今年も12月に入り玄関先にイルミネーションを付けた。イルミネーションと言ったってLEDランプ150球を飾ったにすぎない。最近は青色のがあって、ほんの少しだがクリスマスの雰囲気が味わえる。
点けたり消したりするのが面倒なので、光センサーが付いたコンセントも購入した。夕方6時過ぎには点灯する。チカチカと色々なバリエーションで点灯する。
ところが、夜遅くなると家人が電源の元のコンセントを外してしまう。家人としては「誰も見ていない時間に、電気代がもったいない」と思うのだろうが「高々20Wの電気を一晩中点けたってたいしたことないじゃないか、そんなことより見ていないテレビを切れ!」と頭に来て怒鳴る。朝早く新聞を配達してくれるお兄さんが、チョットでも気分が和んでくれるのであれば、それで良いじゃないか。暗い中に小さな光でも暖かく感じることがあるだろう。
現役の時、冬はまだ暗いうちから家を出ていたが、そんな時、階段を下りるやいなや玄関の電気をバチッと切られて「バカヤロー!」と思わず叫びそうになった。せめて角を曲がるまで待てよ、と言いたくなる。
京都の人は玄関を入るとき、後ろの人が通り過ぎるのを待って戸を閉める、と聞いた事がある。後ろの人が自分の家を訪ねてきた人かもしれないし、そうではないとしても目の前で扉をピシッと閉められるのは気分の良いものではない。
イルミネーションから話が飛んでしまったが「モッタイナイ!」も良いが「ほんの少しの浪費」も「ほんの少しの心のゆとり」も忘れてはいけないと思うのです。(2007.12.19)
今年も沢山メダカが生まれた。現在100匹以上いる。睡蓮鉢も増やして分散して飼っている。ある日生まれたメダカを見ていると、少し大きめの真っ黒いのがいる。我が家のメダカは赤い緋メダカと普通の日本メダカの混血だから、赤っぽいのやら黒いのやらまだら模様のやらがいる。でも少し体形が違う様だ。
それから毎日観察していると、どうやらメダカでは無い。コイの様にヒゲが無いのでフナの様に見える。でもどうしてこんなのが生まれたのだろう。まさかメダカの親から生まれるはずが無いし。色々考えたが可能性は一つだ。
今年もメダカの産卵のためにホテイアオイを購入した。そのホテイアオイにこのフナらしい魚の卵が付いていた。これしかない。それにしても良く孵化したものだ。たった一匹だけ色々な偶然をすり抜けて生まれてきた。
メダカよりも大きくなるスピードが違う。そうこうしていると、鱗が所どころ黄色く変色してきた。最初は皮膚病にでも罹ったかと思ったが、見る見る広がって色も鮮やかな橙色になってきた。こいつは金魚だ!
同居しているメダカを食べるかと思いきや、そんな様子も見えない、むしろメダカに追われたりする。ただ、餌をやるとメダカもこいつも興奮してむしゃぶりつくが、そのとき餌と一緒にメダカが犠牲になる。吐き出そうとするのだが、何しろ頭から飛び込んだメダカは逃げられない。こいつも何がなんたか分からずに、口をパクパクするばかりだ。(2007.7.28)
朝いつもの様に新聞を取りに行くと、玄関の階段の下で植木鉢が割れているのに気が付いた。多分狸がまたひっくり返したのだろうと思った。ところが、夕方チャイムが鳴り出てみると、新聞の販売店の者で「今朝植木鉢を割ってしまって」と、洗剤3個持ってお詫びに来たのだ。「黙っていれば分からないのに、良くこられましたね」と、まだ若いお兄さんの勇気に感心しました。話を聞いてみると、配達員が誤って植木鉢を割った事を、帰って販売店の者に告げて、販売店の人が謝りに来たと云うわけだ。配達員の勇気もえらいけれど、それを聞いた販売店の者がうやむやにしなかったことが、すばらしい。最近に無い嬉しい気分になり、頂いた洗剤2個を配達員と誤りに来たお兄さんにと「ありがとう」と渡した。始めは受取ろうとしなかったが、こちらの気持ちを察して受取ってくれた。
自分はプラスチックが嫌いで、植木鉢も陶器のものにしている。それも階段の周りに所狭しと置いている。当然蹴飛ばせば直ぐ割れるのは分かっているが、それもまた仕方が無い。実際家人もよく割るし自分もしょっちゅう失敗をする。
配達員の邪魔にならない様に少しだけ整理した。(2007.3.23)
最近業務用スーパーなるものがあちこちで開店している。量が多いのが難だがとにかく安い。
今日も家人に付き合って行くことになった。本日の目玉商品はサラダオイルらしくて、普通なら200円以上するらしいのだが、88円とのこと。でも一人一本ということで自分も頭数で協力することになる。
買い物に最後まで付き合う気は無いので、サラダオイル一本を持ってレジに行く。まだ開店まじかでレジも空いている。隣のレジではカートに男の子を乗せ背中には赤ん坊を背負った奥さんが、サラダオイル3本を清算している。子供も赤ん坊も立派な頭数だ。自分も88円払って外に出ようとしたところ、先程の奥さんに突き飛ばされる様に追い越された。買い物袋を車に乗せるや、再び入り口に突入していった。買い忘れた物が有ったのだろうと思いながら、何となくついて行った。奥さんはサラダオイルの所に行き3本カートに乗せるとレジに向かった。そうか、なるほどナアー。買い物上手!たくましい!ガンバレ!と感心した。
サラダオイルの売り場で注意して見ると「500円以上お買い上げのお客さま一人につき・・・・・」のカンバンがある。となると自分の行為はルール違反になるが、レジでは何も云われなかったナアー。風采の上がらないオッサンの事だから大目に見たのだろうか。お客さまあっての商売だからか、なんて思っていると、先程の奥さんがまた現れた。今度はカートでは無く、カゴを手にもっている。男の子はどうやら車に置いて来たらしい。サラダオイルも少なくなってきたが、2本確保したようだ。合計8本か、スゴイ!と感激したがなんだか少し哀しくも感じた。
このスーパーの出口には休憩コーナーがあり、テーブルやイスがおいてある。自分のように連れの買い物が終わるのを待つオッサンには助かるのだ。30分は出てこないから本も読める。白板には何やら紙が一杯張ってある。印刷した絵馬のようだ。願い事を書いて貼っておくと店の人が神社に奉納してくれるのだろうか。「孫が遊びに来てくれますように」とか「孫たちが元気で暮らせますように」とか云うのが多い。そんな中に子供の字で「おかずかいがアップしますように」というのが有った。お母さんの買い物の手伝いで、晩のおかずを買うのが上手になりたいのかな、と思ったが、これは「おかずかい」では無く「おこづかい」の間違いと気が付いた。(2007.1.20)
夜中にガチャガチャと家の周りで音がした。どうせ猫がいたずらしているのだろうと放っておいた。翌日新聞を取りに出ると、門柱のフェンスが外れている。猫はこんなことはしない。家の周りを調べると、生ゴミのバケツがひっくり返っている。どうやら狸が侵入し、生ゴミを荒らして行った様だ。
以前狸に庭を荒らされたことが有ったので、侵入経路であろう門柱のフェンスの下の隙間を板などで塞いでいたのだが、今度はそのわずかな空間に体を入れて、上に持ち上げフェンスの蝶番を外した様だ。多分侵入したときはフェンスが少し開いて難なく入り込めたが、戻ろうとしたときは風か何かで閉まっていたのだろう。狸も必死で逃げ出そうとガチャガチャやって、何とかフェンスを外し逃走したと推察する。
狸も、これで懲りて近づかないだろうと、外れたフェンスを元に戻した。閉め忘れも無いよう寝る前にチェックをした。ところが、翌日同じようにフェンスを外して侵入し、生ゴミを荒らして行った。狸もフェンスの外し方を学習したのだろう。音も気が付かなかった。狸恐るべしだ。こうなるとしっかり補修が必要だ。(2006.12.24)
このところのガソリンの値上がりはどうだ。130円を超えたかと思ったら140円を突破した。原油の値上がりに歯止めがかからないので、まだまだ上がるのだろう。我々消費者としても少し考えないといけない。
ガソリンスタンドは昨年セルフに切り替えた。前に利用していた有人のスタンドは今年つぶれてしまったから、窓を拭いたり、ゴミを掃除したりのサービスではやっていけないのだろう。 ガソリンを入れるにしても何時も満タンにしていたが、ガソリンとて加重につながるので、2、30リッター単位にこまめに注油することにした。セルフだからできることだ。坂道を運転するのでエンジンブレーキを多用していたが、これは燃費が悪い様に感じるので、止めた。
それから最近アイドリング・ストップを始めた。 数年前から市内のバスが取り入れていたのだが、どれほどの効果が有るのか疑心暗鬼だったが、テレビか何かで「1回エンジンをかけても、5秒間のアイドリングに相当するガソリンしか消費しない」と言っていたのを聞いて、そんなものなのか、すると5秒間以上アイドリングをするということは、それ以上はガソリンの無駄遣いになる訳だ。これはやってみる価値はありそうだ。
