熊's life


        ここでは私の生活を通して、ライフスタイルを見て下さい。 私は、日中戦争で叔父を太平洋戦争で父を原子爆弾の

       後遺症で多くの友人を失いました。生ある今平和への活動、平和の大切が現せるようなページにします。  

        私の研修ページ

        私は、金曜日広島原爆平和資料館でピースボランティアとして登録しています。

      館内または公園のご案内をしております。どうか気軽にご連絡ください。戦争とはなにが。戦争が起れば

      人間はどうなるの。また、なぜヒロシマに原爆が。何が起こったの。それでヒロシマは。今のヒロシマは。

      二度とヒロシマ、ナガサキを繰り返さないために。

      命の大切さ、戦争の愚かさ、原子爆弾の悲惨さ、平和の大切など学んでみませんか。

      また、新しくシュモー氏の紙芝居も行います。


2020年8月6日

原子爆弾により被害を受けた赤十字病院に保存された一部をメモリアルパークに展示

爆心地から1500mの所にある赤十字病院は風速95mの爆風で窓枠が曲がったもの。
爆風は10秒間で3700mに達した。広島市は10秒間で社会の機能はなくなったと言われている。


病院は1939年に完成
周りの建物は火災で消失したが、病院には火の粉などが飛んできたが、職員はこの病院を火災から
守った。この病院のレントゲンフイルムによって原子爆弾と証明された。
当時の竹内院長は、この建物が赤十字病院だとわかうように建物の3階の外に赤十旗を付けた。
方法は暗幕の裏の赤を十字に切り白はシーツやカーテンなど利用した。
当時の被災者はこの赤十字の旗のもとに集まった。
 当時の赤十字の役割は看護婦さんを養成することが大きな目的で、当時16〜18歳まで400人以上が
就学して従軍看護婦を目指していた。
多くは倒壊した木造の下敷きになったが、当時の婦長サンは入院中の軍人さん、軽症の職員に救助を
お願いし多くの看護学生を救助した。怪我をした看護学生も病院に残り被災した住民の救護を続けた。
これらの功績により、谷〇婦長さんは昭和34年に広島県で初めてナイチンゲール記章を受章された。
看護学生は22人職員29人が死亡した。


この慰霊碑は、6日は市内の中心部6ケ所で建物を取り壊す作業「建物疎開」が行われていた。
作業には約4万人が動員されその中に中学1年2年生が8000人以上がいたが、6300人以上が
原子爆弾で死亡された。。
赤十院病院の敷地に防火水槽があり、避難の途中に水槽に水を求めておおくの動員学徒の
皆さんが、顔を漬けて死亡していたのです。
動員学徒の慰霊碑です。


1964年に慰霊碑が建立されましたが、今はメモリアルパークに入れ碑はまとめてある。
他には、マルセル ジュノー 看護婦さんが戦争で外地で死亡した人の氏名、看護学校記念碑 
全日空の飛行機事故で死亡された天野「スズランを原爆病院にとどけてくれた」さんの碑もあります





2019年1月13日
前年、丸木伊里サンの原爆の図を鑑賞しましたが、ここの展示19点は爆心地から2.3kの場所で
体験されれた本人の心に残ったものです。特に目玉は生きているようでした。
いま、原爆資料館では原子爆弾の爆発で広島が焼かれていく状況がホワイトパロラマで見ることが
できます。そのあとで「絵」のような実態が発生し、何もない焼け野原の広島が残ったと思いながら
鑑賞しました。とても、心が揺れ動き、胸の痛いものばかりです。
丸木さんの絵を除き、他には見たことのないものでした。

三良坂平和資料館
昼飯は、三良坂平和資料館から400mぐらいにのところに、豆腐専門店の「佐々木」さんがあります。
ここでいただきました。連休で40分ぐらい待ちましたが、おいしくいただき満足し、三次ワイナリー
によりワイなど買い物して帰りました。

