深川組仏教壮年会インド仏跡参拝旅行 2010年2月13日〜20日、18名でお釈迦様がおられたインドへ行ってきました。 善徳寺からは、住職を含め5名の参加。どのような旅となったのでしょうか! 【1日目】 午後1時、関西国際空港よりエア・インディアに乗り、いざインドへ。2回の機内食はもちろんカレー。インド気分も高まります。香港経由の11時間で、デリーに夜、到着しました。(時差は3時間半です) 飛行機から出ると少し肌寒く、異国の匂いがします。迎えの人波を抜け、空港建物の外へ。道路にはたくさんの自動車がおり、クラクションの音がすさまじく鳴り響きます。駐車場には、タタ以外にも、メルセデスやBMW、トヨタ、スズキなどの見慣れた車も並んでいます。バスへ乗り込み、空港近くのセントールホテルへ。そのバスも、クラクションを鳴らし、中々激しい運転。ウソだろう!というタイミングで本線へ合流。日本ではあり得ない運転で、先が思いやられます。 バスで現地ガイドさんがひとこと。「インドを楽しむコツは、気にしないことです」とのこと。この言葉、あまり気にしていなかったのですが・・・。 心配していたホテルですが、意外に綺麗でした。戸惑ったところといえば、トイレが上手く流れないことでした。流れない場合、トイレ脇に準備されているバケツで流しました。これは、道中のほとんどのトイレに常備されていましたが、現地の人が左手でお尻を拭いた後、洗うのにも使用するのかもしれません。この件、同室の友だちいわく「心を込めてレバーを引けば、流れる」とのことです。 【2日目】 6時過ぎに起床。外へ出ると霧で遠くが見えず、デリーの街自体がどのようなものか、様子をつかめませんでした。朝食はバイキング。様々なカレーや見慣れない料理が並びます。 朝食後、デリーからパトナへ飛行機にて移動。ちなみに飛行機の出発時間は、すでに大幅に遅れています。パトナ空港では、お金や物をせびる子どもに、初遭遇。心の準備をしていたので、驚きはしませんでした。純真そうな子どもの大きな眼差しに、少し心が痛みましたが、何も渡さずバスへ乗り込みました。約60キロ離れたラジギールへ向かいます。 道中の街並みは、ゴミが散乱し汚く、たくさんの人がいます。そして、壊れているのか、作りかけなのか分からないようなレンガや土、木の建物が並んでいます。また、田舎へ行けば行くほど、その風景はひどくなっていきます。 車中にてインド自体にうんざりしかけているところ、さらに悪いことが起こりました。大渋滞です。田舎の一本道が、トラックで埋まっています。また、乗用車などは、大きな音とともに対向車線をお構いなく突進。対向車も交え、パニック状態でさらに渋滞は悪化します。 さて、このひどい渋滞のため、昼食を取ったのは、午後5時。ドライブインで、カレーとナンを食べました。豆やジャガイモやチキン、チーズのカレーが、パリッとしたナンによく合います。また、少し薄めのキングフィッシャーのビールも食欲をそそります。ちなみに今後、このキングフィッシャービールを、目にしない日はありませんでした。 結局、予定は大幅に変わり、本日の観光はなしとなり、法華ホテルへ直行。添乗員は「こういうのが、インド旅行の醍醐味です」と言い切るが、素直にインドを受入れられない自分がいます。ホテルの門には、ライフル銃を持った門番もいて、少しびびりました。
大浴場につかり、夕食は、インド食ではなく、白いご飯と味噌汁が出ましたが、残念ながら匂いが気になりました。うれしかったのですが・・・。 長時間の移動とインドに対し精神的に参ったので、午後9時に、速攻で寝間へ入りました。「もう、インドはうんざり。日本に帰りたい」と早くもギブアップ気分。しかし、疲れがひどく、頭を整理する間もなく、いつの間にか眠っていました。 【3日目 その1】 早朝5時起床。早く寝たためか、昨日の疲れが嘘のように消え、妙に目覚めの良い朝となりました。 いよいよ仏跡参拝の開始です。ただ、今日は、昨日回れなかった所も回るので、ハードな一日が想像されます。機嫌よく「ナマステ!」と運転手さんへ手を合わせ、バスへ乗り込み、いざ霊鷲山(りょうじゅせん)へ。 薄暗い街を車窓から望むと、小さな灯りに照らされ、すでにたくさんの人が、歩いていることが分かります。「何でこんな朝早くから、こんなに人がいるのだろう」と不思議な気持ちになります。 乗車して15分後、登山口に到着。バスから降りるといきなり、数人に囲まれ、「3つで1000円!」の声。