また新聞に「10分間のアイドリングで100ccのガソリンを消費する」と書いてあった。
ちょっと計算してみよう。国道に面した交差点では1分以上も待たされることがあるので、1日3分間のアイドリング・ストップは出来そうだ。365日だと1095分で年間10.95リッターの節約になる。金額にすれば千4.5百円のことであるから苦労の割には大した事では無いかも知れないが、CO2の削減など環境に留意していると思えば出来るのだ。
最近はアイドリング・ストップが板についてきた。交差点ではシフトをパーキングに入れてエンジンを切る。信号が変わりそうだとエンジンをかけて、ドライブにする。これだけだ。サイドブレーキは使わない。今は夏だからエンジンを切ると直ぐに車内の温度が上がるが、これは家族の暗黙の了解である。エンジンを切ったり入れたりするとバッテリーがヘタリそうだが今のところその兆候は無い。さすがにトヨタ車だ。
交差点などで待っているときに、「ここで並んでいるトラックなど全部の車が実施したら相当な効果があがるのになアー」と思いながら秒数を勘定したりする。(2005.9.1)
夏祭りに行きました。近隣の町内会合同で盛大に行われます。小学校のグランドが会場です。ヤキソバ、うどん、焼き鳥、ビールなどの屋台や、バザーなど各町内会が工夫をこらします。舞台も作られて神楽や民謡踊りが行われます。今年はキングレコードの石沢みちこの歌謡ショーもありました。「もう一度ひろしま」「よがんす・可部」「哀愁かもめ」などを歌っている様ですが、正直知りませんでした。地方廻りの営業も大変の様ですね。
消防団も事故に備えて待機しています。万全です。会場には昨年の物故者の祭壇も作られていて「アーあの人も」なんて思いながら手を合わせます。最近は地域の結束が薄れてきて、この様な行事を行うのも難しくなってきていますが、なんとか続けて欲しいものです。
参加者の最大の関心は抽選会です。一等賞でなくても洗剤1個でも当たると嬉しいものです。(2006.8.7)
ストーンアートのセミナーに参加しました。土師ダムの近くに「四季の里」と言う美術館があります。美術館と言っても少しレイアウトや趣がちがいます。イチゴ狩りなどが出来る農園もあります。広島出身の芸術家がそれぞれの展示部屋(個室)に絵や彫刻、書・写真・デザイン何でもありで展示しています。そんな部屋が15部屋もあって、それで入館料300円ですからたまりません。半日のんびりとそれぞれの部屋を鑑賞しながら過ごすのに絶好の穴場なのです。
そうそうセミナーの話です。この四季の里で、墨彩画、陶芸、スケッチ、絵手紙などのセミナーがあったのですが、自分はストーンアートに申し込みました。石にアクリル絵の具で自由に色付けするのだから、自分にも出来そうです。夏休みに入りましたし、参加するのは子供たちと、暇なジイサンバアサン達た゜ろうと予想しましたが、その通りでした。もっともジイサンは自分だけでしたがね。
川原の石やアクリル絵の具などは全部準備してくれて、参加費が100円ですからね。
自分は庭を掘り起こした時に出てきた石を4個ばかり持って参加しました。
2時間ばかりのセミナーですが、1個だけ真剣に作りました。お地蔵さんです。石を拾ったときから地蔵が浮き出ているように見えたものだから。童心に返り真剣に色を塗りました。少し座りが悪かったので、持ち帰った後ビー玉などで調整しました。
他の生徒さんの作品や、墨彩画などもどうぞ。(2006.7.23)
通勤にバスを利用している。自宅から会社までバスを乗り継いで片道620円にもなる。往復1240円となるところだが、朝は広島市内から会社まで190円分歩いているので、一日1050円必要となる。5000円のバスカード(正確には5500円分のバスカード)を購入するのだが、それでも1週間で1枚が消費されていく。通勤費が支給されると直ぐにチケットショップに行って、バスカードを買い求める。以前は5000円のバスカードが4850円で買えたので、まとめて10枚買うと1500円安くなって、そのお金で隣のゴルフショップでゴルフボール3個買っていた。
実はチケットショップを利用しているのには、安く買える以外にも理由があるのだ。以前バスカードの自動販売機を利用したことが有ったが、これがなんと操作性の悪い代物なのだ。5000円のバスカードを買おうと1万円札を投入する。5000円のカードのボタンを押す。するとお札の投入口からお釣りの1000円札が一枚づつ出てくるのだ。それも一枚引き抜かないと次のが出てこない。何とか5枚引き抜いて、もう一枚買おうと1000円札を投入する。その動きが実に悠長なのだ。なかなか吸い込まないし、また5秒ぐらいしないと次の札が入らない。何とか5枚投入して5000円のボタンを押してもう一枚手に入れるのに、タップリ3分はかかるのだ。この機械で10枚買い求めようなら、セッカチな性格の自分としては日が暮れる様な気がして、とてもじゃ無いが付き合ってはいられない。
その点チケットショップでは、「5000円のバスカード10枚ください」「5000円のバスカード10枚ですね、1,2,3,4,5,6,7,8,9、10枚、4万8千500円です。5万円お預かりして、1500円のお釣りです。お確かめください」となり、20秒で手に入る。「誰が好き好んであんな機械と遊んでやるものか」と、思っても不思議ジャないでしょう。もう金輪際使わない事に決めた。この機械を設計した企業も企業だが、購入した会社も会社だ。
さておき、チケットショツプのバスカードだが、購入価格が上がって来た。4850円だったものが4880円になり、今は4900円である。ゴルフボールも3個が2個になった。需要が伸びたのか、仕入れが少なくなったのだろうか。
何時も思うのだが、チケットショップの仕入先は何処なのだろう。不要となったバスカードを多量に持ち込むのはどこなのだろう。個人が1枚、2枚と持ち込んで来るのを待っていては商売にならないだろうし、どういう理由で多量に余るのだろうか。まさか偽造している訳ではないから、不思議である。商品券などは贈答品として贈られた人が持ち込むことも多々あろうと思うが、バスカードを贈答に使っているのだろうか。会社から会社へ何らかのワイロとして渡っているのだろうかと、勘ぐりたくなる。「車を買うのに商品券で支払いするためチケットショップで買い求めました」とかの話を聞いたことがあるが、この逆の様なバスカードの利用法があるのだろうか。今度チケットショップで聞いてみよう。(2005.9.4)
また古本屋へ行って5冊買い求めた。最近は105円の文庫本ばかり漁っている。これでしばらくは楽しめる。
ところで本を読み始める時決まってすることがある。それはパラパラとめくって、しおりが入っていないか確かめるのだ。入っていなければカバンの中には何枚か予備のしおりを持っているので、それを使う。今回も何時ものように、パラパラとやると、中から飛行機の搭乗券の半券が出てきた。前の持ち主がしおり代りに使ったのだろう。「ANA284便7月01日禁煙席9D 仙台行き ト○イ ○ヨ○カ 様(○は伏字にしました)マイル受付済」とある。本を読むよりもこちらに興味が沸いてきた。
その本はスティーブン・ハンター作「ブラックライト 上」である。もしやと一緒に買った「ブラックライト 下」を取り出して中をあらためると、有った!「ANA283便7月06日禁煙席9D 広島行き ト○イ ○ヨ○カ 様」の搭乗券の半券が出てきた。この2冊の本の前の持ち主は同一人である。こうなると俄然推理が働いてくる。
まず、これは何年の7月の事かだ。この本の巻末の発行日を見ると1998年5月30日第1刷 2000年3月10日第13刷となっている。となると2000年〜2002年が考えられる。曜日を調べると、2000年7月1日は土曜日、7月6日は木曜日2001年7月1日は日曜日、7月6日は金曜日、2002年7月1日は月曜日、7月6日は土曜日だ。2001年がくさいが・・。次にこの飛行機の出発時刻だが、現在の時刻表を見てもこの便は飛んでいない。ANAのサービスに電話で聞いてみる。過去の事であるのに丁寧に教えて頂いた。
ANA284便広島発18:05 仙台着19:30、ANA283便仙台発18:00 広島着19:45こうなると2001年で間違い無いだろう。日曜日の夜仙台について金曜日の夜広島に帰る。マイレージの受け付けもしている。となると、遊びに行ったとは思えない。サラリーマンで仕事だ。ひょっとしたら単身赴任も考えられるが、毎週飛行機で帰るわけにも行くまいが・・。ただ、一週間の出張に行くのに本を2冊買うだろうか。1冊400ページ以上もあるから機内の1時間で読める本ではない。仙台の夜も本の続きを読むのだろう。これは習慣に近い。何度も仙台を往復している人に違いない。やはり単身赴任か。
