銘菓「やままゆの里」

                    
 づいちゃんの店 (和菓子・洋菓子)
                            可 部   船田澄枝さん
画像の右に文章を入れたい
『夢街道可部 町づくりの会』
とお会いする機会が
あり色々話をしているうちに以前より可部のお
みやげとして、何かずっと残る素晴らしい菓子が出
来ないものかと、いつも頭の中に思いがありました
私の気持ちが、一気に高まり何かやって見ようと試
行錯誤する日々が一年余続きました。
 そして、何とか商品として出せるのでは、と思う品
が二点作る事が出来ました。そんな時偶然にも「山
まゆ」
の作品展が可部町商工会であり、来客の方から作品展に持参したいが、ど
んな品かと新製品に話が進みました。 包装が決定していないので、取りあえず手
元の物で包んで一品お渡ししました。ところが思わぬ絶賛のお言葉を頂き、すぐに
その菓子に似合う包装を考える事となりました。

 この一品が、江戸の中期より「山まゆ」で、栄えた可部を想いながら考えた
「山まゆ」まゆ玉をイメージした和菓子が生まれる事となったのです。
 それも、繭(まゆ)がグリーンの為、牛皮の色を抹茶で淡いグリーンにしてみた
り、よもぎで色を出したり・・・と多方向より思案しましたが、絹の原点にもどり今
のやさしい淡い高貴な雰囲気の色となり、牛皮に合わせ口当りの良い黄身餡
で二つのハーモニー
を楽しんで頂ける物となりました。
 包装も和の雰囲気を保ち「山まゆ」を、イメージ出来るものを作ってみました。
発売して7年になり、皆様に愛して頂いています。これからも、末長く可部の銘
菓として皆様の心に残る和菓子で有ることを願って止みません。

          山 ま ゆ

 里山で薪炭用のクヌギ、ナラ、コナラ、アベ
マキ等の葉を食べる「ヤママユ ガ」の幼虫が
成虫になる前に黄緑色のマユの中で育つ、
そして羽化する。これから取った糸は、「カイコ」
の糸と比較すると太さも均一になっていない。
野生溢れる糸である。これで織ったのが「山ま
ゆ織」
である。
  



       
「復活させよう広島のマツタケ!!」
                      きのこアドバイザー  川上嘉章さん

マツタケを食べるのは、日本人くらいだらうといわれています。
日本人のDNAがマツタケの香りとマッチするものがあるのでしょう。
 キノコと民族の間には、微妙な関係があるのかもしれません。

「絶滅危惧種になる?」
 昭和元年から最近までの生産量をグラフにしてみました。(下図)これまで
広島県は、全国一の生産量をあげることが多かったが、最近は見る影も
有りません。このままいけば絶滅危惧種は間違いないでしょう。

「発生時期は確実に以前より遅くなっている」
 夏から秋にかけて地温が19℃以下になると、マツタケ菌が刺激を受け(刺激
日)キノコの原基を成形しはじめると言われています。
 最近は、温暖化の影響で夏が高温になり、しかも、その高温が長く続くため、
マツタケ発生開始時期が以前より遅れています。以前は9月中旬〜下旬ごろに
発生していましたが、最近では、10月にならないとマツタケ発生のニュースを聞
かなくなりました。

「豊凶を左右する雨」
 マツタケの豊凶を最も大きく左右するのは、刺激日から約一カ月間の雨量で有
ると言う筆者の研究報告によれば、今からい30年くらい前の刺激日から一カ月
間の11年間の平均雨量が166mm、近年6年間の平均雨量が98mmと、雨量は
以前の約60%にまで減少していることが生産量減少の一つでしょう。
 さらには、松くい虫によるマツ枯れ、マツ林放置による環境悪化、マツ林の高齢
化など悪条件が重なっています。

「マツタケ王国復活を目指して」
 こういった悪い状況を打破しようと、マツタケ研究会や県内各地のボランテア団
体によってスーパーマツを植える取組などが行われている。でも、それだけでは
王国復活は遠く感じます。
 ここで一つの提案は、広島県の特徴を生かした組織づくりをしていただきたい
と言うことで、アカマツ林造成を推進する部署及びマツタケの林地栽培(工場内
での人工栽培ではない)を研究する部署を是非新設して頂きたい。