物売りたちです。しつこく売りに来るということは聞いていましたので、思わずダッシュで逃げてしまいました。 みんなも無事、物売りの検問をパスして登山道へ。まだまだ薄暗いので、足元に気をつけながら、舗装された道を登ります。20分ほど歩いたでしょうか、鷲の頭のような岩が頂上に見え始めました。旗らしきものもにぎやかに飾られています。 頂上に着く頃には、美しい日も昇り、私たちを歓迎してくれているかのようです。しかし、歓迎してくれたのは、太陽だけでなく、その場を管理している人たちでした。 その行動に、「露骨なことをするな」と気を取られていると、お勤めが始まりました。お勤め中、「ここでお釈迦様が・・・」と感慨に浸りたかったのですが、さっきの布施のことや、物売りのことが、頭に浮かんできます。大切な場所なのに、私のペースにさせてくれないインドです。 ![]() ![]() ![]() 下山中は、言うまでもなく物売りに囲まれ、さえない私。野生のサルやロバの姿が元気づけてくれましたが、物乞いの老人達の姿に、またもや気分は落ち込んでいきます。 バスに乗り込み、次の目的地に向かうと、物売りの彼らはオートバイに乗り先回り。ビンバシャラ王が幽閉されていた牢獄の跡地だったのですが、やかましく、せわしく、「せっかくの場所。静かに見させてよ」との気持ちでいっぱいになりました。 ちなみに彼らが売っていたものは、念珠にも使える珠。手に取ることをしなかったので、品質などは分かりません。 一旦ホテルに戻り朝食を取り今度は、ナーランダの仏教大学跡へ。開門時間より早く着きました。すでにたくさんの現地の人やタイやネパール人などが並んでいます。 芝生に挟まれた、レンガつくりの巨大な建物(跡)へつづく道を歩きます。静かで気持ちよいのですが、後ろを振り向くと門の外には大勢の人。なにかやるせない気分です。 気を取り直し、大学跡地へ。5世紀から12世紀にわたり仏教教学の最高府として栄えたところです。最盛期には1万人ほどの学僧がいたとのことです。 侵略を受け破壊されたのですが、学僧の部屋跡や図書館跡をはじめとしたレンガの残骸の巨大さが、その当時の凄さを表しています。しかも、まだ発掘は半分程度のこと。ここから、仏教が世界へ発信されたのです。 ![]() ![]() ![]() 【3日目 その2】 ナーランダ仏教大学遺跡を見た後、法華ホテルへ戻り昼食。 昼食後の休憩時間、乾いた空気が気持ち良いので、芝生に寝転がり目を閉じていると「こんにちは」との声。 要約すると、彼は現地ガイドで、今回は台湾の人の引率。中国語は、学校でマスターし、日本語は独学中とのこと。そして、おもむろに私のノートへ、自分の住所と電話番号、メールアドレスを記入し始めました。「私は、日本の女性と結婚したいから、いい女性がいたら紹介して!」とのこと。これが、声をかけてきた理由だなとニヤリ。出発時間になったので、「GOOD LUCK」と握手して別れました。 さて、続いて前正覚山へ。ここは、お釈迦様が、苦行をやめられた後に、登られた山。しかし、ここは、さとりを開くのにふさわしくないとのことで、山を降り、ブダガヤの菩提樹の下に行かれたといいます。 この山に行くには、道が狭いので、近くの町にてタタ製のジープへ乗り換え、山のふもとへ向かいます。さて登ろうとすると、早速、コインがたくさん詰まった袋を手に、物売りさんが寄ってきました。どうやら、登山の途中にいる物乞いに、あげるための両替のようです。 何も出来ない自分のもどかしさやらを痛切に感じながら目的地へ到着。ここへは、物乞いや物売りは入れないようです。お釈迦様がおられたという洞窟がありましたが、見学する気分ではなく、「下山の時どうしようか」とばかり考えていました。 ![]() ![]() しかし、よくよく考えてみると、ここの物乞いは、不自然に等間隔に並んでいるし、力なさそうにしているわりには、その場所まで歩いて上がったのだろうし、また、立ち止まらない観光客には、元気な男性が背を押したり、子どもが付きまとったり、恐らく、この人たちは、ひとつのグループで、それぞれに役割があり、この山を仕事場に稼いでいるのだろうと推測されます。恐らく、大元締めが結局、搾取しているのではないかとも思われます。彼らは、物乞いでなく、仕事人だと割り切ると少し気が楽になりました。 ひとしきり見学の後、下山。すると、先ほどの女の子がまたもや、お伴にきました。「暑いね、お腹減っているの?」