推理とプロファイリングである。ここではT氏としておく。
@広島在住。男性。年齢30〜45歳(名前の印象からと本の内容から判断)既婚。
Aサラリーマン。仙台に単身赴任中。趣味読書。タバコは吸わない。
B平成13年7月1日(日)17:30頃広島空港の売店で文庫本2冊1334円で買い求める。
C同日18:05発仙台行きANA284便に乗る。
D飛行機の中で買った文庫本を読み始め、搭乗券の半券をしおりに使う。
E同夜19:30仙台空港着。七夕のアーケードを見ながらアパートに帰る。
F翌日7月2日(月)から6日(金)まで仕事。夜は本の続きを読む。
G7月6日(金)仕事を終え仙台空港に行く。18:00発広島行きANA283便に乗る。
H読み始めた本は下巻に移り、また搭乗券の半券をしおりに使う。
I同夜19:45広島空港着。帰宅し一週間ぶり家族と遅い夕食をとる。
J平成14年○月仙台の単身赴任がとけて広島に帰る。単身赴任期間中に読んだ文庫本を整理し、古本屋へ売る。
どうでしょうか。
こう書いて見ると、このT氏に親近感を覚えます。誘惑の多い仙台の夜を本を読んで過ごすなんてね。七夕位は見に行ったと思うけど。(2005.7.30)
先日携帯電話を拾った。退社して、バス停までを歩いていると、オバサン2人が何やら立ち話しているのに出遭う。通り過ぎようとして、ふと路上を見ると携帯電話が落ちている。拾って「携帯を落としましたよ」と、オバサンに渡そうとしたら「私達の物じゃないんです。近くに交番が無いかと話していたところです」とのこと。一旦手にした携帯をまさか捨てるわけにもいかず、何とか手掛かりは無いかと携帯をいじっていたところ「自宅の電話」と言うのが表示された。「これだ!」と思って自分の携帯で、その番号にかけた。落とし主の家にかかると思いきや、拾った携帯が鳴り出した。『そうか!自宅の電話と言っても携帯か!』今は固定電話を持っていない人が多いと聞く。番号を良く見れば090で始まっているので推測できたはずだ。『ばかめ!』と恥じた。しょうがない。会社に戻って守衛さんに訳を言って与ってもらった。「多分落とし主から掛かって来る筈だから、お願いします。もし掛かってこなかったら明日私が交番に届けますから」と言うわけだ。
翌日、守衛室に行くと「掛かってきませんでした。この電話通話停止になっているようですよ」とのこと。確かめてみると「本人の請求により通話を停止しています」とのアナウンスが返ってきた。これでは掛かって来ようが無い。守衛さん曰く「構内で拾得したのでしたらこちらで交番に届けますが、局社外でのことですからkonkonさんお願いします」と渡された。機種が○○フォンのものだったので、インターネットで調べて近くの○○フォンのショップに電話した。
「○○フォン○○店の○○です」「携帯を拾ったのですが」「それでしたら申し訳ありませんが近くの交番に届けてください」「そちらから契約のお客さんに連絡は出来ないのですか」「個人情報保護の関係でそのようなことは出来ませんので」「あなたの会社のお客さんでしょう。連絡するサービスぐらいしないのですか」「個人情報の関係で・#%」&!・・です」「おたくのショップさんは○○フォンと関係ないとおっしゃるのですか」「はい。私どもはただ契約を代理店としてやっているだけですから」「>O<”“#??!!!!」「%$〜《&*&&=〜|>¥<;;》」とのやりとりがあって。少々頭にきました。しょうがない近くの交番に行きました。交番で事情聴取されて、拾った日時、場所、自分の住所氏名電話番号、年まで聞かれた後「半年後に落とし主が現れない場合はこの携帯はあなたの物になりますが、どうしますか」と言う。「冗談じゃ無い。もらってもしょうがないじゃないですか。いりませんよ」「それでは、ここに所有権の放棄欄に氏名を書いてください」「ハイハイ!、ところで警察は○○フォンにプッシュして落とし主に連絡する様なことはしないのですか」「拾得物ですのでそんな事はしません」「・・・・・・。」これで一件落着。
今後一切携帯電話が落ちていても拾いません。でも、どうしてこの持ち主は電話しなかったのだろう。また何を思って直ぐ通話停止にしたのだろう。昼飯を食べながら同僚にこの話をしたら「前に落とした事が有ってその時痛い目にあったのだろう。いい人に拾われれば良いけれど、もし変なのにつかまったら大変だし」とのご意見であった。携帯の感じからして若い女性の物の様でした。彼女が早く何処かの交番に届けて、自分の手元に戻ることを祈っています。それから、ショップではお客さんのポイント数等はパソコンで検索できるが、住所や連絡電話など分からない様になっているそうです。個人情報の保護も良いけれど、それをいいことにお客さまへのサービスを怠っている様な気がするなぁ。(2005.6.22)
自宅で昼食を済ませた頃、消防車らしきサイレンが遠くに聞こえてくる。その内サイレンに混じりカーンカーンと鐘の音も聞こえてきた。これは演習では無く何処か火事だ。その音もだんだん近づいて来て、何と我が福王寺の山道を上がって来るではないか。自宅から見える範囲で確認するが煙は上がっていない。「何処だろう?」と外に出て見る。近所の方が「福王寺だ!」と指差す。振り返ると山頂付近から白い煙がモクモクと上がっている。その内黒い煙が出たかとおもうとバァッと火柱が上がるのがハッキリ見える。「大変な事がおきたぞ!」今日は福王寺の春の大祭で火渡り神事があって、参拝客も沢山上がっているのだ。もし、火渡り神事の火が寺に燃え移ったとしたら、またパニック状態にでもなれば、人身事故になる恐れもある。もう何台も消防車が上がっていく。安佐北区の消防署は勿論だが、安佐南区、東区、西区からの消防車も上がっていく。
この山は、山頂までは車が上がることが出来ず、200メータ位は歩いてしか上がれないのだ。また、車が上がれる所にも大きなスペースは無く、乗用車5、6台が限度だ。消防車も山道に止めざるおえず、ホースをつないで届くのだろうか。ヘリコプターが1台上空を舞っている。煙のモクモクと上がっている所で何かを撒いた。水だ!しかし煙が出ている所に比べ何とも頼りない感じだ。実感として「焼け石に水」である。それでも健気に何度も大田川の水を汲んでは山頂に飛んで行く。その内ヘリコプターも2台になった。少し煙の範囲が小さくなったと思えば、また黒い煙が立ち、火柱が上がる。それも山頂からこちら側の斜面を少し下がってきている様なのだ。まさか住宅があるところまでは下りてこないと思うが、何しろ山火事だから分からない。ここ数日晴れていて乾燥しているし、枯れた松も多いから一気にと言うことも有る。気が気ではない。
2台のヘリコプターはその間何回も水を汲んでは撒いている。そうこうしている内に少し煙が納まってきた。発火から2時間余りすぎている。「もう大丈夫だろう」と安堵したころになって、写真を撮ることを思い立った。行き来するヘリコプターを良く見ると、大きなバケツの様な物に水を汲んでいると思いきや、ホースしか見えない。多分機体の中に水を取り込むのだろう。
参拝客が下りてきた。マイクロバスが使えないから全員徒歩で、疲れた表情である。「燃えたのは福王寺ですか」「いやいや、寺の奥です」と話をする。寺の近くまで火が迫った事、消化を手伝ったこと、ヘリコプターの水が功を奏したことなどを聞いた。頼りなく感じたヘリコプターが頼もしく思えた。この後、消化後も深夜まで水を撒き続けた様だ。
(2005.4.17)
自動車の修理が終わって、やっと自分の車が戻ってきた。
実は去年の年末休みに、家人と近くのスーパーに正月の買い物に行ったのだが、その駐車場で思いがけずに車の事故に遭遇し、その修理の間不自由な生活を強いられていたのだ。代車があったのだが、やはり自分の車の方が良い。
その事故はこうだ。