 



            高陽中学校 創立時の思い出

                        第二回卒業生 深川八丁目 向井栄吉さん


          

 戦後の教育制度改革(昭和22年)により、6・3・3・4教育限制度が導入されその
前半の9年間で、義務教育が終了することとなりました。 この時代に各市町村
に新制中学が設置されました。
 この時代は、昭和21年以前の教育制度を旧制、昭和22年以後を新制と区別
して呼びました。

 ちなみに国民学校初等科は小学校へと呼称が変わり、高等科が新制中学校
へと変って行きました。 旧制の中学・高等学校は、新制高等学校・新制大学と
なり、すべて旧制・新制と区別した時代でした。

 さて私は、昭和23年4月に深川(新制)中学校に入学しました。
入学しても中学校の校舎は無く、深川小学校の講堂に仮住まいの状態で1年か
ら3年生まで授業を受けたと記憶しています。
 当時、昭和8年生まれから昭和10年生まれまでの中学生が、最初の新制中学
校の生徒として教育を受けました。

 時は同じく、昭和23年4月よりfy川小学校隣接地の田圃に高陽中学校の建設
が始まりました。 この建物は、国から旧日本帝国海軍大竹潜水学校の校舎の払
い下げを受けたものであり、二度のお役目を果たす校舎で、大切に使ってもらい
たいと初代校長から聞かされました。
 構造物は、中廊下で木造二階建て、廊下の両側に教室があり、上下で20教室
があったと思います。
 大竹からの移設・建築工事を行い、昭和24年3月末に、木造二階建ての校舎
一棟附属設備として木造平屋建ての管理室一棟、木造平屋建ての倉庫一棟が完
成しました。これが高陽中学校の創立となりました。

 昭和24年4月に旧安佐郡5ヶ村(狩小川村・福木村・深川村・落合村・口田村)
組合立高陽中学校として開校しました。
 1年から3年生まで揃っての開校となりました。(1年生は入学、2・3年生は編入)
この時、昭和9年生まれから昭和11年生まれの年代が、創立当時の高陽中学
校の生徒となりました。


 当時、全校生徒は586名(うち福木分校110名は24年一学期のみ本校通学)
教職員数30名(うち福木分校10名)で、初代校長 花本 務 氏 (故人)のもと
開校しました。。
 福木分校については、昭和27年11月に独立し、福木中学校として歩み始めま
した。

 昭和30年3月、旧安佐郡4ヶ村(狩小川村・深川村・落合村・口田村)は合併に
より高陽町となり、学校も学校組合立が解かれ、高陽町立高陽中学校と名称を変
えました以後、時代の変化と共に学校教育の充実が図られました。
開校以来、63年の年月が経過し、大きく発展してきました。 これからも郷土の中
学校として、ますますの発展を御祈念申し上げます。

 終わりに、この中学校で指導にあたられた先生方や学生生活を送られた方で、
惜しくも亡くなられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

  校歌の歌詞について  森岡 正 氏 (故人)

 創立2年目の昭和25年4月に私は本校に国語の教師として赴任し、早々に学
校長より、校歌の作詞を命じられ、 作曲担当の住田先生と相談してその任に当
たりました。 4句3小節で七五調、覚えやすくかつ歌いやすいことをねらいとした校訓を詠み込んだものです。

第一章
  四方を囲む山の緑の中の立派な学 校に集いくる
  生徒たちは、生まれながらの、くもり のない本性を、 いよいよ明るく、ほが らかに磨きあげよう。           

第二章
  千古の昔から流れてやなない清らかな三篠川は、若鮎が群れをなして更に
 上流を目指してとびはなのばっていくように、無垢にして汚れのない澄んだ心で
 お互いに固い絆で結ばれて共に学ぼう。

第三章
  朝明けの茜の雲のなびく空に永遠の光が母校を写し出す如く、一筋に
  素直な心で他をもおもいやる心を共に育もう。

 建学の精神の「明・浄・直」を心に、機会あるごとに、高らかに歌って、常に
明るく、知友との絆を固く、一層の精神を望んでやみません。
 (高揚中学校50周年お祝いの言葉より抜粋)