昼飯




2107年6月6日
山口県光市、周南市大津島で金曜日グループの自主研修を開催したので参加しました。
昭和3年生まれ当時17歳の女性OFさんから体験を聞きました。
1945年8月14日(終戦の前日)正午ごろに光海軍工廠に145機のB29が885トンの爆弾を投下し
ほとんどの施設が火災をおこし、工廠は火の海になり、軍人51人、軍属554人、動員学徒133人
計738人が犠牲になった。
今現存している広島市の本川橋の鉄骨は光工廠の鉄を利用してかけられたもの。
大津島の回天記念館は
日本海軍の特攻兵器「人間魚雷」は1944年11頃から実戦配備した。潜水艦に4隻余りの特攻兵器を
乗せて敵の戦艦に近づき1人で運転して戦艦に体当たりする。連合軍からは大変怖がられていた。
一度出撃すれば、攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。出撃は148基、戦果はあまりなし。
戦争中は軍事機密であったために詳しい内容は知られていなかった。145人が帰らぬ人となった。
館長さんからいろいろな講演もあり、資料では歴史と家族への遺書、手紙など多数がある。
この日は東京から国家公務員3名が周南市に研修に来ており、一緒に行動をとりました。
この施設に行っていない方は、ぜひ見学してください。
国は、「今後2度とこの愚かなことを繰り返してはいけない。」私は胸が痛みました。




2017年5月4日
市内ではFFの祭典の中日ですが、私は今回6回目になる「平和公園から
出汐2丁目にある被服支廠約4qを歩く」ピースウオークの先導者をしています。
今日、私の担当グループは人数は少なかったが第一県女の碑、さくら隊の碑、峠三吉が住んでいた
平和アパート、旧陸軍被服支廠, 今日は特別に3階まではいることができました。
同建物は築後103年になりますが、当時軍は金目を考えず頑丈な建物です。
この建物で働いていたと言う99歳の方に当時の話を聞きました。
軍の「出来上がった衣服が保管されていた倉庫」だそうです。
皆さんもフラワーの関心だけでなく、平和への思いを考えてほしい。1日でした。





2014年6月11日
福山ホロコースト記念館  アンネフランクの像

この記念館で、第二次世界大戦中なぜ600万人もの
ユダヤ人が「うち 子ども150万人」の人々がナチスから
大虐殺を受けたのか。
15歳9ヶ月で亡くなったアンネフランクの日記は世界で
読まれていますが、残念なことに1月にはこの本が破られる
事件が発生しました。
「父オットー氏」は  ○○○ 平和を作り出すために、何かを
する人になって下さい。」の言葉があります。
この言葉を大切にして、これからのピースボランティアの活動を
続けます。





1962年撮影
今はこの角度からは原爆ドーム市民球場の照明も見えません。


原爆の子の像
1958年5月5日に完成



二度と繰り返してはいけない広島、長崎


2012年10月26日の活動のとき 「広島を忘れてはいけないので、時々
この資料館に来ています。」といわれる東京都八王子市の若い女性に
 会いました。資料館の中をゆっくりと原子爆弾被害の資料を見ておられました。
この言葉を聴いたとき「原子爆弾の悲惨さ、戦争の愚かさ、平和の大切さ、命の大
切さ」を共感でき、心に残る活動一日でした。

2013年5月4日平和公園から比治山まで約2キロをピース・ウオーク
に参加した。5月3日.5日は平和資料館で4日連休の内3日はボランティア
に参加した。



2012年11月1日    シュモーハウスについて
米国のシアトル市出身 フロイド・シュモーは広島・長崎の原子爆弾投下
に心を痛め、家を失った広島の人のために家を建てる活動を昭和24年46歳ごろ
に始め昭和26年までに20の住宅と1棟の集会所を建設し、この中の1棟が今日ま
で残り、地域の集会所として利用されたが、高速道路整備のため約40m移動し
保存されました。
このハウスには原子爆弾で破壊された広島に暖かい手を差し伸べてくれた
外国人の展示もされています。
マルセル・ジュノー、レイノルズ、バーバラ氏などの展示があります。
私たちはケシテ忘れてはいけません。
私は、このハウスでも活動をすることになりなした。