と通じない日本語で声をかけながら、せめて笑顔をとニコニコ顔で対応しました。結局、混乱を恐れ、何もあげずに出発。子ども達は、何もあげてないのに笑顔で手を振り追走。手を振りかえしながらも、その笑顔を見つつ、物売りや物乞いの人に対し、頑なに構えてしまう自分自身が惨めに思えて仕方なかったです。 続いてお釈迦様が苦行をやめられた後、スジャータから乳粥の布施を受けられたセーナ村へ。この村からは尼蓮禅河という大河をはさみ、ブダガヤの大塔が見えます。河は乾季につき沙漠のようですが、セーナ村からながめは、夕日と重なり何ともいえないものでした。 さてさて、続いてはブダガヤです。お釈迦様がさとりを開かれたという仏跡でも最高の聖地で、私が一番行ってみたかった場所です。 凄まじい数の物売り達を掻き分けながら、大塔へ。中には、金色に光るお釈迦様の像があり、世界各地の人々が、大塔前で手を合わせておられました。そして、裏手に回ると、菩提樹と金剛法座がありました。「ああ、ここだ!」と一同感嘆。色とりどりの法衣を身につけた世界各地の僧侶や人々が、その法座を囲みお勤めしています。私たちもと、一角に座りお勤め。私事ですが、調声をさせていただき、一生の思い出ができました。 ![]() ![]() ![]() 気分が高揚したまま、本日の宿泊先ロイヤルレジデンシーへ。食事中2回ほど停電がありましたが、混乱もなく就寝しました。ちなみに就寝前、日本食が恋しく、満腹でありながら、カップ麺(どんべえ)を食べたのは秘密です。 【4日目】 本日は、お釈迦様がさとりを開かれたブダガヤから、初めて法を説かれた所、サールナートへ大移動です。距離にすると、250キロ、バスで約6時間の行程です。 今日も空気が乾き良い天気。午前8時、バスに乗り込みいざ出発。ブダガヤの街並みに別れを告げ、高速道路へ入ります。日本のように綺麗に整備された道路ではありませんが、片道二車線の道路で、大体時速70キロで疾走します。畑に囲まれたのどかな風景が続きます。 少し落ち着けそうだと、景色に目をやっていると、前方から大きなクラクションが。「何事?」と前を見ると、トラックがこちらへ向かって接近中。「え〜、ぶつかる!」と焦るも、こちらのバスが、避けて事なきを得ました。これは日本でも、問題になっている高速道路の逆走です。 「インドでもこういうことがあるのだな。人口も多いし、交通ルールを知らない人がいても、おかしくないよな」と思っていたら、そうではなかったのです。というのは、その後頻繁に逆走車に遭遇。車だけではなく、バイク、自転車、らくださんまでこちらへ向かってやってきます。日本では、到底考えられない光景です。 聞けば、高速道路の中央分離帯には、所々隙間が空いており、反対車線側へ目的地がある時は、このように逆車線に入ってくるとのこと。 ちょっと、ここでインドの高速道路の仕組みを。基本的に入るところはどこからでもOK。小道が高速道路へつながっています。通行券を取るようなところは、ありません。途中に何箇所か料金所があり、そこで車種に応じた料金を払うようです。もしかしたら、料金所の手前で脇道に入り、料金所を避けて高速道路へ戻ればタダで通行できそうな感じです。(都市部では違うかもしれません) また、走っている車は、トラックがほとんどで、この区間ではあまり自家用車は見かけませんでした。途中の街では、行きかう車の隙間を縫い、多くの人が高速道路を渡るので、ドキドキしました。 ![]() ![]() ![]() 食事を終え、バスに揺られ、午後3時頃、サールナートへ到着。ここは、初転法輪の地、お釈迦様が最初に法を説かれた場所で、ブダガヤでさとりを開かれ、7日かけてこの地に来られたようです。誰に法を説かれたかというと、共に苦行をされた5名の修行者。苦行を止め、菩提樹の下で禅定を始めた釈尊を非難したといわれる方々です。ダメーク大塔前の芝生で読経。たくさんの参拝者が、塔の周りをグルグルと回っていました。ここにお釈迦様がおられたのだなと感激。時空を超え、私の元にお釈迦様の教えが届いているご縁を有難く思いました。 そして、その後、博物館へ移動。さとりの内容を自分自身で味わっておられるにこやかなお釈迦さまの石仏のお顔が、印象的でした。 ![]() ![]() 参拝後、10キロ離れた本日の宿泊地ベナレスヘ。大きな街で人で溢れています。しかし、塵が舞う汚い街で、そのうえバスは進みません。渋滞の根源は、全く機能していない信号機。