第9回(2007年度)アジア人権賞受賞スピーチ
パアララン・パンタオ レティシア・B・レイエス校長先生
2007年12月7日 東京


 こんばんは
 今日、こうしてみなさんの前に立っていることに、とても驚くとともに、名誉に感じています。私たちは、私たちの団体の努力がこのように認められるとは、まったく予期していませんでした。
 私は、貧困がどこにも広がっており、教育が特別なものである国から来ました。この単純ですが厳しい現実が、私たちが努力を始めるきっかけとなりました。
 ほぼ20年前、私たちはパアララン・パンタオ(Paaralang Pantao)と呼ばれる学校を設立しました。それは「民衆の学校」であり、その言葉の意味は「思いやりの学校」です。この学校は、子どもたちの窮状に対する対応策として、私のような親たちによって設立されました。子どもたちは、教育や遊びといった基本的な人権が損なわれ、子どもらしくあるための機会を与えられていませんでした。パアララン・パンタオの目的は、子どもたちに別の選択肢を与えることでした。
 私たちは、私たちが子どもたちのために、子どもたちに対して、そして子どもたちと一緒に何をするかが、私たちの思いやりの質を明らかにすると信じています。子どもたちが今日、どのようであるかは、未来を予見するものです。実際に私たちは、ゴミ捨て場の子どもたちとともに働くことを通して、その未来を毎日見ることができ、幸せに思っています。この骨の折れる環境という重荷の下でも、私たちは子どもたちの中に、より輝かしい日々を約束してくれる力を見出しています。
 私はパアララン・パンタオの子どもたちを代表して、アジア人権基金がこの信念を支持してくださったことに感謝したいと思います。のしかかる問題を前にして、私たちの努力が小さく感じられるときもあります。しかし、そうした小さい努力が、他の多くのグループや個人の意欲を目覚めさせることもあると期待をもっています。私たちのところだけでなく世界の多くの場所にある、このような巨大な問題と向き合うには、ほんの少しの時間やお金や努力の積み重ねこそが、大切なのです。困っている人にとって、支援が小さすぎるとか、大きすぎるということはありません。場合によっては、その人にあなた方の手を差し伸べるだけでもよいのです。


土井たか子代表(左)から賞状と記念品が授与されました。


 では最初に、パアララン・パンタオがどこにあるかをお話ししましょう

 フィリピンの地政学的な最小の単位はバランガイと呼ばれています。パアララン・パンタオは、パヤタスと呼ばれるバランガイにあります。
 バランガイ・パヤタスは、マニラ首都圏で最大の町、ケソン市の第2区にあります。パタヤスはケソン市で最大のバランガイの一つで、パタヤスAとパタヤスBという二つの地区に分かれています。
 パヤタスのB地区は長い間、マニラ首都圏のゴミ捨て場として使われてきました。当時、そこは単なるゴミ捨て場だったので、市の公式の地図にも載っていなかったことは驚くにあたりません。B地区は、以前はsmoky valleyすなわち「煙の谷」として知られていました。というのは当時、市のゴミが捨てられていた大きなくぼ地が高い崖の下にあったからです。しかし、それが(今は閉鎖されたゴミ山、トンド地区の有名なスモーキー・マウンテンに代わる)もう一つのsmoky mountain すなわち「煙の山」になるのに長い時間はかかりませんでした。
 数多くのダンプ・トラックが、学校がある道路を通過しています。実際、子どもたちがこれらのトラックに乗り込み、マニラ首都圏のゴミをあさっているのを見るのは、日常的な光景です。というのも、彼らはゴミをリサイクルすることで生計を立てているからです。
 