フロイド・シュモー氏



2013年8月20日
アメリカに居りながら広島への原子爆弾で心を痛めた
シュモーさんが広島に来て家を建てた心の優しい物語



2012年11月1日  20:15

2012年7月7日
1945年8月6日8:15爆心地から約1kmのところを走っていた
電車に乗り戦前、戦中、戦後の比治山、宇品方面の歴史を
研修しました。

50人が貸切電車で宇品に向けて出発
日清戦争が始まった明治27年には、広島まで鉄道は開通
していた。また広島の宇品港も整備されていた。この間約5kmに
17日間で鉄道の工事を行い軍事物資を戦地に送り込んだ。
その後、広島は日露戦争、日清戦争、太平洋戦争で軍都になる。



1750mの多聞院の鐘楼、1945年当時鐘はなかった
原子爆弾の爆風によりハリが割れた。
1949年に鐘は釣られノーモアヒロシマと書き入れ
朝8:15に平和の祈りこめて鳴らされている。


2008年7月5日


昭和20年8月6日8時15分原子爆弾爆心地から約1キロのところで原子爆弾で被爆した
路面電車に乗り当時のことを体感しました。

路面電車で広島駅から己斐駅を折り返し


この651型が被爆電車今も広島市内の交通機関として活躍しています。被爆電車は
現在この車輌ともう一台が市内を走行しています。
当時は、13歳14歳の女学生が運転手として働いていたそうです。昭和20年8月5日の夜は
空襲警報で車内の電灯を消して、解除が解けるまで路面に停車して待たなければならなかった
少女達の気持ちが話されました。また、6日原子爆弾炸裂時の路面電車の悲劇も胸が痛く聞きました。
当方の知り合いに6日同じように路面電車の運転を広島市舟入町約1500mで行っていた女性が
います。



650型電車の由来

車内で案内してくれる今○さん


昭和20年8月10日か11日ごろ撮影
爆風で線路から飛ばされている。この電車の運転も13歳14歳の少女
乗客は折り重なるようにして焼けていたそうです。



いまはのどかな風景

1945年を語るのシンポジュウムでは17歳で広島で原子爆弾を体験された方、大阪で14歳、学徒動
員法で空襲の中を逃げ惑う体験をされた方、岡山で12歳空襲で両親とはぐれた体験をされた方、
昭和20年4月から沖縄県が戦場化しその様子を継承されている方の話を聞く機会を得ました。
戦争になれば皆同じ苦しさを味わうことを学び今後の活動に活かします。


2010年7月3日    被爆電車に乗る
広島駅から55人は、651型の市内電車に乗り65年前の広島の市内の軍都の説明を受けながら
江波まで約40分、ここで雨になりました。陸軍の実弾射撃場を見て、これは本土決戦に備えた陸軍の
体制準備と聞きました。元平和公園にあった、慈善寺に行く、爆心地から約300mに有った慈善寺は、
爆風で倒壊、火災で全焼した。現慈善寺には原爆の爆風で頭部が折れたものが2体有りました。原爆
の衝撃波、爆風の強さが改めて心に残りました。



2012年2月6日
長崎に行き戦前の日本が東南アジア、特に韓国、中国の人に与えた加害責任について学び、この
過去のこと知りヒロシマの平和公園で平和の大切さを説明することに意義があるとアラタメテ感じま
した。

ランタン祭りの会場は人でいっぱい。中華街の食堂も待つ客でいっぱい。

 

 
爆心地、真上からの爆風で木が倒れていない。   爆心地は埋め立てしたので堀お越しし、
                         1945年8月9日の遺品があり人の生活状況がわかる。
広島でも平和公園の一部を堀をおこして、平和公園以前は人の住居だった証しを見えるように
してほしい。

 

 
夜のランタン祭りと          昼間のめがね橋







2009年8月23日
長野市松代の地下壕を見学
太平洋戦争末期、軍部は本土決戦最後の拠点として、極秘に大本営、政府各省等を松代の地下壕に
移す計画をして、昭和19年11月11日から翌20年8月15日まで約九ヶ月間、当時の金で約2億円の巨費、
延べ300万人の住民、韓国人の人々が強制的に労働させられた。
松代には、3ヶ所の地下壕があり、大本営天皇関係皇后関係施設「今は地震観測施設として利用」と
政府関係等

天皇家の建物施設   


政府関係等壕の入り口と内部




2009年5月3日  毒ガスの島大久野島を見学した.貸し自転車があり便利




                              今はウサギの天国  当時は実験にさらされた。




                      ウサギの掘った穴












2008年10月26日27日   
父がミャンマーで戦死した遺児が、ミャンマーを訪問したことをきっかけで全国から
滋賀県彦根市に集いました。とても楽しい2日間でした。もう1日旅は有りましたが
当方はここで失礼しました。