駐車場に止めて、家人の買い物の間、自分は車の中で待っていたところ、突然ドンという大きな音がした。左を見ると、軽自動車が自分の車の助手席のドアにバックでぶつかっているではないか。「やった!」と思った瞬間「夢が正夢になった」とも思った。数日前に、車の左前が何かにぶつかってヘチャゲタ夢をみたが、その夢が妙に現実感が有って、その時は夢で良かったと思ったが、いやな予感がしていたのだ。こんな形で実現するとは・・。車から降りて見ると助手席のドアがへこんでいる。相手の運転手はと見ると、これがお爺さんなのだ。80歳ぐらいだろうか。しきりにスミマセンと謝る。「墓参りの花を買いに来ただけなんです」「またひどくバックしたものですな」と自分自身も信じられない様子。住所を聞くと、老人ホームにいるとのこと。『しょうがない。許してあげようか』と思っていたら「保険で直しますから。大丈夫ですから」と言うので、お願いすることにした。力の関係なのか相手の車はなんとも無いのだ。バンパーにうっすらと筋が付いている程度だ。お爺さんに聞いたホームに電話したところ「体は大丈夫でしたか」「それはお互いなんともありません」「そうでしたか。申し訳ありませんが、警察を呼んで事故証明をとっていただけますか」との会話があって、早速110番した。パトカーは近くを巡回していたらしく、直ぐ来た。お巡りさん2人に事情聴取された。このお巡りさんが面白い事を言うのだ。「明日の年末ジャンボ。楽しみですな」と、また「駐車場に止める時は、遠くの方へ止めた方が良いですよ。ほら御覧なさい」と言う。なる程パトカーは自分が手で合図をしたにも関わらず、遠くに止めている。日頃の訓練のたまものなのだろうか。
家人も買い物を終わって戻って来たが、何事が起きたのかと、ビックリしただろう。お爺さんとは「お互い災難だと思って、余り落ち込まないようにしましょう」と別れた。自分はぶつけられた方だけど、お爺さんにしてみれば「あの場所にあの車が無かったら」と思ったかも知れないので。
その後、相手の保険会社から連絡があり、修理は年を明けてからになることとなり、初詣や実家への年始はへこんだ車で行くことになった。それもやっと終わった。
何時も思うのだが、年をとったら運動神経は鈍るし、第一視野が狭くなるので、早めに運転はしない方が良いが、そうかと言って重い荷物を持って団地の坂を登るのも苦痛だ。退職したらスーパーの前で配送のボランティアでもしようかと思うが、タクシー会社からクレームが来そうだし、これとて65歳までだろうか・・。
そうそう年末ジャンボは300円だけ、あれが当たり納めでした。(2005.1.18)
瞬間風速60.2m。ものすごい暴風が吹き荒れた台風18号であった。
当日は何時もの様に起床して、会社に行く準備をしていたが、テレビのニュースで、台風18号が広島を直撃しそうだ、それも13年前の台風19号の様に、広島は進路の東側になるというので、急遽休みをとることにした。とにかく脚立など立てかけてある物や、鉢植えの植木など安定の悪いものはあらかじめ地面に倒しておいた。ガラクタなどはガレージに詰め込んだ。
午前中はそれでも大した風も雨も無く、気持ちにも余裕があった。午後になってから次第に風が強くなってきて、雨も横殴りに降ってきた。いよいよだなと、準備を始めた。と言うのも、拙宅の二階のもの干し場に水が溜まると、下の部屋に浸水するからだ。屋根も有り、下はブリキが張ってあって、一応の防水をしているのだが、排水溝への傾斜がうまく出来ていなくて、水がある程度溜まると、モルタルの隙間から下の客間の天井に浸みだすのだ。雨漏り対処である。
雨風が強くなってきて、水が溜まりだすと、モップで排水溝へ押し出すのだが、着ている物は直ぐびしょ濡れになる。勢いパンツ一丁になってこの作業を続ける。顔に雨が当たって痛いぐらいだ。ずっとそこに居るわけにはいかない。水を掻きだして、直ぐ部屋に戻り、体を拭いて、パンツを履き替えて、次にそなえる。どうせびしょ濡れになるのだし、下半身が外から見える訳ではないので、素っ裸でやろうかとも思ったが、パンツ位は履いていないと勇気がでない。作業の合間、二階の部屋から外を見ると、何時もは下の町が見下ろせて景色が良いのが自慢だが、それが風の通り道になって、下から雨と一緒に木の葉、モータープールの屋根の波板、発泡スチロール、ゴミ等が吹き上げてくる。下の家の屋根瓦がはっきりと捲れ上がるのが見える。恐ろしい位の光景だ。
恐怖心と戦いながら、5枚のパンツを履き替えたところで峠は越した。嵐が収まってきて、外を点検する。ベランダに置いていたアルミのテーブルは、フェンスを2つ乗り越えて隣の家の畑にバラバラになって落ちている。隣のお宅に直撃しなくて良かった。最近買ったばかりの植木鉢が無残にも割れている。直径40cm位の陶器で、伏せておけば大丈夫だろうと思ったが、見事に吹き飛んだ。近所の人たちも、ぞろぞろ外に出てきて、あまりの状況にビックリする。共同のゴミ置き場の一つは、丸ごと下の谷に吹き飛ばされている。上の家の人が下の家の屋根瓦を点検し、連絡する。我家も10枚位浮き上がっていると、知らせてくれた。奇妙なことに風が直接当たる側ではなく、その反対の屋根の方だ。飛行機の翼の原理で、風が下から吹き上げ、反対の屋根の方に浮力が発生して瓦を持ち上げたのだろう。すごい力だ。とりあえず業者に電話をするが、既に予約で一杯の様だ。今年は、これで台風もおしまいになってくれるのだろうか。(2004.9.7)
先日、姪の結婚式が東京であって、家族全員で出席した。
結婚式は滞りなく行われ、披露宴も盛大にそして和やかでそれは大変良かったのだが、問題は往き帰りの飛行機であった。
まず、往きの飛行機の手荷物検査で、娘の筆箱に入っていたハサミとカッターナイフが引っかかった。係員が言うには選択肢が3つ有って、@ここで所有権を放棄して廃棄するA手荷物として預け東京で受け取るB帰着の便が分かっているのなら広島で受け取る。この場合帰着便に合せ、受け取れる様に係員が準備しておく。である。結局広島で受け取ることにした。その場はそれで済んだのだが、後から娘が「筆箱の中にコンパスも入っていたけど良いのかな」と言う。コンパスも立派な凶器になるから、没収されても仕方が無いのだが、係員がハサミとカッターナイフに気をとられて、もう一度X線検査をするのを忘れた様だ。色々なセキュリティーの仕組みを作るが最終的には現場の人の資質に左右されるのだ。以前警察のOBが「検問を実施しても、そこで捕まえられるか、すり抜けられるかは最後は現場だ」と言っていたのを思い出した。
さて、問題は帰りの飛行機だ。東京を発つ前から広島の天候が悪くて、他の空港に降りる事も承知で乗れ、との事であったが、安いチケットを買っている手前、便の変更もきかず乗るしかない。
広島上空で着陸態勢に入って高度を下げるのだが、直ぐ上昇してしまった。機長いわく、しばらく上空で待機して状態の回復を待つとのことだ。最終決断は40分後と決まった。その間座席ベルトに縛られていた。その40分が過ぎ「ダメか」と思った頃着陸態勢に入ったとアナウンスがあった。声には出さないが機内の誰もが「着陸してくれ!」の一念であったと思う。車輪が降りて高度を徐々に下げていく。自分も前方のスクリーンを見つめながら、滑走路の光が見えないかと念じていた。一瞬雲が切れたと思ったが、無常にも上昇してしまった。一変に緊張の糸が切れてトイレに行きたくなった。近くのスチュワデスに聞くと、座ってろと言う。機長から福岡空港に向かうとアナウンスがあった。しばらくしてスチュワデスからトイレに行っても良いとゆるしがでた。急いでトイレを済ませて席に着くと、それを切っ掛けにオバサン連中がドドッとトイレに群がった。スチュワデスは慌てて「順番に案内しますから席にお待ちください」と、最初こそ笑顔であったが、そんなことお構いなしにトイレのドアに張り付くパワーに圧倒されて、何も言わなくなった。行儀良く順番を待っている人も先を越されるのだから黙っていない。とまあ、自分の席がトイレの近くだったので、この騒動を面白く拝見させてもらった。もっとも、頭の中は福岡に着いた後のことで一杯だったのだが。新幹線で広島まで帰って家にたどり着くのはいいとして、空港に置いてある車をとりに行かねばならない。今日はリムジンバスも終わりだから、明日会社を休んで空港まで行く事になる。ハサミとカッターナイフも受け取らなくてはならない。この場合どこで受け取るのだろう・・・・・・・・。
福岡空港に着陸してからは時間との戦いだった。航空会社から、博多までのキップと新幹線の引換券と、広島駅から広島空港までのリムジンバスの片道の代金を申請して受け取って、何とか新幹線に乗ることができた。モタモタしていたら新幹線が無くなってしまう。
広島駅に着いた時はほっとした。ここから電車に乗り換える気力も無く、タクシーを使うことにする。タクシー乗り場では、中型車の方は並んでいないのだが、小型車は50人位並んでいる。もう待つ気力も無いので中型車にのる。メーターは見ないことにした。タクシーの運転手に「海外旅行ですか」と聞かれ、力なく笑う。家にたどり着いた時は心底ほっとした。「無事がなによりダヨ」
翌日は会社を休んで、空港まで行きカウンターで娘のハサミとカッターナイフを受け取り、車を回収しました。車の駐車料金は2日分1600円でした。(2004.5.17)
