隣淋凛(りんRinリン)

平成18年3月31日をもって停年退職しました。
リタイア1年生。
毎日日曜日を如何に過ごすか、
隣り近所との付き合いにうまくデビュー出来るのか、
はたまた疎外感に苛まれて淋しく過ごすのか。
いやいや、背筋を伸ばして凛として生きていくのか。
その痕跡をヘタな川柳とエッセイで綴ります。

遺言だ! もめる財産 何も無い (しあわせもの)

 遺書を書いた。東京に一週間ばかり一人で出かける事があり、その折に遺書を残しておいた。家族にも「遺書をここに置いて行くから何か有ったら見るように。死にに行くわけじゃ無いから心配するな」と伝えた。
 前々から「遺言(いごん、ゆいごんとも言いますね)」などを残した方が良いかなと思っていたが、遺言となると、全文自筆で書くか公正証書とする必要があり、なかなか面倒だ。自分の思いを書くのだから、今回は「遺書」とした。遺書ならばパソコンで作成して、書名すれば出来るからね。
 財産と言っても小さな家と土地と、わずかな金融資産だけだから、自分が死んだ後家族でもめる事は無いだろう。これも幸せの一つですね。ただ問題は、わずかな預貯金といっても、郵便局や銀行、信金、信組など、仕事の付き合いで作った口座があちこちにあるのだ。一つ一つは残高数千円の口座だが、みすみす放棄するのはもったいない。それらを思い出しながら一覧表を作成した。負けてばかりいるが、競馬の電話投票の口座まである。
 自分が死んだ後の葬式のこと、墓の事、献体のこと、もし治る見込みの無い病気になった時の延命治療の拒否など、結構書くことは多いのだ。娘に対して伝えておきたいメッセージもあるが、今回は取り合えずを作成した。今後は何度か定期的に更新することになる。
 書店で「その死に方は、迷惑です(本田桂子)」の本を見つけ購入した。読んでると遺書が無いと、残った家族が面倒に巻き込まれる事は多々ある様だ。例えば銀行によっては本人の死亡情報が入ると、口座を直ちに閉鎖する事もあるようだ。生活の総合口座などがそうなると、差し当たり月々の支払いに支障をきたす。閉鎖解除は遺書などが無いと、なかなか面倒らしい。
 こんな事も書いてある。「全財産を○○に相続する」と遺言を作ったが、その事を○○が知って豹変する事もあるので、注意が必要だというのである。こうなると遺書が仇になる。また子供がいない夫婦の夫が死んだら、普段顔も見たことも無い夫の兄弟がぞろぞろ出て来た。なんてのもある。(2007.6.21)


ボーナスの 響きはうれし 実入り無し (全額査定)

 テレビで「ボーナス過去最高額」と聞いて「そうか、ボーナスだなァー」と、嬉しい様なむなしい様な気分である。リタイアしていても「ボーナス」の言葉に反応するのは、サラリーマンの後遺症だろうか。ただ、全額査定された様なものだから、くやしい気もするのだ。
 ボーナスにはほろ苦い思い出がある。
 入社して初めてのボーナスであったと思うが、当時は現金でもらっていて、いつもとは少し多い金額の入った封筒を貯金通帳に挟み、持ちなれないカバンに入れて帰路についた。バスの中でうとうとして危うく乗り過ごすところであったが、あわてて降りた。夕食の時になってカバンをバスの中に忘れた事を思い出した。幸い終点の営業所が近くであったので電話すると「ありますよ」との事で一安心した。
 翌日取りに行った。係りの人が「中身を確認してください」というのに、通帳があったことに安心して「大丈夫です。あります」と受け取った。帰って再度確かめると、通帳に挟んでおいた現金封筒だけが無いのだ。確認して受取った以上、文句の言いようがないので「しょうがない」と諦めた。「あの金で誰かが少し良い気分になれたら、それで良いじゃないか」と、お金を落とした時などはそう思うようにしているのだ。
 もう一つ思い出した。
 これも独身時代のことだが、現金でボーナスをもらって「飲みに行こう!」と、友人と街へ繰り出した。したたか飲んで、翌朝背広のポケットを調べるが封筒も現金も無いのだ。意気消沈して会社に行くと、一緒に飲んだ先輩がニヤニヤしながら「ホラッ」と封筒を差し出した。エッ!とビックリしていると「お前覚えていないのか。自分は危ないから預かってくれと言ったの」そういえばかすかにそんな気がする。その時は自分の金でありながら、ものすごく得をした気がした。また、良い先輩だったなァー。古きよき時代であった。(2006.12.13)