交差点には、警官がいますが、クラクションを鳴らし挙げ、みんなが好き放題の運転。大渋滞なのに、隙間を見つけては我先に進もうとしています。 譲り合いのひとかけらも見えない光景に、また心がやられ始めました。おまけに頭と腹が痛くなり始め、「なぜこんなところに来てしまったのだ」と絶望的な気分に。 何とか、渋滞を切り抜け、ラマダプラザホテルへ到着。立派なホテルで、その横にも近代的な建物がありました。日本にあるような清潔感溢れるショッピングモールの佇まいに、ホッとしたものの、今度はホテル内の匂いが、鼻につき始めました。香辛料の香りだと思いますが、「もうダメだ」と食事を途中で切り上げて、ベッドにもぐりこみました。気持ち悪さのうえ、身体が熱く、辛い一夜でした。 【5日目】 「リーン、リーン」とけたたましく鳴り響くモーニングコール。時刻は、午前5時前。外は真っ暗です。昨晩からの体調の悪さに、「このまま寝ていよう」との思いが一瞬よぎりましたが、そうはいきません。なぜなら、今朝はガンジス河の見学。ヒンズー教の信徒にとって、この河は聖なる場所。沐浴の場所でもあり、娑婆での命を終え、この河へ還ることが、彼らの何よりの喜びであるのです。 もちろん私はヒンズー教徒ではありませんが、「ガンガ(ガンジス河の愛称)に行かねば後悔する」と重い頭と気持ち悪さを抑え、髪も直さず、集合場所であるホテルロビーへ。まだ暗い中、バスに乗って出発です。 ベナレスの中心地にてバスは止まり、徒歩でダシャーシュワメードガード(ガンジス河の沐浴場所)へ向かいます。早朝にもかかわらず、沢山の人がいます。やかましい物売りに囲まれながら、牛の糞に注意を払い、10分ほど歩いて到着。あたりは暗く、河の様子はよくつかめません。ただ、大きな河だということは、雰囲気から察しがつきます。ガードを降り、船へ。若いインド人男性2人が船を漕ぎ、岸を離れます。 暗闇の中、「ギー、ギー」と漕ぐ音が聞こえます。その音を聞きながら、みんなも静かに遠く視線を投げかけます。出発して間もなく、日の出とともに、徐々にあたりの様子が見えてきました。すると、写真で見たことがある風景が、目の前に現れてきました。 派手なヒンズーの神々が描かれたコンクリートの建物や観光客、洗濯をする人、沐浴をする人。たくさんの人がガードににぎやかに集まり、そのパワフルさが、色とりどりのエネルギーの塊のように見えます。 ![]() ![]() ![]() しかし、少し下流に行くと様子が少し変わります。もくもくと煙が上がっています。「この場所では写真をとらないで!」。ガイドさんの強い口調に思わずハッとしました。ここは、火葬場。遺体が数体燃やされていました。 すぐ上流での、動きの激しい「生のパワフルさ」とは違う、「死のパワフルさ」がここにはありました。よくガンジス河の風景は、カオス(混沌)と表現されていますが、まさにその通りでした。これが人間本来の姿でしょう。汚く貧しいけれども生死のエネルギーに満ち溢れています。日本では、文明の進歩とともに、死や病といった負とされる部分が隠され、逆に人間の迫力が感じられなくなったように思います。 船から降り、全員ホテルへ戻りしばし休憩。やはり体調がすぐれず、大汗をかきながら睡眠をとりました。 昼前に本日の宿泊地アグラへ向けて出発。まずは、ベナレス空港からデリー空港へ。ここで思わぬ出会いがありました。背が高くスラッとしたスタイルに赤のミニスカートの制服姿。鼻は高く、目がパッチリしたこの世の人とは思えないほど美しきキングフィッシャー航空の客室乗務員さん。その姿に元気をいただきました。恐らく、アーリア系人種のお方だと思います。お釈迦様もアーリア系とのこと。思わぬ美しき出会いに少し元気を取り戻し、午後3時、デリーへ到着しました。 ここから200キロ、5時間のバスの移動が始まります。長旅に添乗員さんが、気を利かせビール、ワインを大量に購入。宴会を横目に、私は体調を取り戻せず、デリーを出ると景色は相変わらず汚く混雑した街並みしかなく、目を閉じ、ただ時が経つのを待つだけです。 あたりもすっかりと暗くなり、午後8時、やっとアグラの街へ到着。目をあけ、街を眺めると何か様子が違います。不思議とすがすがしくインドの街並みを見ることができます。さして、これまでの景色と変わりないのに。「なぜ?」としばらく考えた結果、恐らく体調がもとに戻ったのと同時に、心身がインドに慣れ始めたのではと自分自身で結論付けました。 貧しい街の光景が、普通に目に飛び込んできます。