発端は塀の工事である。実は、隣のお宅との間にコンクリートのブロック塀があるのだが、それが隣のお宅側へ倒れそうに傾いてきたのだ。多分自分の庭の白樫の木が大きくなってきて、その根がブロック塀を押しやっているのが原因らしい。早速業者を呼んで修理の見積もりをしてもらった。業者が言うには、白樫の木を切らない限りどうやっても、また倒れてくるとのことだ。
この木は自分が植えたものではなく、建売でここを買った時には既に植わっていたものである。前の住人が隣との目隠しの為に植えたものらしく、当初は背丈位の小さな木だった様だが、自分が購入した時には既に5mを超える大木になっていた。それが2本もあるのだ。毎年伸びる枝がお隣に迷惑がかからない様に、枝や末の幹を切ったりしていたが、それがかえって根を太くする結果になった様だ。幹の直径は20cm以上にもなっていて、到底自分の手に負えるものではない。業者に全てお願いすることにした。
まず、初日はバッサリ2本とも根元から切った。ブロック塀も壊された。2日目は木の根っ子を引き抜いた。丁寧に横に這った根を取らないと、色々問題がある様だ。腐った根にシロアリが集って、それが家の方に影響することもあるとのこと。木を切ると縁起が悪いと言うのも、そんな事に由来しているのかも知れない。
木の下にミョウガや蕗を植えたりしていたが、全部掘り返すことになった。もう少しで芽を出したであろうフキノトウが沢山でてきた。3日目は新しくプロック塀を積み上げて、ほぼ出来上がった。大きな木が2本無くなったのだから、日当たりが良くなったし、お隣さんも「朝がくるのが2時間ばかり早くなった気がする」と喜んでくれた。
この際、庭を改造する良い機会かもしれないと、石組みを変えたり、今度は余り根を張らない金木犀や南天などを塀沿いに植えた。小さな庭も、とても広くなった気がする。これから色々と手を加えていくのが楽しみである。(2004.2.22)
自分は本を読むのが遅い。遅読である。本を読む時活字を音読する様に拾うからで、勿論声を出して読む訳では無いのだが、スピードは音読と大して変わらない。斜め読みなどと言う芸当があるが、自分はとても出来ない。形として真似てみたりしたが、書いてある内容が全く頭に入らないのだから、読んだことにならない。途中で読めない漢字などが出てくると、そこでストッフしてしまって先へ進めないこともある。書けない漢字は山ほどあるが、読めない漢字も多い。先日「・・抉れている・・」という文章に出くわして、はたと困った。「くれている」では何となくおかしいし、「それている」「くくれている」では字が違う様だ。放っておいて先へ進めば良いのだが、気になってしかたがない。辞書で調べて「えぐれている」と読むと判ってやっと先へ行くという有様である。
世の中には「速読速解法」というのがある。韓国などで盛んな様だが、本をパラパラとめくるだけで、内容が頭に入ってくるらしい。本を終わりの方から逆に捲っていって、後で内容をつなぎあわせて「あーそうだったのか」と理解することもできるらしく、こうなると特殊技能というより、神業としか思えない。頭の構造が違うのだろう。
さて、遅読にも利点はあるのだ。音読の様に言葉が詰まったりした時は、再度読み直す習慣があるものだから、自然と間違え無い様に息継ぎやら眼で先読みなどしていて、実際に音読しても間違える事が少ないのだ。また、長時間音読しても余り疲れることが少ない様に思う。娘が子供の時、よく本を読んでやったりしたが「もういっかいよんで」の要望には応じていた。勿論プロの様に感情を込めて読むなどの芸当はできず、一本調子なのだが、これが眠気を誘うには丁度よいらしかった。
昔、新入社員の研修でシステム設計の演習をしていた時、例題の内容を描きやすい様にと、全員に眼をつぶらせて例題を自分が音読したことがあった。読み終わって「イメージがつかめましたか。全員眼を開けて」と言って見渡すと半数が眠ったままであった。中には熟睡している者までいて、新入社員につかの間の休息を与えてやったことになった。この時の例題がお酒の在庫管理だったので「イメージが湧きすぎて酔っ払った者もいる様だ」とやって、皆で大笑いしたことがあった。
何かの本に、昔は読書と言えば音読が基本であった、と書いてあった。「師のたまわく・・」などと大きな声で読むことが勉強であったのだろう。そうすると自分のスタイルは理に叶っているのだろうか。でも内容の理解と記憶はまた別の才能の様な気がする。(2003.11.24)
通勤のバスの中で本を読むのが習慣になっている。幸いにも往きも帰りも席に座る事ができるので、バスが出発するやカバンから本を出し読み始める。これはもう習慣になっているので、これが妨げられると何とも気の座りが悪くなるのだ。
時として客が多くて座れない時は、しかたがないので諦めもつくが、車内をイヤに暗くしているバスに出くわす事がある。車内の照明を落とすことにどれだけの利点があるのか知れないが、薄暗い照明は気分も滅入るし、むしろ危険ではないのかとも思う。第一、人の通勤の楽しみを奪う権利がお前にあるのかと、運転手に対してだんだん腹が立ってくる。「スミマセン明るくしてくれませんか」と言えば良いのだが、これが言えない自分にも腹が立ってくるのだ。
そんな訳で、通勤途中で本を読み終えて、次の本が無くてつまらない気分にならない様にだけはと、常に2冊はカバンに入っている。
現在読んでいるのは「チベットを馬で行く」で、文庫本であるが、ゆうに3冊分の厚さがある。本屋で目にとまり購入した。まず、厚さが気に入った。作者は渡辺一枝さん。知らない方だけど、巻末の作者欄をみると、自分と同じ年生まれで、ハルビンで生まれている。自分も中国の天津で生まれているので、なんとなく読みたくなった。
子どもの頃の渾名が、「チベット」だった。・・・
と軽快に始まる。読み始めて判ったのだが、この方は作家の椎名誠さんの奥さんである。旦那さんも冒険好きであるが、この奥さんもすごい。自分と同じ年の女性が、馬で半年もの間、チベットを4000キロ旅すると言うのだ。同じ本を読むにしても、こんな本であれば通勤は楽しい。
という訳で現在この本にはまっている。3冊分の厚さも2/3を過ぎたので、もうそろそろ次の本を用意しなければと思っているが。(2003.9.28)
我が団地のある山裾に国道191号線が走っている。その国道に沿って「大毛寺(おおもじ)川」が流れている。下流は太田川に合流する小さな川であるが、今この川の護岸工事が進んでいる。川幅も広げコンクリートブロックや自然石を積み上げ、川岸には芝生なども植えてちょっとした遊歩道が出来る様だ。まだ工事半ばで全体像が見えないが、完成が待たれるところだ。
ただちょつと残念なことも有る。実はこの川には蛍がいて、季節には「光の乱舞」とまではいかないが、ちらほらと見つけるとが出来て、仕事帰りの疲れを癒してくれている。
パワーシャベルで川底を浚ってしまったから、全滅は免れないだろう。でも、何年か経って川底に下草などが生えてきたりすれば、また住み着くかもしれない。その時は自分もリタイヤしているから、蛍の養殖などを教わって、放流などしてみよう。川岸を浴衣を着た家族が行き交い子供たちの笑い声と、その手の中には小さな光が点滅している。そんな光景が見られるかもしれない。空想はひろがるのだが。(2003.7.27)
メダカが孵化した。針の先ほどの透明な体なのでチョット目には分からないが、音をたてたりすると一斉に光が走る様に動くので確認できる。何匹と数える事は出来ないが、少なくとも10数匹はいる様だ。
メダカは数年前から飼っている。昔田んぼで見かけた黒いのではなくて、黄色のヒメダカという種類である。最初10匹程ペットショップで買い求め、水がめの中で飼いはじめた。睡蓮などの鉢に数匹入れておくとボウフラもわかないし、餌をやる手間も必要なくなかなか重宝するし、夏は金魚鉢に入れて楽しもうと増えるのを心待ちにしていた。しかしながら、数年経っても増やす事ができず、むしろ買い足したりしていた。寿命が2年位の様で、世代が交替しない限り減る一方なのだ。卵は産むようなのだがうまく孵化しないのだ。
昨年知人から孵化したばかりの稚魚を沢山頂いた。透明の容器にホテイアオイを入れて観察していた。数え切れない稚魚が順調に育っている様に見えたが、しばらく経って数匹を残して殆ど死んでしまった。これは少しメダカについて勉強が必要だと、インターネットで情報を集めた。メダカは共食いをするので、卵と成魚は別にしなければならないこと、また容器にも問題が有った。透明な容器は日光も入るのでメダカにも快適だろうと思ったが、実はメダカにとっては最悪だとのことだ。透明な容器の縁がカガミの様になって、それに写る己の姿に驚いて、ストレスがたまるのだという。ウーン!メダカには悪いことをしたナァー。