        「五か村立高陽中学校」 第一回卒業生」
                       
                              小河原在住  重満明彦さん

 60年以上も前のことなので、記憶がだいぶんあやふやですが・・・・・。
昭和22年「新制中学」が発足して、それまでは、小学校に併設されていた
「高等科」が中学校となりました。
 小生たちは、できたばかりの「狩小川中学校」の1年生になりました。狩小川中学校といっても名前だけで、校舎も教室も今までの「高等科」のものそのままです。

 昭和24年の春、深川小学校の校庭の一角に、「高揚中学校」ができました。
 小生たちは、その3年生になったのです。校舎は木造2階建てでした。校長は花本務先生です。
 狩小川村・深川村・落合村・口田村、そして福木村の五ヶ村組合立の中学校でした。

校章の五角形は、この五を表しています。校章は、小生たち生徒みんなで考え
て作ったものです
。五角形にすることは、早い段階ですぐに決まったように記憶
しています。
 今、「学校要覧」を拝見すると、ペンは学問を、光は太陽を表しているとありま
すが、そのあたりのやりとりは記憶にありません。


 ところが、2学期目に、福木村は自前の中学校を作ったので、四か村の生徒
だけになりました。
 校章を四角形にしようなどという話はなかったように思います。

2学期の前の夏休みには、みんなが手分けをして、峠越えをして福木中学校
に荷物を運びました。
 もちろん当時のことですから歩いて運んだのです。
 福木村からの生徒は、1学期だけの付き合いだったので、友達はほとんどで
きませんでした。このようにして、昭和25年の春、高揚中学校の第1回の卒業
式が行われたのでした。

        
                            昭和24年度教職員

        
        写真は、校舎をバックにした卒業記念写真です。3クラスのうちの1つです。



        随筆 「故郷 安佐町」
                          
                        安佐町飯室  湯山 清 さん

 
昭和28年10月の町村合併促進法施行に伴い、安佐郡北部の五ヶ村(久地・
日浦小河内・鈴張・飯室)が、昭和30年3月31日に合併して安佐町が誕生。

 時の町勢             
                     
町章(昭和42年9月25日制定)   
  世帯数   2.388世帯   
この町章の図案は安佐町の頭文字
  人 口   11.176人    
片仮名の「ア」を図案化したもので
  面 積   107.9Ku    
雄飛する鳥を型どり、また輪は鳥の
                   
  翼の融和を示し、曜進安佐町の姿を
                     
あらわしたものです。

 昭和45年5月3日、広島市長から合併申し込みあり。
安佐郡七ヶ町のうち沼田町が合併、続いて安佐町と逐次合併。
 安佐町は、昭和46年5月20日、広島市に編入され地方自治体の安佐町、
足かけ17年で終わる。
 又、広島市は、周辺町村との合併を進め、昭和55年に7つの区をもつ全国
10番目の政令都市となり、安佐・可部・高陽・白木の各町とで市全体の面積の
約半分を擁する安佐北区となる。

  安佐町のあゆみ

昭和30年
 4月1日  新生安佐町 
飯室小学校の3教室を仮庁舎に、飯室を除く旧四
ヶ村に役場支所を配置。

 制度に従って、
首長並びに議会議員の選挙、新町の予算、旧村の決算に
連日の残業。
 町民合併非難も多い中、役場建築は予定通り進行し、多忙な1年は過ぎる。

初代町長は、桑原精一氏  議長  尾山光義氏

昭和31年
 3月21日  木造瓦葺一部二階建    
中庭が池で何処か観光地旅館の様な
モダンな新庁舎が完成し、
「安佐町役
場落成・新町建設を誓う五ヶ村合併
祝賀式」
大原県知事を迎え、盛大に
挙行される。
新規事業として、農山漁村振興計画
指定を受け、新農村建設事業始まる。
 今は廃止されている国鉄可部線も
神武景気でサラリーマンも多く、
毛木
今井田の2ヶ所に無人駅が営業開始。