現役に タイムスリップ 一人旅 (ノスタルジック)

 松江に日帰りでドライブしてきました。松江は現役の頃何度もお客さま訪問した所です。営業のテリトリでしたから。特に目的が有った訳では無いのですが、秋晴れの天気についフラット「久しぶりに行ってみようか」となりました。
 54号線を北上します。三次を過ぎると布野に入ります。最近はいたる所に道の駅が有りますが、布野にも大きな施設があります。赤名トンネルを過ぎると島根県です。仕事で行く時も良くここらで休憩しました。
 一人で運転していると現役の頃をいろいろ思い出します。「今日訪問するお客さまの順番はどうしようか」とか「始めはどんな話から持っていくか」とか。また「そろそろ三刀屋の桜が咲くなあ、緑の桜御衣黄(ぎょいこう)を帰りに見ようかな」「帰りはどんな気持ちでこの道を運転しているだろうか、うまく行けば良いが」など・・。フッと反対車線を、帰宅を急ぐ現役の自分にすれ違った様な気がしました。少し疲れた顔をしているが生き生きしている様にも見えました。
 秋から冬の時期には出張の帰りは良くズワイガニを土産に買いました。自分も大好きですが、娘の好物でもあります。勿論2,3千円もする高い物ではなく、松江のサティで足のもげた様な安いのを買い求めます。だから何時もクーラーボックスを積んでいました。娘もだんだん口が肥えてきて、一端に「これがカニだ、と言うのを今度買ってきて」なんて言われたりしました。
 さて、頓原に入ると紫陽花を道端に沢山植えている所がありますが、今はススキの穂が逆光に映えています。一福と言う蕎麦の美味しい店もあります。仕事の時は朝ここを通過するので、なかなか食べるチャンスが有りませんでしたが、ここの割り子蕎麦は蕎麦好きの自分にはたまりません。出雲空港に行く途中にも「たまき」と言う美味しい蕎麦屋もあります。今日はここで食べる事にします。そうそう掛合、今は雲南市ですが、焼きサバが有名ですね。以前は500円と千円のがあって、千円の方を絶対買いなさいと、松江営業所の者に言われたものです。今は木次の道の駅でも売っています。750円でした。
 宍道湖に出ました。今日は波も無くおだやかです。宍道湖の七珍って何だったかな。確か覚え方があったよな。「ドスコイじゃなくてハッケヨイでもないな」そうだ「スモウアシコシ」だ。スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シジミ、コイ、シラウオだったと思うが、違っているかも。
 今日はアゴの野焼きとカニミソを買って帰ろう。これで一杯やることにしよう。(2006.10.18)

屁で返事 昔は俺で 今は妻 (阿吽?)

 断っておきますが、我が家のことでは有りませんぞ。あくまでも創作ですよ。
 テレビで昔のアイドル榊原郁恵が出ていて面白いことを言っていました。「最近頭に来た事」との話で「私が大事な話をしているのに『ブッ!』とか『ブッブッ!』とかで返事するのはやめてください」と言っていたので思わず笑ってしまいました。旦那さんは渡辺徹だから、さもありなんと思うのです。徹さんもう少し年をとったら逆転するのですよ。
「おい、ハワイでも行くか」
「ブッブッ!」
「それではオーストラリアはどうだ」
「ブッ!」
なんてことになるかも知れないよ。

 話は変わって、何時もの様にスーバーに家人の買い物に付き合いました。最近はリタイア組とおぼしきカップルが一緒に並んでカートを押している風景は珍しくありません。その時もその様なカップルなのですが「オヤ?」と思う光景がありました。並んでカートを押しながら奥さんの右手を旦那さんが左手でしっかりと握っているのです。80歳に近いカップルの様です。奥さんは少し足が不自由のようでしたので、そのせいだとしても、少なからずショックを受けました。自分などは一切買い物は家人まかせですし、一人でスタスタと店内を歩き回りますからね。
 失礼ながら少し観察させて頂きました。果物のコーナーでどうやら奥さんは桃が食べたいようです。旦那さんは2つ入りのパックを手に取り奥さんを見ますが、無言でそのパックを戻し別のパックを取ります。今度はOKが出たようです。カゴに入れました。阿吽の呼吸ですね。目で会話をしているのでしょうか。
 自分は「今晩何にしようか」と問われても「何でもいいよ、それより早くセーヤ」ですから会話になりません。献立を考えるのは結構大変のようですね。それでも最近は一人でスタスタ店内を歩きながら「今日はメバルを買うだろうな」とか「鯛のあら炊きかな」と予想をするのですが結構当たります。今年は鮎が豊漁の様ですね。型の良いのが一匹100円です。「今日は鮎飯だろう」と予想しました。鮎飯は自分も好きですが、娘の好物なのです。(2006.8.22)

