【史跡】

恵下山遺跡
【恵下山・山手遺跡群】
県史跡
●所在地:安佐北区真亀三丁目23番
●指定年月日:昭和49年4月25日

 
高陽ニュータウン」建設中に発見された遺跡群で、恵下山遺跡、恵下山城跡、山手遺跡の三つに分けられます。


@恵下山遺跡

   弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての集落跡と、古墳時代後期の古墳から成り立っています。尾根上にある住居跡は、直径6m前後の円形で、2〜3戸ずつまとまっています。また、古墳は、横穴式石室を持つ円墳で、石室内からは須恵器、鉄刀、馬具などが出土しました。
A恵下山城跡
   
この城は、規模は小さかったようですが、西を流れる太田川や南側の谷を天然の外堀としてうまく活かしており、本丸、二の丸を始め、外郭を含む七つの郭で構成される典型的な中世の山城です。また本丸周辺からは、国産の食器類の他、中国製、朝鮮製の磁器や、硯、砥石などが出土しており、生活の様子をしのばせます。
  この城は、鎌倉時代末期から室町時代後期のものと言われますが、城主は明らかではありません。『陰徳太平記』には、対岸の八木城主香川氏としばしば抗争していたと記されています。
B山手遺跡
   弥生時代後期の集落跡と古墳時代の土壙墓から成っています。住居は一辺が4〜6mの隅丸方形で、4〜6本の柱を使用したものです。この集落跡は、谷一つ隔てて北側にある恵下山遺跡と同時期のものです。

西願寺山墳墓群
【西願寺山墳墓群】
県史跡
●所在地:安佐北区口田二丁目27番
●指定年月日:昭和49年4月25日


    西願寺山墳墓群は、太田川東岸の二ケ城山から西に向かって延びる丘陵尾根上にあります。昭和47〜48年に、宅地開発に先立って調査され、5か所にわたる遺跡の存在が確認されました。
   保存されている2か所の遺跡は、丘陵の尾根を削って造った平らな面の前後を、溝で区切った墓地でした。その中からは多くの土壙墓、竪穴式石室などが見つかりました。中に穴を掘って遺体を埋葬した土壙墓は、すべて手足を伸ばして葬る伸展葬で、素掘りのものがほとんどです。なかには壁に沿って石を並べたものもありますが、これは石の内側に木棺を置いていたことを示すものでしょう。また、河原石を積み上げ、造られた竪穴式石室には天井石がなく、初めから何もなかったか、木蓋を用いていたのでしょう。
   これらの墳墓の上には盛り土がほとんどありませんが、握りこぶし大の河原石が敷かれ、石の間から死者に献じられたと思われる土器や鉄斧が出土しています。また丘陵の先端にある墳墓では、石室の中から、のみ、斧、剣、小刀、鎌などの鉄製品が特にたくさん出土しています。その中の鉄斧は、大陸から渡来したと考えられる鋳造品で、当時としては大変珍しいものです。
   こうしてみると、これらの遺跡は、弥生時代から古墳時代の初めにかけて営まれた共同墓地と考えられますが、その中にも特定の個人を厚く葬る墓が出現しているようです。これは、階級や身分が発生して、次第に権力者が現れてきたと言われるその頃の社会を知るうえで、重要な手掛かりとなっています。

【天然記念物】

松笠観音の巨樹群
【松笠観音の巨樹群】
市指定天然記念物
●所在地:安佐北区口田南町岩坪2211松笠観音境内
●指定年月日:昭和59年3月19日
●概要:主要樹木の目通り幹囲=スギ・3.45m、2.90m、2.15m、ヒノキ・2.65m、アベマキ・3.10m、モッコク・1.90m(地上1m高の幹囲)

   東区中山から安佐北区小田にかけて、南北に細長く横たわる通称東山の中腹に、松笠観音があります。アカマツ林の中を抜ける細い登山道から境内に入ると、そこは巨樹に取り囲まれ、ひっそりと落ち着いた雰囲気を漂わせています。本堂の東側にある大きなスギは、胸高幹が4m近くもあり、これに肩を並べるようにして他のスギやヒノキ、モッコク、アベマキなどの巨樹が、ずらりと立ち並んでいる様子は壮観です。その1本1本が、それぞれに見事ですが、中でもモッコクは県内有数の巨樹であり、「東野のモッコク」にも劣らないと言われています。
   樹齢数百年とされる巨樹が、ひとつの寺の境内に生育している例は他にはなく、大変貴重な存在とされていましたが、平成3年9月の台風19号により被害を受けました。特に地元の人々から「観音杉」の名で親しまれてきた目通り幹囲4.85mの大スギが倒れたのが大変惜しまれます。


☆ 広島市教育委員会の協力を得ました、ありがとうございました。☆

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