  
                                       [庁舎落成式 桑原町長の式辞]
昭和32年
合併に対する町民の不評もうすらぎ、一体化も様相も見え、小団地開発整備事業
の指定を受け、久地追崎・野冠にそれぞれ畑地かんがい施設完成。
 新農村建設事業のうち有線放送設備も一部完成(鈴張・飯室地区)

昭和33年
 前年、昭和32年3月21日飯室・布部落で山林約50haの大火災の影響か、
第5分団に消防ポンプ自動車購入。
安佐郡消防ポンプ操法大会で優勝する等、消防の充実の年。
その他では、
稲の害虫うんか大発生で防除器具等整備。

昭和34年
 
新農村建設事業の有線放送施設完成し、町内全域の利用が可能となる。
4月29日  町長、町議の一般選挙
 町長は、桑原精一町長から皆田武町長へ
議長は、島津鉄雄議長から三崎初太郎議長へ交代。                       


昭和35年
 後山の野登呂山国有林を安佐町有林として
払い下げを受ける。
 事務改善で、
役場4支所を廃止し、連絡車
(移動役場)を運行する




                                             
【移動役場】
昭和36年
 旧村単位の新制中学校の統合(5校を1校)を決定。 用地交渉始まる。
町民の教育に対する認識は高く、借地を含めて用地は確保。
 9月には、消防団員552人を382人に減員。

昭和37年
 中学校建設のため緊縮財政を宣言する。
3月には、
校名を一般募集し、清和中学校と決定。
  議会議員定数も26名を20名に変更し、職員は古い官報で休憩時間に
  封筒を貼り庁内用とし、各種団体の補助金も減額する。
  県道広島江津線 2級国道昇格となる。
7月に清和中学校用地造成。 
  自衛隊による第一次造成工事完成(7.173坪)
10月に清和中学校校舎起工式。

昭和38年
 1月 未曾有の豪雪
 4月 議会議員一般選挙。  選挙区全町1区となる。
 5月 自衛隊による第二次用地造成完成
 7月 雷雨をともなう集中豪雨に見舞われ、被害802ヶ所、 被害額1億6千万円。
 9月 清和中本館部分完成により実質統合。校長・教頭・事務職員も町役場の
    2階間借から校舎へ移動する。

昭和39年
  3月 農業構造改善事業、飯室花木温室完成。
      町内用所に防犯灯100ヶ所設置。犯罪のない明るい町づくりにのりだす。
 11月
清和中学校落成式。第13師団長ヘリコプターで隊員が造成したグランドに   
      降り立ち、多くの来賓と式場へ向かい花を添えて頂く。  
 

         
                     [完成した清和中学校]

昭和40年
 中間農林業センサス実施(農家数1.719戸。143戸減少)
 11月 安佐町発足10周年記念式挙行。
      安佐町立小・中学校給食センター完成。

昭和41年
  9月 NHK安佐テレビ局式挙行
 10月 後山に広島自然動物公園立地決定。
 12月 皆田武町長、県議出馬退職に伴う町長選挙実施  鈴木修氏当選

昭和42年
  7月 町史編集委員会発足
  9月 
安佐町の町章制定。

昭和43年
  安佐町総合計画策定完了。「緑と詩
(うた)の町」建設に一歩踏み出す。
  7月 広島市自然動物公園起工式挙行

昭和44年
  3月 安佐町交通安全総決起大会開催
      安佐中央公民館落成式挙行
  4月 
日本最初の有料道路「幕の内隧道」予定どおり15年で無料開放
      実は、当初の建設費約1億5千万円に維持管理費、合わせて、
      約3億円の赤字、他の有料道路とのプール制で解決と聞く。
  6月
 筒瀬にゴルフ場立地決定。
 12月 広島市青少年野外活動センター立地決定。

昭和45年
 
 5月 広島市長文書で合併申し入れ。
  7月 三国花木団地造成工事起工式。
 11月 広島市安佐町合併研究協議会設置。

昭和46年
 
 2月  広島市安佐町合併協議会設置議決。
  2月  合併協定書及び建設計画書調印。
  3月  昭和46年5月20日から安佐町を廃し、
その区域を広島市に編入
      することについて議決。
 5月19日
 安佐町役場閉庁式。
 5月20日 広島市に編入。 広島市役所安佐支所開所式。
 8月31日 
安佐動物公園開園式。
10月16日 
青少年野外活動センター開園。
11月    広島中央ゴルフ場竣工。