2008年10月27日

                                                     
護国神社の隣に

京都舞鶴の引揚者記念館でシベリアの悲惨な抑留生活のジオラマを見ましたので
この碑の大切さがよく分かりました。二度と繰り返してはいけない悲惨な戦争と平和の大切
さを感じる碑です。



この碑の前に立ったとき戦争遺児でしか理解できない思いが心を走った
また、胸が熱くあつくなりました

二度とこのような詩を後世の人達に味合せてはいけない。


母子が強い絆で結ばれ、やさしい母親の子供へのまなざしと親子で未来に生きる
決心が母親から感じられる碑です。
父親のいない母子の私たちはこの前で、63年前の終戦当時に帰
りハンカチで目を押さえ、ジィーと見つめる姿も有りました。
二度と繰り返してはならない、マサニ私達の戦後の姿なのです。

皆様も機会があればぜひともこの二つの記念碑の前に立ってください。

これらの碑の前に立つと、しみじみと平和の大切さ、戦争の愚かさ
が心に入込み、私には平和活動の大切さが一層強くなりました





2007年11月26日長崎へ
昭和20年8月9日米軍の原子爆弾の投下目標は小倉市でした。当日約2時間にわたり
市の上空で投下地点を探しましたが雲か煙の関係で原子爆弾の投下にはいたりませんでした。
その後燃料のある限りで第三の目標である長崎市に向いました。
投下の目標は、県庁、市役所、三菱造船などがある所でしたがあいにく曇りだったので3.3キロ
北の松山町の上空で一点晴れているところで原爆を投下しました。長崎市のほうが広島市より性能的
には威力が大きかったと言われています。


2007年11月26日27日  ヒロシマピース・ボランティアの仲間20人で長崎に研修旅行に
行ました。長崎から30人もの皆様が対応していただき長崎の原子爆弾被害のことやまた、
日本が戦争中に韓国、中国、などの国民に加害した状況も研修することが出来ました。
長崎の平和案内人の皆様とも交流と夜の稲佐山から市内の展望、夜のめがね橋を
楽しんで帰りました。


1945年8月9日11時2分 原爆投下の時間
長崎大学医学部前


 

         左が爆心地付近松山町    右は爆心地この上空500メートルで原爆炸裂

林 重男さんは昭和20年10月5日から広島で撮影後、長崎に移動して撮影
広島では原爆ドームを中心とした写真がとてもきれいです。林さんは映画の
関係の仕事が本職でした。けれども2ツの原爆の後を見られてからは核のな
い平和運動に取り組まれました。
長崎の爆心地  松山町
米軍の投下目標はここより、3300メートル南の長崎県庁を目標としましたが、あいにく曇り
のため晴れていたこの地点に投下した。地上500メートル上空で炸裂した。
もし、目標地点に投下なら被害は甚大だと言われています。



  
左写真の中に赤い印がある付近防空壕                   
この付近の防空壕で少女が生存していました。


  

 
中華街入り口

 
  

クスの木が焼けましたが右の木後ろ側から9月の終わりに芽が出たそうです
人々は生きる喜びを与えてもらったと伝えています。
現在も2本のクス木は青々と茂っています。樹齢は400年と言われました。

広島では9月に咲いたカンナの花、被爆し現在も生きるアオギリと同じ。




30年掛けて建設したものがわずか20年後には廃墟になった。
この建物の被爆跡を残すか、残さないか相当論議になったようです。



上の写真の下の中央部にある物ででしょうか。
原子爆弾で吹き飛ばされた屋根の一部
もともとここは川だったそうです。



現在の浦上天主堂




    
「如己愛人」この言葉がとても心に残ります


長崎を訪れたら是非この資料館を見学してほしいものです。

日本は過去に韓国、中国、アジアの国々で何をしたのか。
写真を見ると胸の痛むものばかりです。
原子爆弾の投下により長崎で何が起きたのかを学ぶことも大切ですが、
この資料館を見学して「戦争になると人間はどうなるのか。」を勉強する
事も大切でしょう。