次に私たちの学校について話しましょう

 パアララン・パンタオは1987年に、Dumpsite Neighborhood Organization (「ゴミ捨て場の隣人組合」、略してDN0と言います)の小さなプロジェクトとして始まりました。DNOは、ジャンク・ショップを運営することで、パヤタスの家族たちがゴミ拾い以外の手段で生計を立てていけるように支援する、お母さんたちの組織です。しかしながら、お母さんたちがその仕事に時間を割けば割くほど、子どもたちの世話をする時間がなくなります。その結果、彼女たちの子どもの多くが、学校の成績を落としたり、落ちこぼれたりして、最悪の場合は学校に通うことができなくなりました。それは変だと思われる方も大勢いらっしゃるかもしれませんが、事実なのです。ゴミ捨て場にいる子どもたちの多くは、とても幼い頃から(親の仕事を見て)ゴミ捨て場で働いて生計を助けることを選ぶため、学校に行く時間もないし、遊ぶ時間もないのです。[注1参照]
 そこで私たちは、DNOでこの状況に対応するため、週に一度でもいいから、子どもたちが学び遊べる安全な場所を提供することを計画しました。それが私たちの寄せ集めの資金でできる、精一杯のことだったからです。
 その実現のために、私たちは他の多くの組織と連携をしました。最初は、アニー(アニセタ)・アビオンというカトリックのシスターが設立した「住宅環境開発センター(CHHED)」(当時)の建物を臨時に利用しました。そこでの通常の活動のために、「児童保護研究所(Institute for the Protection of Children)」(当時)のスタッフに支援を求めたところ、彼らは代わりに、「サリンシニン基金(Salinsining Foundation)」のスタッフを紹介してくれました。この基金は、今は「演劇を通じた教育の可能性をさぐる子ども実験室」(Children’s Laboratory for Drama in Education)、通称「チルドレンズ・ラボ」と呼ばれています。
 「チルドレンズ・ラボ」のスタッフは週に一度来て、詩や歌、ゲーム、人形劇、保健をテーマにした寸劇、その他多種多様で創造的な活動を行いました。[それは今も続いています。]
 崩れかけた建物の中で行われるこれらの毎週の活動は、ゴミ捨て場の子どもたちに楽しみをもたらしました。そしてまもなく、このプロジェクトに関心を持つすべての人が、それは子どもたちにとって一時的な楽しみの種であるだけでなく、真の学びの体験でもあることに気づきました。
 毎週の活動に子どもたちが活発に参加していることに励まされ、私たちはこの経験をより日常的なものにする可能性を探りました。親や週一度の活動に参加している兄、姉たちが、ゴミ捨て場の人びとが「事務所」と呼ぶ場所=ゴミ捨て場で生活費を稼いでいる間に、幼い子どもたちが来て遊ぶことができるデイケア・センター(保育所)のようなものを、同じ建物の中で運営することにしたのです。
 私は、約30人の子どもたちが恒常的に来て遊び学ぶ、このDNOのデイケア・センターで、最初の教師になりました。ここで子どもたちは、より良い生活を手に入れるために役立つ、有意義な教えを学びました。
 デイケア・センターの子どもたちは、その将来性の大きさを感動的なくらいたっぷりと示してくれました。私は、子どもたちの反応こそが、さらに多くの個人やグループを触発し、私たちの運動へ参加するように促したのだと思っています。これらの人びとが、わたしたちがゴミ捨て場の子供たちのために抱いた夢を分かちもってくれたことに、私たちは永久に感謝するでしょう。


スピーチをするレイエス校長先生


この機会を借りて、次の人びとに感謝したいと思います

1、ゴミ捨て場の子どもたち、親たち、そしてコミュニティの人びとに対して。彼らは私たちの輪に加わり、子どもの権利運動を擁護してくれました。
2、このプログラムを立ち上げるのに力を貸してくださった「チルドレンズ・ラボ」に対して。彼らのおかげで、私たちの小さな努力に他の人びとが注目するようになりました。
3、シンガポールの仲間に対して。彼らは資金を寄付し、私たちのセンターが電気を使えるようにしてくださいました。そして現在でも、毎年の訪問と給食プログラムへの援助を通じて、学校の運動を支援し続けてくださっています。
4、以前、ユニセフのマニラ事務所の青少年プログラム担当者であった岡田容子さんに対して。彼女は、センターの設備完成の力となってくださった大勢のボランティアの最初のグループを、送り込んでくださいました。
5、創価大学東南アジア研究会の学生とボランティア、私たちの親しい友人たち――岩崎一三さん、太田誠一さん、滝上尚生[たきがみ・たかお]さん、永田健さん、澤田且成[かつなり]さん、河合誠さん、澤口佳代さん、高野美央さん、沖本直子さん、工藤律子さん、その他多くの日本の個人と団体の友人の皆さんに対して。どなたのことかは、皆さんご自身がおわかりでしよう。皆さんは、パアララン・パンタオがとても必要としている支援のすべてを提供し、学校の毎日の運営を支えてくださいました。
6、「アルバン基金」を通じて、リサール州モンタルバンの政府の再定住地区にパアララン・パンタオの分校を完成させることを助けてくださったスイスの友人たちに対して。
7、特別の時期に、クリスマスや夏の活動を企画してくださったフィリピンの学生、専門家、民間企業の皆さんに対して。
8、また、富めるか貧しいか、若いか年配かにかかわらず、時間や才能、宝物とでも呼ぶべきものを提供してくださった、その他多くの皆さんに対して。
9、そして今、私たちのささやかな努力を認め、今年のアジア人権賞を授けてくださったアジア人権基金に対して。
 私たちは、これらの団体や個人の皆さんが私たちの支援に駆けつけ、私たちの夢を共有してくださったことに、心から感謝しています。皆さんの支援なくしては、私たちの学校の成功はありえませんでした。
 現在、パアララン・パンタオは新しい場所にあります。古い建物は、ゴミ捨て場の拡張のために壊されてしまいました。幸い、常に私たちに寄り添ってくれた沢山の人びととグループが、今も私たちと共にあり、ケソン市の郊外のモンタルバンに近い再定住地の家族の子どもたちのために、同様のプログラム[分校を開設し運営する]を立ち上げるのを支援してくれています。[注2参照]
 私たちはこの授賞に、もう一度感謝申し上げます。今なお、パヤタスの子どもたちのためになすべきことは、たくさん残されています。私たちの仕事は、ゴミ捨て場のゴミと同じくらい「沢山ある」と感じています。けれども有り難いことに、それを手伝おうという人びとは存在するのです。
 これからの仕事は大変だとは思いますが、パヤタスの子どもたちの未来は、これまでよりはるかに輝かしいものに見えます。私たちは、皆さんやアジア人権基金を構成する方々のような人たちが、より良い社会をめざす旅を、私たちと共にしてくださっていることに、大変な勇気を得ました。
 マラミン・サラマト・ポ・アト・マブハイ!(どうもありがとうございました!)

