳の姉は奨学金を受け、大学にも行く予定だ。デニスくんもその後を追う。
「ボク、勉強は大好きだよ。大きくなったら、お医者さんになるんだ。病気の人を治してあげられるから」。
 デニスくんの言葉に、お母さんも思わず表情を緩め、「ぜひ夢を実現してほしいわ」と微笑んだ。
「スカベンジャーではない未来」を築くために、助け合いと学びを大切に歩むレティさんとパヤタスの人々。深刻な問題に直面しても、レティさんは、「私がダンサーとして日本へ出稼ぎに行けばいいかも。厚化粧すれば何とかなるでしょ?!」などと笑い飛ばす。立ちはだかる困難に笑顔で向き合い、家族や隣人のために、一日一日を前向きに生きている。


(前列左から)デニスくんの母、デニスくん、妹、兄、(後列)父と姉。


レティさん(中央後方)とパヤタスのフリースクールに通う子どもたち。

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