マナーのない車の運転もクラクションの音も気になりません。「気にしない」ようにしていたことが、「気にならなくなった」のです。5日目にして、やっとインドに慣れたようです。ジェイピーパレスというゴージャスなホテルへチェックイン。大理石作りの建物に大満足。王様気分で爆睡しました。 【6、7、8日目】 5日目にして、インドに身も心も慣れたことにより、インドの見方が変わってきました。長距離の移動で疲れはあるものの、「気にならない」ことで、随分と精神的に楽になりました。 さて、6日目はタージマハルとアグラ城、ふたつの世界遺産の見学です。いずれも世界的観光地。ただ、その美しき姿に見とれるばかりです。道中、作っているのか、壊れているのか、分からないような建物ばかり見てきたので、なぜこのように素晴らしい文化を持っていたのに、上手く生かされなかったのだろうかと疑問に思ったりもしました。 ![]() ![]() 気分上々で、宿泊地のジャイプールヘ。夕刻の街並みを見た瞬間、「ここ好き!」と感じるものがありました。ジャイプールは、人口300万人を超える大きな街。1883年、イギリス王子が来訪するにあたり、歓待の意を表すために街(旧市街地)をピンク色に塗り、以来塗り続けられていることにより、「ピンクシティ」とも呼ばれています。 本日の宿は、ジャイマハルパレスという超高級ホテルのはずでしたが、急遽変更。州政府が、急遽このホテルを使用することになったためだとか。日本では、あまり考えられませんが、国、州が権力を行使しているのでしょう。 添乗員・ガイドさんの猛烈な抗議の末、食事だけはこのホテルで食べることとなりました。ホテル側も、お詫びに、インド人ダンサーを準備してくれて、ダンスを見ながらの夕食となりました。代わりの宿シェラトンホテルへ。最後の夜だと思うと、切なくなりました。 翌朝は、早起きして、アンベール城へ。山の上に聳え立つお城です。雲ひとつない青空にくっきりとその姿が映え、とても美しかったです。ふもとからは、象さんに乗って上がります。 象につかまり、ゆらゆらと景色を楽しんでいると、何台かのカメラがシャッターチャンスを狙っています。「これは、後から写真を売りに来るに違いない」と直感。顔を背け、拒否。 また、象から降りる時には、チップを含んだ料金を払っているにも関わらず、象の調教人がチップを請求。インド人の行動パターンもよめてきましたので、慌てず「もう払っている」と強い返事。相手は、もらえればラッキーぐらいと考えているのでしょう。 案の定、城の見学後、出口では先の写真の販売人が、写った人を懸命に探していました。 ![]() ![]() ![]() ジャイプールの市街観光を終え、ついに出国のためデリー空港へ向かいます。早く日本に帰りたいような、まだインドにいたいような不思議な気分のまま、バスで300キロ、5時間半の移動を経て、深夜11時発のエアインディアで帰国の途に着きました。 そして、日本時間の午後3時、わが故郷広島駅へ到着。ここで、ご門徒さんと一目散に向かったのは、8番線ホームの立ち食いうどん屋さん。そのおいしさと懐かしさに、食べながら涙が出てきました。そして、コトコト列車に揺られ、下深川へ到着。全員無事に、私たちのインド旅行は終わりとなりました。 さて、旅行から半年が経とうとしています。未だに目をつむれば、インドの想い出が蘇ってきます。この今の時期、インドは雨季。気温も40度を超え、雨が続くといいます。 前正覚山で、「何かちょうだい」と私から離れなかった女の子。デジカメ画像を見せると、満足そうに笑った人力車の少年。「一緒に写ってくれませんか」と頼むと、恥ずかしそうに写真に入ってくれたホテルの女性。厳しい天候の中、みんな元気に生活しているのかな。 ![]() ![]() ![]() 特に親しくなったインド人はいないけれど、想い出されるのは、顔ばかり。物売りさんや、物乞いの人など、金銭を目当てに寄ってくる人が多く、他の国への旅行と比べて、人との接点が多い旅行でした。もう会うことはないと思いますが、会えたことは縁としか言いようがありません。その縁が、最初はウザくて、辛くて、悲しかったけれど、懐かしく私の脳にこびりついています。 お釈迦様がおられたインド。仏教が廃れているインド。毎食同じような食事のインド。貧富の差が激しいインド。身分差別が根付いているインド。交通マナーのないインド。人がうじゃうじゃいるインド。ずるいインド。 |