連載「子どもと音楽」(11)
いま持てる力を活かす
 子どもが誕生した頃のことを思い出してみましょう。乳児は、小さな手でお母さんの指を握ったり、大人の顔を見て微笑んだりします。このように、子どもは生まれながらに様々な能力を備えて誕生してくるのです(把握反射、吸引反射、微笑反射などは、よく知られているところです)。周囲の大人は、乳児のこの反射的な行動に接して、愛着心を揺すぶられる。そして今度は、その大人の喜びに触れて、乳児は再び様々な反応を見せるのです。このように乳幼児は、生まれたときから周囲の大人と親密なコミュニケーションを交わしながら成長していくのです。

 乳児に接する時、私たち大人は何を欲しているのでしょうか。それは問い掛けを通して、「いま持てる力」(微笑みや把握など)を見せて欲しいと願うのです。(新生児に対して)言葉や会話を求めたりはしない。つまり、「いま持てる力」が発揮されるのを待っているのです。
 しかし、私たち大人は子どもの年齢が増すにつれて、(子どもに対して)持てる力以上のものを求める習性があるようです。必要以上のことが求められるとき、自信のない子どもは避けようとするのです。

 子ども自身が「面白い」「私もしてみたい」と思えないような活動は、退屈で、何かを吸収しようという気持ちがわいてこない。その一方で、積極性や冒険心(挑戦する心)を備えた子どもは、自ら学び、自ら判断し、失敗をおそれない。子どもは、持てる力の分だけ自信を備えているのです。
 つまり、私たち大人は、一人ひとりの子ども達が「いま持てる力」を発揮しているかどうかに目配りすることが重要だと考えます。いつも先回りして、高いところばかり求められるのでは、学習(遊び)は面白くない。それでは、やがて息が切れてしまう。「いま持てる力」を楽しむとき、子どもの目は輝き、すぐに今よりももっと高いところを目指したくなるのです。
CHC通信第24号(2001年4月) 発行:CHC音楽教室

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連載「子どもと音楽」(12)
愛されているという実感
 身の回りのさまざまな出来事に興味関心を注ぐことのできる子どもたちは、幸せです。子どもたちは、日々の生活の中でいつも「面白いものはないか」と思って過ごしています。おそらく、面白いものとの出会いは、宝物を発見したような気持ちなのでしょう。音や形、数や色、重さや広さ、味や匂いなど、何気ない出来事の中にも面白さはいっぱい隠されているのです。さて、そうした発見の基礎には、心の安定が欠かせません。不安なときには、「遊ぶ」余裕などは生まれてこないのです。

 もう一つ欠かせない要因があります。特に、幼い子どもたちは、生活の中で「愛されているという実感」が持てることは重要なことです。過去も現代も、心に痛みをもった子どもたちのほとんどは、周囲の人に“愛されている“という実感を十分に持つことができなかったようです。たとえば、最近話題になった17歳の事件においても、加害者となった子どもは、家族や仲間そして地域の人々に十分に受け入れてもらえなかった(愛されてこなかった)と言えます。これはとても寂しいことです。人の尊厳が踏みにじられたときに、人はその痛みを避けようと自分の心を閉ざして内に引きこもるか、あるいはその反対に攻撃的な行動をとるのです。このレベルになると、心のコントロールが効かなくなり、ついにはキレてしまうのです。

 ではどうすればよいのでしょうか。植物を育てるときには、適度な温度と適度な水、そして豊かな土壌が必要です。同じように、子どもの音楽的成長のためには、適切な音楽的刺激(教育)と適当な環境(人や物による音楽的空間)、そして子どもを包み込む暖かなまなざし(愛)が欠かせません。私たちは、子どもとの関わりの中で「好きだよ」「よかったね」「嬉しかったよ」「ありがとう」などのプラスの感情を伝えているだろうか。共に生きる者同士が支え合う言葉も、子どもの心の成長を促す言葉です。「どうしたらいいと思う?」「頼りにしてるよ」。嫌なことがあったときにはその思いも伝えよう。「困ったなあ」「私は悲しいよ」など。「私は愛されている」という実感の中で、子どもは安心して自己開示でき、自らの能力をさらけ出す(音楽表現する)ことができるのです。 
CHC通信第25号(2001年7月) 発行:CHC音楽教室