今年は少し工夫をした。冬の間水がめの水は換えず水草の枯れた根もそのままにしておいた。春が来て水がめの中をさらったところ、4匹が生きていて水がめの縁には透明なゼリー状の卵が沢山ついていた。4匹の親メダカは睡蓮鉢に移した。かめの水は半分程換えてやりホテイアオイも新しく入れた。また田んぼの土を少し入れてやった。それから一週間が経った頃、孵化した一匹を見つけた。それから毎日観察したが、一向に2匹目が生まれてこず、やはり今年もダメかと諦めていたところ、一気に10数匹の稚魚を確認した。最初に生まれた1匹はハッキリと分かる程大きくなっていて、生まれたばかりのメダカを追い回している。メダカは共食いするので、今までは孵化した稚魚は親メダカに食べられていたんだナァー。
今年は大丈夫と思うが、全部が成魚になる訳では無いので、その内何匹が生き残るのかだが、どうだろう。(2003.6.8)
タクシー
久しぶりに失態をやらかした。飲み会の後、帰りのバスの中で寝込んでしまって、終点も終点車庫まで行ってしまったのだ。それも運転手が車庫に納めて、さあ帰ろうとしている時に目が覚めた。後ろの席でつぶれる様に寝ていたので、運転手も気が付かなかったのだ。運転手もビックリしただろうが、自分とて同じだ。車庫に閉じ込められてはたまらない。
昔から酒を飲むと寝込むクセがあって、同じ失態を何度か経験しているので気を付けてはいたのだが、またやってしまった。
帰りのバスはもう無いとのこと。はてどうしたものかとボーッとした頭で考えたが、ともかく国道まで出ようと歩き出した。ところが良く考えてみると、これは無理だと気が付いた。いつもは車を利用しているので、ほんの数分の距離との感覚があるが、歩くとなると1時間はゆうにかかる。これはタクシーを呼ぶしかない。携帯電話という便利なものがあるではないか。まず家に電話して状況を話して、タクシーの電話番号を調べて配車してもらうことにした。もう、おおかた酔いは覚めた。しばらくしてタクシーがやってきて、やれやれと乗り込んだ。運転手は自分より少し年配のようだ。「随分遠くまで来たんですね」「イヤハヤ助かりました」と話を始める。運転手は「今日は2時まで仕事をする」こと、「今は携帯など便利な物があるが、公衆電話もないところで同じようなお客さんを拾うと、とても嬉しそうな顔をする」こと、「最初からタクシーで帰れば良かったなどと言われる」ことなど、話がはずんだ。また「タクシー代は高いでしょう。奥さんは運転しないのですか」と聞かれて「女房には絶対免許をとらせない様にしているのです」「自分の車にキズをつけるぐらいどうということはないけれど、人身事故など起こされたら償い様が無い」「だから、女房にはタクシーを何回使っても良いと言ってあります。その方がズット安上がりですから」と自分も能弁になる。
そうこうしていると「あまり高いと気の毒ですので」と、運転手さんはメーターをストップしたのだ。自分としては内心細かいおつりはチップにしようと、思っていたのだが、反対にサービスしてくれるのだ。家に着いてお金を余分に渡そうとするが、どうしても受け取らないのだ。この際有りがたくお釣りを受け取ることにした。
世の中不景気だから、お客を拾うのも楽ではないだろうに。お釣り以上に何か得した気がした。(2002.11.22)
すっかり秋らしくなり、天気の良い朝はとても清々しい。通勤途上の山道にある真福寺の金木犀は今年は沢山花が咲いて良い香りがしていたが、今は、それもすっかり散って路上に黄色の跡を残すのみとなっている。そういえば我が家の金木犀は今年は全く花が咲かなかった。夏に枝を剪定したのが悪かったのだろうか。アジサイなどもそうだが、剪定の時期や、やり方で全く花芽を付けないことがある。来年は気をつけよう。
今年は山道の途中に異変が起きている。イノシシや狸などが通る獣道があるのだが、その道路向かいのガケ側の斜面が何者かに掘り返されているのだ。それも最初は一部のことで、犬を散歩させている人が粗相の後始末をしたのだろうと思っていたが、どうやらそうではないらしい。日に日にその規模が広がり、今は斜面全体に及んでいる。生えていた雑草などものかわ根こそぎ掘り返して、あたかも工事現場の様相を呈している。道行く人の話を聞くと「犬が吠えるので何かと見るとイノシシがいた」「狸もおった」と言う。どうやらイノシシがその牙で草の根っ子を掘り返し、その後狸も加担したのだろう。これから冬に向けての食料確保の後なのだ。この山腹に居を構えて10年になるがこんなことは初めてだ。それだけ山に食料が不足しているということだろう。それにしても今年は狸を良く家の近くで見かける。朝よりも夜の帰り道、車のライトに照らされて、道を横切っていく姿を見る。一度は車に追っかけられて逃げ道を間違ったのか、自分の方に突進してきて、こっちもビックリした。車に轢かれなければ良いが。冬支度も命がけだ。(2002.10.20)
昨年の秋、庭に芝を植えた。庭と言ってもネコの額のようなものだが「少しは庭らしくなれば」とは表向きのことで、実はゴルフのアプローチがしたいためだ。勿論2、3メートルのチップショットであるが、土の上からでなく芝から打つ臨場感を得たいのだ。思い立つと行動は早い。早速姫高麗芝を3束買ってきた。整地をして芝を並べて見る。すると以外にも芝が必要で、3束では全面にという訳にはいかない。芝自体は大した値段ではないので、買い足せば済むことだが、もし、うまく根付かなかったら無駄になるので、とりあえず疎らではあるが要所に貼った。
冬が来て、芝も茶色になっていたが、今年の春になって新芽が出てきた。「まさ土には良く付きますよ」と園芸の人が言っていたが、何とかなった。こうなると「芝をケチらずに全面に貼れば良かったナアー」と悔やむ。
そんなある朝、何気なく庭を眺めると、何か変なのだ。眼鏡をかけて良く見ると、芝生がめくれている様なのだ。急いで庭におりて見る。すると貼った芝の数箇所、それも特に端の方が無残にも剥がされ裏返っている。「誰が、何のために?」と考えを巡らせながら庭を観察する。すると芝だけでなく植え込みの所々に穴が掘られている。「猫か?」と思ったが猫は穴は掘るが、芝を裏返すことまではしないだろう。「何のために?」と考えたあげく「どうやら土の下のミミズが目当ての様だ」すると犯人は「狸か、ハクビシンだろう」との結果になった。山に食べ物が少なくなって、里に下りてきて民家にまで入って来たのだろう。それにしても上手に芝をひっくり返すものだ、と感心しながら、芝を元通りに修復した。多分もう来ないだろうし、根が張れば大丈夫と思った。ところが数日してまたしても芝が剥がされた。それも同じ場所だ。どうやら前回で味をしめて餌場とするつもりらしい。こうなると放ってはおけない。進入箇所と思われる玄関のフェンスの下の10cm程の隙間に板を張ることにした。猫の様に上からは侵入しないだろうから。
その後被害は無い。剥がされた芝は一部が枯れた様だ。でも何か後ろめたい気がする。彼らの頼みの餌場を取り上げたかもしれないし、餌付けをして、良い付き合いが出来たかも知れないのだから。
それにしても最近、道路に狸などの死骸が目立つ。彼らも危険は承知しているのだろうが、それだけ住む場所が少なくなっているのだろう。(2002.4.20)
朝6時35分自宅を出る。出勤の時間である。冬と違って外が明るいのは助かる。まだ明けやらぬ暗いうちに家を出るのは、やはり気が重いのだ。向かいの家のおじいさんとバッタリ会って「帰って来たんじゃね」「おかげさんで」と、少し立ち話をする。遅れを取り戻そうと歩き出すが、足の甲が痛くてピッチが上がらない。ここに家を買って通勤を始めた時と同じ状態だ。山の斜面にへばり付く様に家が建っているので、下のバス停までは結構な坂が続くのだ。1年半年の間に体が元に戻り、坂道に対応できなくなったのだろう。数日は筋肉痛が続く。
犬を連れた夫婦に出会い、挨拶を交わす。以前も良く出会った方だ。会社をリタイヤして、夫婦で朝の散歩をしているのだろう。今も続いていてお元気の様で、夫婦揃ってがなかなか微笑ましい。そうそう、ずっと前に3人のオバサングループと、良く出くわした。オシャベリをしながら、とても楽しそうであったが、やがて2人になり、そして1人になっていたが、どうなったのだろうか。お元気ならば良いが。ここは山頂にある福王寺への登山道になっているので、散歩には丁度良いのだ。時には、サルにも出くわすし、イノシシが道を横切ることもあるが被害は無い。もう少しすると、鶯が鳴きだす。不思議なことに毎年同じ場所で、同じ鳴き方で聞こえてくる。それも、二箇所で聞くことが出来るのだが、上の方と下では鳴き方が違うのだ。上の方は「ホー・ホケケキョ」と、幼く鳴くし、下のは「ホー・ホケッチョチョピ」と聞こえる。なかなか「ホー・ホケキョ」と綺麗には鳴いてくれない。