  以上、「安佐町のあゆみ」。17年の年表のような随筆になりましたが、広
 島市に合併して早40年、歴代町長の中国横断自動車道広島・浜田ルート
 実現の意志が広島市へ引き継がれ、昭和58年には、幕の内トンネルの近
 くに広島市最初の「広島北インター」がオープン。その後道路網も整備され
 安佐町域内14本のトンネルを擁するトンネルの町になる。国道191、54
 号線から可部運動公園入り口までの改修工事が待たれている。


  
今、夢見ていることは
 
  往時、南北朝時代、太田川沿いの、古生層地帯を中心に良質な木材産地
 「安芸榑
(くれ)」と呼ばれ、全国有数の杣地区として、戦後まで栄えた集落も
 今、寂れている。
 「コンクリートから人へ」」。「安芸榑
の再生復活を期待している。


 
 ※杣 ・ ・ ・ 切り取るための木を植えた山、その木を切る職業の人(きこり)

          
                    往時の天狗松点描


          



           [朝市15周年をかえり見て]
                                 
                               かるが朝市 百目正美さん
     
 平成6年11月農業委員会のおすすめもあって、産直一号店としてJA狩留家
支店前にて会員30名でオープンする事になりました。
当時週休5日制が取り入れられ、企業も土曜.日曜は休みとして根づいた時
期でもあり、土曜日を設定し朝市を開催する事としました。
   
     開店時間も
冬場は、AM7時〜10時迄 (10月〜3月末迄)
            
夏場は、AM6時〜10時迄 ( 4月〜9月末迄)

 オープン後は口込により、遠くは広島市内.戸坂.温品方面より、近いところ
では倉掛.真亀.亀崎団地.福田.白木方面より多数の方の来店で行列が出
来るほど順調な伸びでした。売上も最高で年間1,300万円もありました。
かるが朝市は、加工品.特産品も多くご利用下さる方が増加して行った理由
の一つだと思います。
        
 加工品(もち・味噌・ジャム・ポン酢・キムチ・漬物)
         
特産品(完熟とまと・苺・いちじく・筍・甘柿・椎茸等)

 野菜では、旬のものが少量多品種売場をかざり、順調に伸びておりましたが
JAの経営改善で狩留家支店・上深川支店が小河原支店に統合される事とな
りました。この時期、各地区には多くの朝市もでき来店客も減少傾向で、会員
も高齢化が進み徐々に減少、支店がなくなったら今後朝市をどうするか場所
等をいろいろ検討していましたが、狩留家支店前の土地をお持ちの沖原様よ
朝市に使ってもいいよ、と暖かいお言葉をいただきました。

 早速、鉄パイプで売場を作り再出発する事が出来ました。感謝しております。
会員も再出発できることで地産地消を合い言葉で安全で安心な野菜作りに
頑張っておりますが、田畑には、鹿.猪.猿が出没。柵のない田畑では野菜
が収穫できません。これが狩留家の実情です。

 現在では、広島の百米道路で毎週日曜日に開かれている広島朝市にも出
店し、成果も上がっております。
過去15年間の売上1憶4,000万円については、会員にとっても地域にとって
も成果があったと思います。

 これからも会員一同、安心・安全な野菜作りに努力いたしますので、
ご利用いただきますようお願い致します。



   日本の介護食をかえる
   
                       介護老人保健施設ふかわ・くにくさ
                                   横山輝代子さん

 医療法人社団 あと会 介護老人保健施設ふかわ・くにくさは、周囲を
緑豊かな自然に恵まれた上深川町に平成16年10月開設以来、地域の
皆様に少しでもお役にたてる施設を目指して日々運営しております。

 介護老人保健施設とは、病状が比較的安定された方が、個々の能力に
応じた自立や自宅での生活を目指し、リハビリを含む看護や介護などの
適切なサービスを提供する介護保健施設です。
 病院が、人の病気を治すところであるとすれば、この施設は病気の人と
生活するところでもあります。日々の生活の中で食事は、私達同様、施設
で暮らすご利用者にとっても最大の楽しみのひとつです。私ども
あと会
では、ご利用者にとっての
よろこびである食事を、自前の厨房で試行
錯誤を繰り返しながら研究を重ねお出ししています。

