三篠川の支流である栄堂川沿いに出崎山神社はあります。もともと今より南の八幡原と呼ばれる地にあったものが、16世紀の終わり頃、今の地に移ってきたと伝えられています。
この出崎山神社の中で一番大きな建物が、礼拝するための施設である拝殿です。拝殿は残っている棟札によって、江戸時代の中頃の享保20年(1735)に再建されたことが判明しています。
建物の形式は、安芸地方で最もよくみられる神社建築の形式である三間社流造となっています。三間社流造とは、正面から見たときに柱間が三間あり、屋根の一方がゆるやかな反りをもって流れるように延びている神社建築をいいます。建物をよく見ると、室町時代の終わり頃と思われる材料が多く使われており、細部の装飾も室町時代によくみられる形式が用いられています。こういう状況からみて、江戸時代の再建は、最初に八幡原で建立された建物の材料を再利用しながら、建物の形式をも忠実に模したものと考えられます。現在では桟瓦葦となっている屋根もいつの時期、状態を指すかは明らかになっていませんが、藁葺だった時代もあるようです。
広島市域内で残存している最も古い神社建築は、江戸時代初期に建立された東照宮の建物であり、室町時代の建築のものが現在のところ確認されていません。こうしたことから、再建ながら室町時代の建築様式の概要を伝える出崎山神社拝殿は、本市域における室町時代から江戸時代にかけての推移を示す貴重な遺構といえるものです。
【金銅円板懸仏】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区白木町市川1244 順教寺
●指定年月日:昭和53年2月13日
●概要:円板径34p(但し木彫三尊仏を除く)
順教寺に安置される3点の懸仏のうち、一番大きなもので、金銅円板に、彩色された木彫りの仏像が取りつけられています。
懸金具部分の作り方などから、この懸仏が作られたのは室町時代初期のこととされています。ただし、中に取りつけられている三体の仏像は後に補われたもので、江戸時代末か明治時代初め頃に作られたようです。制作当初は、おそらく三体の仏像も金銅製のものだったと考えられます。
【銅円板懸仏】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区白木町市川1244 順数寺
●指定年月日:昭和53年2月13日
●概要:円板径21.5cm
順教寺にある他の二つの懸仏に比べて非常に素朴な感じを与える懸仏です。中央の坐像は、「押出造り」ですが、蓮座やその下の波の文様、仏の背後にある光背などは、鋼円板の表面に細い線を彫って表現した簡素なものです。また、銅円板は半円状のものを二枚を継ぎ合わせて作られています。裏面には木板が張りつけてあり、ごく簡単な裏書きが残っていました。おそらく室町時代末頃に作られたものと考えられます。
イチョウは中生代(約2億2千万年〜7千万年前)に繁栄した植物群の生き残りです。花粉管の中に精子があり、受精によって種子ができることや、葉の主脈と支脈の区別がないなどの原始的な特徴を持っていることから「生きた化石」とも言われています。日本では、神社、寺院の境内によく植えられています。
広島市の北端部にある新宮神社の大イチョウは、高さが約35mにもなり、その姿は遠くからでもはっきり見ることができます。根元はこぶのように盛り上がり、また樹皮のところどころには小さな乳柱が見られ、この木の古さ(樹齢推定約600年)を物語ります。
この大イチョウは広島市内に見られるものとしては、最大のものです。その姿は四季の変化を反映して移り変わり、周囲の環境に調和した美しい名木としても大変価値の高いものです。