山裾には明るい赤紫色のヤマツツジが、まだ咲いている。今年は桜も早かったが、ヤマツツジも殆ど同時に咲き出した。桜は終わったがヤマツツジは花持ちが良い。
よそのお宅の庭先を見るのも楽しい。石垣に芝桜をたらして、見事に赤と白の波型を作っているお宅も有れば、木蓮と白木蓮を対に植えていたり、毎年見事に石楠花を咲かせるお宅もある。また、グミの実がたわわに実る所も有って、今年も少し頂こう。
カナメの生垣の赤い新芽が艶やかだ。そのうち、ゼンマイも芽をだすだろう。今日も良い日であります様に。(2002.4.10)
3月も中旬を過ぎると、日に日に春の訪れの確かさを感じる。既に土筆も芽を出し、土手を、袋を下げて摘んでいる姿を見かける様になった。
土筆摘みは、自分も毎年何度か出かけて、晩酌のつまみを一品増やそうと頑張るのだ。今年は少し遅れをとったが、まだいくらかは採れるだろうと、朝飯も早々に済ませ出かけることにした。長靴を履いて、マスクをして、ビニール袋を持って行く。マスクをするのは花粉対策であって、何も顔を隠すためでは無い。悪い事をする訳では無いのだから。場所も決まっている。例年であれば土手の斜面を50mも歩けば、十分の収穫が有るはずだ。
狩場と言うか摘み場に着くと、既に先着が2人いて摘んでいる。もう無いかな、と思いきや、「おーっ!あるある!」2人が通った後であるのに、いっぱい生えているのだ。昨日の雨で一斉に芽を出したのだろう。30分足らずの時間で十分な収穫が有った。
持ち帰ると、今度は新聞紙を広げてハカマを取る。親指の爪を使って、くるくると回しながら取っていく。胞子の開いていない若いのは上手く取れるが、少し長けたのは途中で軸が折れたりする。若くて太いのから始め、黙々と作業をする。爪の中までアクで真っ黒になるが、うまい物食いたさの執念みたいなものだ。子一時間掛けて取り終えた。ここからは、女房にバトンタッチだ。料理は、天麩羅にしたり、炊き込み御飯にしたり、卵焼きに入れたりと色々できるが、キンピラにして食べるのが一番好きだ。胞子の苦味が利いて春を感じる。
この土筆もそうだが、蕗のとう、菜の花、タラノメと何故か春の味は「苦味」だなあ。他の季節はと言うと、さしあたり夏は「甘味」秋は「酸味」冬は「辛味」かなと勝手に思うが、これは異論があるだろう。
そうそう、自宅の近くにタラの木が自生している。ゴミ置き場の後ろの斜面に、何本かあるのだが、まだ芽が出ていない。しかし、ここのタラノメは競争率が激しくて、我が口に入ることは無い。丁度登山道に面していて、朝早くから散歩をする人も多く、何時の間にやら無くなっている。天辺の芽は来年のために残して置くと良い、などと思っても、これは無理だ。(2002.3.16)
山口の駅前通り沿いに、古本屋が並んでいる。その中のひとつのお店を利用している。オバアサンが一人でやっているのだ。本を買うと手製のサービス券をくれる。ボール紙に10円とか20円とか書いてあって、次に買うときにまけてくれるのだ。1冊100円とか200円とかの古本を買って、これをくれるのだから、儲けは殆ど無かろうと思うが、有り難く頂戴している。マンガ本なんかも置いていて、折りしも小学校低学年らしい女の子3人が、目的の本が見つかったのか、嬉々として買って行った。会話の内容から、これから3人で回し読みをするのだろう。
以前、自宅の本を整理して、広島の古本屋へ持って行った事がある。娘も、ついでに読まなくなったマンガを数冊持って行った。この業界に興味も有ったが、色々な事が分かった。まず、カバーが無い物は引き取らない。またハードカバーの本よりは文庫本の方が、買取率が良い。ハードカバーは保管場所を取るし、需要が余り無いそうだ。むしろマンガの方が良いとのこと。試しに、書店でまだ新刊として並んでいる○橋巨○の書いたハードカバー本を混ぜておいたが、娘のマンガ本と同じ値段に分類された。それから作者でも赤川次郎など超売れっ子の本は、いらないとのこと。それだけ新刊が出回っているのだから、当然と言えばとうぜんだ。50冊あまりの本だったが、マンガの威力を借りても1000円に満たないのだ。でも、考えてみると、この本の半分が古本として売れたとして、2000円の儲けにもならないのだから、リスクの多い商売の様に思えた。
そんなことを思い出しながら、今日は4冊買った。合計500円消費税無し。前のサービス券30円を出して470円払ったら、また20円のサービス券を2枚くれた。んーん!これは商売というより、ボランティアだなあ!(2002.3.11)
ここ数日、春のような陽気で暖かい。そうそう、今日は25日でレンタルDVDが半額で借りられると、昼休み、散歩がてら外に出る。コートを着て、マスクをしてと、花粉対策も怠らない。会社から店までの間の用水路沿いを歩く。コートを着ていると暑い位だ。
駐車場まで来たとき、頭の上を小鳥が飛来し、右手前の金網に止まった。スズメだ。それも次々と飛んできて10数羽になった。金網の上を向こうから順に一列に並んでいる。脅かしてはと、足を止めた。ん!何か変なのだ。良く観ると一羽白いのがいるのだ。飼っていた文鳥が野生化したのかと、目を凝らして見るが、どうやら姿形はまさしくスズメなのだ。最初は真中辺りに止まっていたが、茶色のスズメに追い立てられて、最後尾、すなわち自分に一番近い所に止まった。「仲良うせんかい!」と、思わず声が出そうになる。位置が決まったのも束の間で、また先頭から飛び立って行った。突然変異か何かで、アルビノが生まれたのだろう。野生の中では育つのが難しいとも聞いた。何だか「元気で頑張れよ」「人間のオッサンが見守っているからな」と、届くはずも無い声を掛けたくなる。でも、もしかして白いスズメが「俺は大丈夫だけど、オッサン元気を出しな」と、コートを深々と着て、マスクをして、トボトボ歩く自分に声を掛けて行ったとしたら、と思うと、吹き出しそうになった。
ここで句ふたつ
白スズメ 負けるなkonkon これにあり
白マスク 元気だせよと 白スズメ
一茶に失礼かな。(2002.2.25)
旧友から一冊の本が送られてきた。去年の暮れの話である。「きっと新たな発見があるでしょう。」との言葉付だ。彼とは、毎年の年賀のやり取りはしているのだが、もう20年近く会っていない。若いとき良く一緒に飲み歩いていた。その彼から、突然本が贈られてきたのだ。その本は某宗教団体の教祖(ここでは○○氏としておこう)が書いたもので、本屋でも良く見かける本だ。金を出してまで買おうという気はしないが、タダでくれるのだから、有り難く頂戴した。
早速読み、旧友に手紙を書いた。
前略
元気でご活躍のこと、何よりでした。また、本のプレゼント有り難く頂戴いたしました。早速読みましたが、正直言って貴方が言うような、新たな発見は有りませんでした。「日々の暮らし方を律して生きましょう」と、自分が日頃思っていることと大して変わらないことを述べています。貴方のご好意に水を差す様ですが、突然私にこの様な本を贈ってくださった貴方の意図がどこにあるのだろうかと、余計な方に考えが行き、ヒョットして「お前のことだから、怠惰な生活を送っているのだろうな。幸せな人生をおくっていないのではないか」と、お思いでしたら、ご心配いりません。単身生活も自炊も家族とのコミュニケーションも、エンジョイし、また問題も今のところ有りませんので。
この本に戻りますが、チョット気になる部分が有りますね。後半の天国とか地獄とかの部分です。○○氏の云っている事を要約すると、
・あの世には天国と地獄がある。
・天国にいるものは、この世に生まれ変わることが出来るが、地獄のものは生まれ変われない。
・但し、地獄からこの世の人間に悪い波動を送っている。
と。
もし、氏の云う通りだとしたら、地獄は今や新宿なみに混雑しているでしょうね。それも減ることはありません。それらがこの世に悪い波動を送ります。ますますこの世で悪を働く者が増え、また地獄が繁盛することになります。そうなら、「○○さん、こんなところで本なんか書いていないで、早くあの世に行って『地獄一掃作戦』の陣頭指揮をとってくださいよ。」と思うのは私だけでしょうか。
私は「天国はあるか」についてですが、勿論確認のしようがありませんが、幼い命が事件に巻き込まれる報に触れる度に「この子は何のためにこの世に生をうけたのか」「この子の親はこのことを、どう整理できるのか」を思うと「きっと天国は有る。そしてこの子はそこに行った。また望めば何度でもこの世に生まれ変われるはずだ。そうあって欲しい」と思う訳です。