芭蕉旅 たどるや我も 文字の旅 (老いの細道)

 先日「えんぴつで奥の細道」を買い求めた。最近ちょっと話題になっている書籍である。散文奥の細道をえんぴつで文字をたどりながら、芭蕉が目にし、耳にしたものを追体験してみようと言う訳である。
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」で始まる東北から北陸の旅を決意した芭蕉は、この時50歳前後のことであるから、今の自分とは10歳も若い訳だが、時代をかんがえるとその差はないだろう。芭蕉庵を捨て、深川を後にしたときは、旅先での死を意識していただろうし、又同行した曾良さんも同じ気持ちであったに違いない。実際この旅を終えた後「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を残して永眠したのが51歳だから、体力的にも精神的にも相当に消耗したことことだろう。
 今は交通機関も色々あるが当時は徒歩でのことだから、1日20Kmがやっとだろう。そんな旅を百60日も続けたのだから昔の人はすごいなあ。
 思い立って自分もと、車に寝袋ひとつ積んであてどもない旅に出立したものの「さて何処に行くか。今日は何処に泊まるか。野宿は不安だし」なんて考えているうちに、我が家へUターンする体たらくである。もともと計画の無い行動に慣れていないのである。これも会社勤めの後遺症なのだろう。せいぜいえんぴつで擬似体験するのが我が老いの細道か。
 さて、楷書で下書きした文章をえんぴつでなぞる訳だが、これが思いのほかうまく行かない。元来字は下手だし、書痙気味であるから、下書きの線から外れるは震えるはで、最初は消して書き直しをしていたが何度トライしてもうまく行かない。一向に先に進まない。上手に書こうなどと思うこと自体に無理があるのだ、と割り切って気にせずに続けている。(2006.7.22)

どっか行く? 私は友と 旅行する (リタイア1年生)

 兎も角リタイア1年生がスタートしました。庭の改造をしたり、プランターで野菜作りを始めたり、勿論ゴルフをしたりと結構忙しく過ごしています。
 さて、家人との関係はと言うと正直戸惑いがありますね。こちらは特に決まった用事は無いので、毎日の買い物に車を出すのは何のためらいも無いのだけれど「今日は一人で行ってくるわ」と言われて「アッソウ」としか言えない自分があります。
 先日リタイアの先輩と飲みながら話をしました。
「どうですか。生活の変化は」
「まず、毎朝会社に行くストレスが無くなりましたね」
「そのストレスが何処に行くか分かりますか」
「ストレスの行き場ですか、考えたこと無いですね」
「そのストレスは奥さんのところに行くんですよ」
 自分の毎朝の通勤のストレスが、毎日亭主が家にいる女房のストレスに変化するのですね。さすが先輩です。
 退職を前にして、会社でセミナーがありました。その講師の方が言っていたことを思い出しました。
「皆さん退職したら何をしますか。アンケートを採ると旦那も奥さんも『旅行』が一番です。そこで皆さん『よし、ヨーロッパでも旅行するか』と思うでしょ。でもちょっと違うのですよ。あなた方は『女房にも苦労をかけたから、一緒に行こう』と思うでしょ。奥さんは友達と一緒に行きたいのですよ。旅行に行ってもあなた方は何もしないでしょ。家にいるのと同じですよ。それに引き替え友達と行くと楽しいのなんのって、分かる?」
 その時は「ハハハ、そうかもね」と何となく思っていたけど、現実そうなのですね。会社一本槍だったから出来るだけ一緒の時間と思う事が勘違いなのですね。相手は如何に自分一人の時間を作るかですから。
 意識改革が必要です。「ちょっと出かけてくるから」と、当ても無いのに出かけることも、時として必要ですね。(2006.7.10)

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