連載「子どもと音楽」(13)
「勇気」と「自信」をはぐくむこと

 幼児は、生来的に意欲に満ちた存在です。その意欲は遊びや生活のさまざまな場面で発揮されますが、とりわけそこでの大人の役割は、意欲的に遊びに取り組むことができるように、環境を整えることでしょう。子どもが安心して過ごせる空間は“意欲を吹き出す土壌”となります。子どもは、この安心できる空間を基地として、さまざまな興味や関心を開花させ、いま持てる感覚を駆使して自分の想いを膨らませるのです。つまり、“安心”はさまざまな経験を可能にさせてくれる空間となるのです。そして、そこで意欲が生まれ、チャレンジ精神の芽や、やさしさや思いやりの芽が育まれていくのだと考えられます。

 しかし、その空間では、大人が「子どもに良かれ」と思ってしていることが、実際には子どもにとって大きな障害になっていることも少なくありません。たとえば、子どもがボタンをはめようとして苦闘している姿をみかねて、思わず手を出してしまう大人は、子どもの学習機会(チャレンジの機会)を奪っていることに気づかないでいる。別な例で−。子どもが教師の仕向けたゲームに参加し、いざゲームを終えた瞬間に「ねえ先生、もう遊んでいいの?」と素直に心中を告げる−これは衝撃的です。子どもは明らかに自分のやりたい事柄(主体的に取り組むこと)を持っている。この例の場合は、子どもの意欲をうまく汲み取れないでいる大人がそこにいる。

 子どもの意欲や意志を最大限に尊重することは、子どもの主体的な態度と責任感、チャレンジする勇気や粘り強さを育む原動力となるのです。同時に、その遊びが周囲に及ぼす影響にも配慮しなければなりません。その気くばりの中で、我慢することや他者と共存することの大切さ、秩序の快感なども経験するでしょう。

 意欲に溢れた子ども、なんて輝いている存在でしょう。子どもたちの日々の生活は、未知なることに対する小さな勇気の連続でもあります。その小さな勇気を励まし、大きな勇気に育てていきたいものです。 

CHC通信第26号(2001年12月) 発行:CHC音楽教室


連載「子どもと音楽」(14)
シアトルで感じたこと
 昨年の8月上旬、私は米国ワシントン州シアトル市を訪れた。その地はアメリカで一躍有名になったイチローが活躍するシアトル・マリナーズの本拠地でもある。私の目的はリトミック講座(1週間)に参加することであった。アメリカの夏は実に過ごしやすい。日本で38度の猛暑が続いていた同じ頃、シアトルは20度前後で、湿度の低い気候であった。実に快適だった。その地で終日、音楽(リトミック)することができるというのは、実に幸せなことだと思った。

 シアトルでは、ジュリア・ブラック女史(ワシントン大学教授)の主宰するリトミック協会がある。この年、講座には全米各地から約30名の参加者が集った。私もその一人。参加者は、小学校や幼稚園の教師、ピアノレスナー、学生など、さまざま。年齢も20代から50代まで幅広い。講座は、動きを中心に様々な音楽の学習を行った。身体の柔軟(ウオームアップ)、基本的なリズムの動き、ピアノの即興演奏、子どものためのリトミック教授法等など。連日の研修はとても楽しかった。その内容は、日本のそれと較べて、ほとんど異質とは感じなかった。

 しかし、ここでの体験で私が最も興味深く感じたことは、参加者が実に多様で、表現力に富んでいることであった。むしろ音楽的な能力(聴取力や演奏力など)は日本人の方が繊細で優れているかもしれないと思った。が、自分自身の感じたことや考えを伝えようとするパワーは、遥かに強くエネルギッシュであった。音楽表現は稚拙であっても、心に秘められたエネルギーを押し出そうとするパワーに私は圧倒された。逞しくもあった。そのような力は、どのようにして培われるのだろうか。

 一つには、多言語社会の中で他者と関わり生きていくために不可欠な能力として、自然に培われたものなのだろうとも思った。私にはまだ「これだ」と思える答えは得られていないが、一つ思い当たることは、現代日本の子どもたち(そして私たち大人も)に足りないものは、このあたりの「内なるパワー」にあるのではないかと思われた。リトミックの体験が、このような内なるエネルギーのわき出る空間としたい。このような思いを強くもったシアトルの一夏であった。
CHC通信第27号(2002年4月) 発行:CHC音楽教室


連載「子どもと音楽」(15)
リトミックって何(中国新聞2002/4/23夕刊第1面)
中国新聞(2002年4月23日夕刊第1面)