注1:ジャンク・ショップとは、ゴミの仕分け、買取り、転売などを行う「作業所&店」。拾ったゴミを近くのジャンク・ショップに持っていって現金に換えるシステムで、ゴミ拾い同様、ゴミ山に依存した仕事です。ゴミを拾うだけでは収益は少ないのですが、ジャンク・ショップを開いてゴミを買い取る側になれば、そのゴミを仕分けして、さらに大きなジャンク・ショップに売ることでより大きな収益をあげることができます。それで、地域のお母さんたちで助け合ってジャンク・ショップを経営しようとしたのが、DNO(隣人組合)の始まりでした。ジャンク・ショップは、拾ったゴミをすぐに持っていけるようにゴミの山のすぐ麓とかゴミ山の上に作った掘っ立て小屋(柱の上にトタンをのせただけという感じのもの)で、小規模なものはたくさんあります。
   「その結果、彼女たちの子どもの多くが、学校の成績を落としたり、落ちこぼれたりして、最悪の場合は学校に通うことができなくなってしまいました」──レイエス校長のこの指摘は、母親たちがジャンク・ショップで働くようになると、子どもたちは拾ったごみが現金に換わる現場を日々見るので、家計を案じ、学校よりもゴミ拾いにいくようになってしまった、ということでしょう。
   公立学校は、ジプニー(もともとはジープを改造した乗合自動車)に乗らないと行けないので、それだけでもお金がかかり、貧困家庭の子どもには通学が困難です。また、入学には、名前やアルファベットの読み書きなど、最低限の学力が要求されますが、鉛筆すらまともに握ったことがない場合が多いゴミ山の子どもたちにとっては、厳しい話です。一方で、ゴミ山の拡大に伴い、地方から出てきた貧しい人びとが都会で職を見つけられず、ゴミを拾って暮らすためにパヤタスに集まり、人口が増え、出生証明書が田舎にある、あるいは出生証明書そのものがなくて、学校に入れない子どもが出てきました。学校への行かせ方が分からない親たちも多く、学校に行けない子どもたちがますます増えていきました。
   DNOの母親たちによるジャンク・ショップは、資金が少なくて長く続かなかったようですが、母親たちが何をしているかに関わりなく、地域で学校に行けない子供たちが増え続けていたというのが、パアララン・パンタオが開校した80年代半ばから90年代のパヤタスの事情です。そのため、週に一度のデイケアは必然的に、毎日授業を行う学校へと発展することになりました。つまり、パヤタスの子どもたちには、字も知らなくても、出生証明書がなくても、ジプニーに乗らなくても、制服を着なくても、通える学校と保育所が近くにあり、学校が終われば家族を助けてゴミの山で働ける、ということが必要だったのです(2000年頃からは、14歳未満の子どもたちのゴミ山での労働は禁止されましたが、それ以前は7歳ぐらいの子どももゴミを拾って働いていました)。その必要に応える学校を、レイエス先生はつくりました。
注2:パヤタスの学校は、旧校の敷地の近くですが、新しい場所に移転しました。また、パヤタスから車で15分ほどのリサール州モンタルバンの再定住地域には、もう一つ分校があります。この再定住地というのは、2000年7月、ゴミ山が崩れ、多くの死傷者を出したときに、政府がゴミ山のとくに危険な地域に住んでいた人びとを移住させた土地です。パアララン・パンタオの生徒たちの半数が、家族とともにモンタルバンに移住しましたが、多くがそのまま教育の機会を失ってしまいました。そこで2003年、空き家を買い取ってパアララン・パンタオの分校を開きました。
 *注は「パヤタス・オープンメンバー」の説明をもとにしたものです。


会場ではパアララン・パンタオのTシャツやリサイクルバッグも販売しました



学校の展示もしました


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