親鸞でしたか、弟子から「極楽浄土はあるか」と問われて「しらん。でも偉い方が(法然だったと思うが)有ると言っていたから、あると信じる」と言っていますよね。親鸞がですよ。○○氏曰く「この間も霊界に行って、坂本竜馬と話をした」では、丹波哲郎と同じ世界ですね。(丹波さんを侮辱している訳ではありません)宗教の自由ですので、どんな教祖を拝んでもかまわないけれど、何かおかしいなと思う感性を失わないで欲しいと思います。私はそう思います。 早々
この手紙は出しませんでした。その代わり今年の年賀に「本ありがとうございました」とだけ、書きました。(2002.2.14)
スーパーにホタルイカが並びだした。私の大好物の一つだ。春の訪れと共に楽しみにしているのだ。ボイルしてあるのが普通で、時々生の物も出るが、ボイルしてある方が美味しいと思う。酢味噌などが付いているが、私はワサビ醤油で食べるのが好きだ。
目を箸で取り除いて、口に入れる。中の腸と卵の味と、身の食感が何とも言えない。背骨の舟の部分を口で上手に取り出し、咀嚼する。ウマイ!最高!酒が進む。
目や舟なども食べられるが、食感が悪くなる。料理屋などでは目を取り除いて出す所もある。
食べた数の2倍の目が、皿に残る。割り切れなくても気にしない。
ここで一句
食べた数 2倍の目玉が 皿にある (ホタルイカ)
そのまんまだナァー・・・・・。(2002.2.7)
娘の本棚から4冊ばかり借用した。毎年、自分の年の数だけ本を読むことをノルマにしている。始めた当初は、ハードカバーの新刊ばかり購入していたので、金もバカにならなかったが、最近は文庫本や、古本などで冊数を増やしている。娘から借りるのも手だ。
娘にも、中学入学を機会に同じノルマを言い渡した。ただし条件付だ。
・読んだ本のリストを作ること。
・誕生日にチェックして数が足りていればプレゼントに図書カードを渡す。
・冊数がオーバーしていれば、その分の現金を小遣いとして渡すが、足りていない場合はペナルティーとして現金を徴収する。
今年の誕生日が1回目のチェックだが、何とか消化している様だ。
と、偉そうな事を言っているが、自分とてこのノルマを課し始めたのは45歳を過ぎてからのことだ。子供の時はマンガさえも読まなかったし、社会人になっても全く読まなかった。
あるとき、会社で意識改革の研修を受け、その最後の日に今後の行動指標を書かされた。それに「本を自分の年の数だけ毎年読む」と、勢いにまかせて宣言してしまい、実行しているということだ。
主に通勤の電車や、バスの中で読んだ。目が良いのだけが取り柄であったが、急激に悪くなった。「目は悪くなったが、心の視力は良くなった」と嘯いている。(2002.2.3)
立春を過ぎてもまだ寒い日が続いている。去年買ったアンスリュームの鉢が枯れそうだ。寒くなる前に部屋に入れていたのだが、葉っぱが霜焼け状態になり、落ちてしまった。窓際に置いていたので、土日帰郷している間、部屋の温度が急激に下がったのに、対応出来なかったのだろう。新しい芽が出ていたのだが、それもダメのようだ。
さて、これからダンダン暖かくなり春が訪れるが、この時期、スイセンが咲き沈丁花やエビネの花など、どんどん咲いてきて、四季を通しても好きな季節なのだが、また、憂鬱な季節でもあるのだ。2月も中旬を過ぎると花粉症が出る。私の場合、5月の中旬まで続く。医者に調べてもらうと、杉は勿論のこと、ヒノキ、ブタクサ、ハウスダストと、アレルギーの抗体を持っている様で、症状も長く続く。シーズンの初めは熱も出る。
毎年、高額のクスリの厄介になっていて、医療負担の値上げで文句を言える筋合いではない。全額まともに払ったら大変だ。でも、どうしてこんなにクスリは高いのだろう。(2002.1.27)
昔、オリンパスのα7000が発売になった時、大枚をはたいて直ぐ購入した。一眼レフで初めてのオートフォーカスだったと思う。これならば、シャッターチャンスを逃がすことなく、自分でも映せると思ったからだ。レンズも取り替えるのが面倒なので、マクロ撮影から150mmまでのズームが利くレンズ一本にした。首にかけるとズシリと重く、肩が凝るのだが、どこにでも持っていった。
そのカメラが壊れた。本体は何とも無い様だが、レンズがオートフォーカスに連動しなくなったのだ。もう15年以上にもなるので、仕方が無い。早速カメラ屋に持っていったが「もう部品が無いから無理かもしれない。まあ、一応修理に出してみましょう」との、ことだった。何とか直って欲しかったが、結局工場からは「修理不能」で戻ってきた。新しいレンズを買う気にもならず、写真の興味も薄れた。
そんな折、パソコンを買いインターネットを始めたが、個人のホームページを閲覧している内に、自分もホームページを立ち上げてみたいと思うようになった。それには、どうやらデジタルカメラが必要の様だ。昔から、思い立つと道具から入るのだ。どうせ買うならと、本格的な物が欲しくなる。
富士フィルムのデジカメを購入した。これが優れものなのだ。430万画素もあり、ズームも1000mmに匹敵する能力を持つ。写真だけでなく動画も撮れる。テレビの画面に映して見れる。何より映した後、直ぐに画像を確認できる。(当たり前か)また、軽いのだ。という訳で、このカメラにはまってしまった。
ゴルフの練習に時々持っていき、フォームを映してはチェックしている。
まだまだ色々な使い方が出来そうだが、ただいま勉強中だ。(2001.3.11)
仕事で、一日、研修のインストラクターをする。中高年を集めてのパソコン教室である。研修生も私の年齢と大差無いので、気も楽だ。
研修で何時も思うのだが、教室で研修生と顔を合わせた時が勝負だ。自分がリラックスしていて第一声を出すことができれば、研修生もリラックスするが、自分が緊張でドギマギすると、それが研修生に移るのだ。そうなると、研修自体がうまく進ま無くなる。そこで立て直そうと慌てふためくと、ますますドツボにはまる。
今回はまずまずスタートできた。研修生も、パソコン教室なのだから若い先生かと、期待と不安があったと思うが「何だ!オッサンじゃないか」と、落胆と共に安心もしたのでは無いかと思う。名簿の中には学校の先生も何人かいらした。
私は、会社でインストラクターの仕事を経験したお陰で「教わり上手」になった。勿論「教え上手」になることが一番なのだが、そう簡単には行かない。自分もセミナーなどへ生徒として参加するが、教える先生とのコンタクトを外した事が無い。
まず、教室へは一番乗りだ。準備がまだで設営を手伝ったこともある。席が自由なら、OHPなどが置いてある方の前から2番目に座る。ここが、一番先生の目が行く所だ。ベテランの先生になると後ろの方に気を付けるが、まずここが無難だ。
授業が始まると先生から目を離さない。眠るなんて絶対に無い。前の日から睡眠は十分だ。先生が「そうですよね」とか「分かりますか」との言葉には、目で意思表示をする。「何か質問は有りませんか」など問われると、一斉に下を向く人がいるが、これではダメだ。有っても無くても、問いが分からなくても目を外さない。当てられたら、正直に言う。
こうすると、開始から30分もすると、先生は私を見て話をする様になる。私主体のペースになるのだ。こうなると、生徒が何人いようと、私の家庭教師みたいなもんだ。研修も実が入り得をする。
「自分は教えるプロにはなれないが、教わるプロにはなった」と、自負している。(2001.2.25)
終業のチャイムが鳴るや「お先に失礼します」と、会社を出る。一週間振りに自宅に帰るのだ。
山口インターから中国縦貫道に入る。会社を出てから家まで約2時間のドライブだ。夏場は日が高いので日没前には到着するが、冬場は、とっぷり日が暮れる。スタッドレスタイヤを履いているとはいえ、やはり怖い。慎重に運転する。
山口から1時間程走ると、六日市に出る。ここは島根県だ。しばらく走ると錦町に来るが、ここはまた山口県だ。また少し走ると吉和に出る。ここは広島県だ。とうしてこうなるかと云うと、地図を見れば分かるが、山口、島根、広島の3県の県境が交差した所を高速が走っているのだ。また、この県境がS字型に曲がっていて、この丁度カーブの切り替えしの中央に道路が作られているので、こうなるのだ。最初は県境の看板など見てビックリする。
毎回のことであるが、六日市が来ると「半分来た」と、吉和まで来ると「やれやれもう少しだ」と、帰ってきた気がする。風呂とビールと、作らなくて良い晩飯が待っている。
山口から帰る時は気持ちも昂揚し、運転も楽しいのだが、これが逆方向となると、なんとも憂鬱なのだ。日曜日の午後、そろそろ山口に戻らなくてはならないと思うと、だんだん不機嫌になってくる。
それはそうと、高速料金が高すぎる!何とかしろ!5万円のハイウエイカードを買っているが、エッ!と思うぐらい早く無くなるのだ。山口のインターで払うとき、なお更そう思う。 (2001.2.18)