  




第二次世界大戦の戦後がもたらしたもの

2007年4月29日から5月1日までの舞鶴市を旅行しました
舞鶴市引揚記念館は是非見学してほしい
   
       


父は昭和18年に、ここ舞鶴港から戦地ミャンマーに行きました。
でも、帰りませんでした。

南部のタボイで1945年11月11日兵站病院の異国で逝きました。

朝早く日の出頃舞鶴の海に一人立ちました






[岸壁の母]  の歌謡曲がとても有名ですが、この地に立つと戦地から息子や主人が
今日は帰るかと待つ母や妻は子供を連れて待った事を思うととても胸の詰まる思いです。


今も残る弾薬庫





ミャンマーは当方の父が1945年11月11日命をおとした国です。60年ぶりに慰霊として訪れました。
2005年12月1日から   10日までB班として参加しました。

ミャンマーの旅  現地人の純真な心に触れて
車は日本車が90%占めている、中古車が多く、タクシー、バスは日本のそのままを使用している
生活の中で都市と田舎の格差を強く感じました。

   

       
家族の昼間のひと時
                           


   
2005年12月4日  モルメーン
この日は、午前5時45分
午後10時30分解散
泰面鉄道犠牲者の慰霊碑前

2005年12月4日
当方を含め3人の慰霊祭を行った

慰霊の歌として唱歌「里の秋」を歌いました。でも里の秋は、もともと昭和16年に
「星月夜」の戦歌として作詞されたものが、昭和20年12月24日NHKの「外地
引揚同胞激励の午後」の番組で作詞家の斎藤信夫が歌詞を3番までとし、3番の歌詞を変え
題名を「里の秋」として動揺歌手川田正子が歌い、全国から大きな反響があった。


タンビュゼア
当方ともう一人の方は、ここから200キロ南のタボイが戦没地
タボイはタイ国バンコクの真西に当たる



日本人戦没者墓地




        
小学校の先生と子供                  
手を組むのは自分からは手を出しませんの意味     



  
笑顔の女性 顔には日焼け止め   日本からの折り鶴を手に  とてもかわいい人達


慰霊祭を見学する地元の人々.にささげた折り鶴を配るとトテモ笑顔で
羽を広げて欲しいと集まる風景はトテモ和やかでした


後ろの川はシッタン川 60年前日本軍が川を渡り撤退する雨季時に数千、万人が
命を落とし河口に浮いたと言われる




寝釈迦



世界で一番大きな寝釈迦  183m
ウィセントーヤ現在建設中




金色に輝く  シュエダゴンパコダ 帰途の夕方


サルウィン川   日本の援助で3000メートルの鉄橋がかかり鉄道と高速道が整備
モルメーン市の丘からここでも慰霊祭を実施   とてもキレイな都市です。
ここに広島赤十字病院の従軍看護婦が昭和19年から終戦まで勤務した場所です。
2007年に当時赤十字から派遣されていた、看護婦さん3人から戦時の情況を聞くことが
できました。
今も当時の悲惨な状況が残されています。

  

戦争当時の日本の蒸気機関車










                        

2005年2月20日21日

ヒロシマ ピースボランティア金曜日グループの鹿児島県への研修旅行
に参加しました

2日間大変寒く高い山には積雪があり、平地でもあられや雪、寒風が迎え
てくれました。地元の人もこの時期珍しいと話していました

片道の燃料と爆弾を積んで相手の戦艦めがけて飛び立った少年飛行兵
太平洋戦争末期に軍が行った「特攻隊」の悲惨な悲劇を心に留めました

今後のボランティア活動に生かせるでしょう。大変心が痛みました
鹿児島方面旅行の時には、一度訪ねてみてください


  
軍指定の富屋食堂で特攻隊員から母と慕われた鳥浜トメさん後列中央
笑顔の隊員ですが、出撃時の少年の顔はとても悲愴だった
富屋食堂は現在ホタル館として当時の史料が展示してある