 今では、噛む力や飲み込む力の衰えた高齢者にあわせ、さまざまな食
事形態が用意されていました。
「普通食」から始まり、硬い食材を刻んだ
「きざみ食」さらに細かく刻んだ「極きざみ食」、そして最も噛む力や飲み
込む力が衰えた高齢者にお出しする食事は、ミキサーにかけてドロドロ
にする
「ミキサー食」です。「極きざみ食」「ミキサー食」は、味や香りは
工夫出来ても食材そのものに形がないため、見た目が悪く、食欲がわく
食事ではありません。
 実際に食べてもとても美味しいとは言えない食事でした。

 そんな問題意識を抱えた中、当会の管理栄養士が、広島県立総合技
術研究所 食品工業技術センターが開発した
『凍結含浸法』のセミナーを
受講する機会に恵まれました。
『凍結含浸法』とは、たけのこ・れん根・ご
ぼう等の硬い食材でも、形・香り・味 栄養成分を保ったまま、舌で潰せる
ほど軟らかくする驚きの技術です。
「見た目は普通食で口に入れると舌
で潰せるほどやわらかい」
そんな高齢者施設にとっては夢のような技術
でした。
 
あと会では、早速食品工業技術センターと極きざみ食ミキサー食に代
わる
「形あるやわらかい食事」をご利用者へ提供する為の共同研究を始め
ました。法人内にプロジェクトチームを作り、試作・試食を繰り返した結果
『凍結含浸食』の実用化に成功しました。そして、この『凍結含浸食』の導
入により、現場から驚くべき成果が報告されました。

 寝たきりの状態に近く、また体力も衰えてしまい、いつでも
「極きざみ食」
のみのご利用者がいらっしゃいました。食事を目の前にしても、箸もつけ
ずに眺めていらっしゃるだけでした。
「極きざみ食」は、見た目が悪いばか
りか、いったい何の料理なのかさっぱり分からないため、食欲がわかない
のも無理はありません。
『凍結含浸食』の料理は、れん根のように硬いも
のですら、見た目はそのままです。味もはっきり分かります。素材が何であ
るか分かるおかずに、ご自分から箸を使って食べられるようになりました。
箸でつまんで口に入れて舌を使ってゆっくり潰し
「これは鮭よ。これはれん
根よ。ああ〜美味しいねぇ。」
などとおっしゃり、とても満足されました。自然
と摂取量も増えてきました。
「さあ〜食べよう」と言う意欲も増してきたのか
姿勢までよくなられました。

 また、自宅で段々と硬いものが食べられなくなり、体力も衰え、ついには歩
くことすら出来なくなり、ショートステイをご利用されたあるご利用者は、衰え
ていた食欲がうそのように、入所したその日から
『凍結含浸食』をすべて召し
あがられました。そして、段々と体力が回復し、リハビリをされて3ヶ月近くで
歩けるようになり、ついにはご自宅に帰る事が出来ました。
 その後は、食事は家族と同じ物を食べ、庭に出て草取りが出来るまでに回
復されました。本当に職員一同改めて食事の大切さに気付かされました。

 笑顔で食事を召し上がられるご利用者を目のあたりにして、この
『凍結含
浸食』
「介護食の革命になる」と確信しています。と同時に、これからの介
護は
「見た目に美しく形があり、美味しく食べられる食事」に変えていかなけ
ればならない。 と強く感じました。

 まだまだ
『凍結含浸食』は完成ではなく、日々研究を続けています。
今後もご利用者の栄養改善を図るため、利用者中心に考える食事の提供
に努め、幸せな生活を送って頂きたいと願っています。
 食は科学です。現在
『凍結含浸法』の技術を高める事を目標としています。
その為には、職員の質が向上し続けなければならないと考えています。
地域で暮らす高齢者の皆様に
「やすらぎ・よろこび・ゆたかさ」のある生活を
提供する法人理念実現のため、今後も地域の皆様にご指導を戴きながら
日々努力してまいります。