隊員は、開聞岳922mを目標に飛び越えて沖縄の海に向かった
この館には、出撃隊員の写真、遺書、遺品、使用した航空機
が多数保存されている。

10代の隊員の遺書に「お母さん、お母さん、おかあさん。」と繰り
返し「迎えに来て欲しいとおもわれる」ものを肌に感じました。

出撃前夜には、毛布に包まって「シクシク」泣いている隊員もいた
そうです。若い隊員の気持ちを理解します。


知覧町の薩摩藩武家屋敷
  

  
250年前の薩摩藩武家屋敷跡がそのまま保存
門構え、石垣などで身分がわかります
現在知覧町は、お茶の葉栽培が日本でトップクラスで有名
 
    
この碑は水上飛行機で特攻として飛び立った人たちの慰霊碑 指宿市

1945年3月から6月20日過ぎまでの戦争の作戦の一部を心痛く学びました



2006年5月6日から8日まで
沖縄の戦跡を訪ね、初めての沖縄観光
戦跡ではとても胸が痛み涙が溢れました。
今はたくさんの人が訪問をしていますが、当時はジャングルで身を隠すところとしては
都合がよかったのでしょう。結果はあまりにも悲惨です。




  
7日
  
旧海軍指令部壕内部


喜屋武岬  


喜屋武岬この崖から飛び降りた住民もいたそうです。また、
崖は海上からの激しい艦砲の射撃で崩れたもの


1945年3月23日沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の生徒
222人教師18人は南風原の沖縄陸軍病院に配属されました。
学徒たちは激戦からの負傷兵の看護、水汲み、死体処理におわれる。
1945年6月18日解散命令が発令され米軍が包囲する戦場を逃げ惑う。
240人中136人が命を落としました。生き残られた一人から当時の状況を
聴きました。

  


糸数壕  
  
糸数壕ここはライトと案内人がいないと入れない
          左は井戸
全長270メートル洞窟
壕の天井から水がぽとぽと落ちるなどとても人の住めるところではありません。激しい砲弾で
振動して天井の石が落ちたところもありました。かまどなども当時のものが残してありました。
1945年8月22日米軍の投降勧告によって住民約200人と負傷兵は壕を出ました。
終戦一週間後のことです。


琉球舞踊館  うどい一日6回公演


  
 
万座  年間2人ぐらい落下事故があるそうです





 山口県 角島大橋 1780m平成12年11月開通とても気持ちのよい風景
30年前広島からトラックにモーターボートを積んでこの場所に魚釣りに行った
ことを思い出しました。



    
私の平和活動への参加   2020年5月29日
私は、2004年4月から2020年2月28日まで17年間「17年間」に広島原爆資料館で
735回の日々のボランティア活動を参加しました。これは1945年8月6日8:15分に
原子爆弾によって広島で何が起こったのかを来館者の皆様に知ってもらうため活動を
続けました。
残念ながら2020年2月29日から資料館は新型コロナの為に休館になりました。
私の活動で年50回を超えたものは5回以上もあります。
活動の規定は、月2回以上1日10:00〜16:00です。

      この間に多くの皆様に出会うことができふれあいを楽しむことができました。
広島で何が起きたか、世界中の皆間に原子爆弾の恐ろしさを知っていただきたい。


  
  
          竹炭
作り

   竹炭の講習を受けました。最近特に脚光を浴びていますように、講習会には多くの方が参
   加されて驚いています。
   竹炭はもちろんのこと、竹酢がいろいろと利用価値があります。田舎の猪、町では猫などを
   近寄らせない、など、野菜などではたくさんの利用価値があります。
   
      ドラム缶の窯と煙突                    窯を支える耐熱レンガ        
      

          窯の外側に耐熱の砂を入れます
           ほぼ完成  3. 5
      
       

      窯の内側と煙道                      正面から3月14日完成
            
          これから煙突を2m分継ぎたすと完成。             


   
                    火入時3月28日10:30       炭化中 12:00頃


     
完全に火を止める 15:00頃             4月2日窯開け炭ができています 成功

これで4回目の窯だし6月2日 約50センチ筒はビールを飲むコップに


                                              
    今から使用方法を勉強し、澄み切った田舎の夜空を楽しみます。
先日月を観測しましたが、クレーターなどがはっきり見えたので改めて土星などを観測したいと燃えてます。
けれども、妻にはやっぱりと言われています。地球はどんどん動いていますので時間 を置くとすぐに視野から星が消えます。


 

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