連載「子どもと音楽」(25)
音楽と心
 つい先日、キース・スワニックさん(ロンドン大学名誉教授)の講演を拝聴する機会がありました。温厚なお人柄のスワニックさんの演題は、『いかにして音楽は動きになるのか?』という興味深いものでした。

 それによると、音楽経験に含まれる隠喩(メタファー)には3つのプロセスがあるというのです。
 (1)音が特徴的な表現の形、身振りとして聴こえる:「素材]から「特徴的な表現」へ
 (2)複数の特徴的な表現の形が新しい関係を作る:「特徴的な表現」から「形式」へ
 (3)新しい形式が過去の経験と融合する:「形式」から「価値」の形成へ
 そして「素材」への関わりから「価値」の形成に至る過程では、感情の世界と深く織り混ぜられていく、と指摘しています。つまり、音楽表現は学習の初期から高度なレベルに至るさまざまな状況の中で、感情との接点を持ち続けると言うのです。
 ルソーが『言語起源論』で述べたところの、情動(emotion)は動き(motion)によって喚起される、というのもうなずけるところです。

 現代は「心の時代」と言えます。しかしながら、巷のニュースを見聞きするとき、心の豊かさとは全く無縁の寒々とした事件が報道されています。これは悲しいことです。心の豊かさは、どのようにすれば育まれるのでしょうか?

 音楽学習は、音楽を通して様々な人の心に触れることと言い換えることができます。それゆえに、音楽にはそれを演じる人の心が伴っているということは重要なことです。言い換えれば、心の伴わない音楽表現は薄っぺらいものになってしまう。

 その第一歩は、音そのもの(素材)に魅せられるという体験なのですね。雨の音、靴音、弦の弾ける音、太鼓の響き、等々。それぞれの音は、私たちに独特の世界をイメージさせてくれます。そこに生起するイメージは、生活体験にねざした動きに依拠している、と考えられるのです。
 音楽学習の空間は身近なところにある、ということに私たちは気づく必要があります。音は、いくつか連ねられてふし(旋律)を奏で、より特徴的な表現に高められていきます。そして、時代を超えて歌い継がれてきた音楽作品には、その時代を生きた人々のさまざまな心(価値)が詰まっているのです。
 音楽を学ぶことは、人々の心に触れることなのです。
 【参考文献】キース・スワニック著、塩原麻里・高須一共訳(2004) 『音楽の教え方:音楽的な音楽教育のために』 音楽之友社
CHC通信No.35、CHC音楽教室発行、2004年11月
連載「子どもと音楽」(26)
心と身体の調和
 4月の声を聴きますと、なんだか気分が新しくなった感がします。気温は少しずつ上がり、それに合わせて花が咲きほころび、動物も活発に活動を始めます。私たちもそれらの変化に触発され、希望と勇気が湧いてくるような気分になりますから不思議です。心の持ち方や感じ方次第で、私たちの行動は大きく影響を受けるのですね。

 音楽は、言葉に替わる言葉として、私たちの心にさまざまなメッセージ(意味)を問いかけてくれる存在です。そこでは音楽を受け止める主体、つまり私たち自身の心のありように従って、音楽の意味がうまく受け止められたり、受け止められなかったりします。まるで、音楽は自分の姿(心)を映し出す鏡のような存在と思えるのです。心が焦点化され、雑念から開放されている時には、音楽の意味が心にしみてよくわかる。しかし、心にフィルターがかかっていると音楽の語る真の意味を掴めない。こう思うのです。

 こどもたちの学習のあり方を考えるとき、その成長に応じて「心と身体の一致・調和」を維持することが重要です。車の運転に例えるなら、車の車輪は私たちの身体であり、ハンドルは私たちの頭や心であると言えます。安全な運転では、心と身体の両方がバランスよく整備されている必要があります。私たち大人は、ついつい、知識や技術の獲得を促すことに目を向けてしまい易い。これは、その成長が見えやすいからでしょう。しかし、獲得した知識や技術は、健全な心を持った人々によって活かされることが重要です。自動車も、運転者の乱暴な心によって凶器と化してしまうように、です。

 ダルクローズは私たちに教えてくれています。音楽的な動きが、私たちの心と身体の調和を創り出してくれるのです。現代は、情報が氾濫している時代です。こういう時代は、情報の真偽を判断する能力が欠かせません。真偽は、論理的に考えることが大切ですが、その論理は感性に負うところが少なくないのです。音楽の美しさに心打たれた人は、再び音楽を学ぼうとするでしょう。音楽学習の場は、そういう心豊かな人間を創り出す空間になるのです。
広島音楽アカデミー月報、2004年4月
連載「子どもと音楽」(27)
音楽を愛する心
 新しい年度が始まります。4月は出会いの月でもあります。心も体もリフレッシュして、新しいことにチャレンジしてみましょう。最近、皆さんもご存知の詩「子は親の鏡」が世界中から注目されています(ドロシー・ロー・ノルト著『子どもが育つ魔法の言葉』PHP文庫、2004)。著者のノルト女史は現在81才で、現在もカリフォルニア郊外で元気にお過ごしのようです。この詩は約50年前(著者30歳頃)の子育てカウンセリングに携わられた体験を基に書かれたものなのだそうです。その一節を掲げてみましょう。

   けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる。
   とげとげした家庭で育つと、子どもは乱暴になる。
   不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる。(中略)
   広い心で接すれば、キレる子にはならない。
   ほめてあげれば、子どもは、明るい子に育つ。(後略)

 この短い行の詩に、心打たれた読者は多いことでしょう。この詩は、子育ての態度だけでなく、私たち大人の生き様を問いかける深い内容を含んでいると私は感じました。当時(1950年代)のアメリカは、厳格な子育て観が主流であった風潮の中で、この教育観は多くの人々の共感を誘い、子どもにも保護者にも大きな拠り所となってきたのです。そこで私もひとつ詩作に挑戦してみました(恥ずかしい)。

   音楽を愛する人に接すると、子どもは音楽を愛するようになる。
   音楽を粗末にしていると、音楽はつまらないものだと思うようになる。
   音楽を深く聴き入る体験を持った人は、音楽はなくてはならないものだと思うようになる。
   音楽アンサンブルを楽しんだ人は、友達はいいものだと思えるようになる。

 本アカデミーでは、リトミックやピアノ・ヴァイオリンの専門教育を通して、音楽を愛する子どもたちに、また心身の調和のとれた心やさしい人に育ってほしいと願いながら教育活動を展開しています。お陰様で、これまで多くの皆様のご理解とご協力を賜り、30年という年月を重ねてきました。どうぞ今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願いします。
広島音楽アカデミー月報、2005年4月
連載「子どもと音楽」(28)
人権感覚とリトミック
 悲惨な事件が後を絶ちません。小学校内で起きた佐世保の小6女児殺人事件は、いまだにそのショックが取り除けません。家庭内での虐待や殺人事件も連日報道されています。とても悲しい出来事です。こういう事件の背景には少なからず幼少期の育ちの影響があるのではないか、と私は考えています。人は誰しも生まれながらに犯罪者として誕生する者はいない。悲惨な事件の根っこには、人生初期のさまざまな体験がその温床になっているのではないかと思われます。そして、現代は、何よりも他者の尊厳を大切にする心(人権感覚)を再確認してみる必要性に迫られていると言えます。私たちに何かできることはないのでしょうか?

 ある幼稚園の保護者会での出来事です。私は「お子さまと会話する時のあなたの口癖は何ですか?」と尋ねたところ、そこであげられた言葉で最も多かったのは「早くしなさい」「○○はダメ」でした。これらは、いずれも命令・指示・支配を意味する言葉です。これらの言葉は、強者が弱者に向かって何かを「強制」するときに用いられます。こういう言動は、子どもたちに「生きたモデル」となって無意識的に吸収されていきます。日常的な生活の端々で、他者を「縛り」「強制」する習慣が伝えられるとき、そこでは誰かに支配され従う時の不自由な感情だけが残ってしまう。このような体験は、子ども一人ひとりの「自立」を促すことに通じているでしょうか?

 ここで、相手の尊厳を認め合うときの会話を想像してみましょう。「そうですね」「なるほど」「わかった」「素晴らしい」等々。これらには「受容」や「寛容」の精神が感じられます。相手を想う、共に育ち合うという態度(価値観)は、このような会話の中から生まれてくるのではないかと考えられます。
 こんなことを独りで考え巡らせていたとき、仲間のTさんから「共生と共創」というユニークな言葉をうかがいました。「共に生き、共に創る」この言葉をリトミックの場面に照らしてみましょう。

 音楽は、時間の流れの中にある一定の秩序と構成をもった存在です。美しい旋律やリズムの躍動には、心地よさが含まれています。共に音楽の躍動感を味わったとき、人は快感の中で「共に生きる」関係を過ごすのです。アンサンブルを経験したときには、特にこの感情が強調されます。音楽とりわけリトミックを過ごす空間は、「強制と競争」の場ではないのですね。音楽を学ぶことは、言葉を伴わない時間の中で(情動的かつ知的に)「共生と共創」の醍醐味を味わう瞬間なのです。音楽を動いているときは、他者と共に音楽の変化を感じ取り、共に音楽を楽しむ素晴らしい瞬間なのです。

 日々の生活の中で、一緒に工夫し創り上げる「共創」の時間を過ごすことは大切です。この心は、次の世代にも伝えていきたい大切な態度(価値観)であると思うのです。これは人権感覚を磨く空間に等しい。
 愛されているという感情や、周囲の人に認められたという自己肯定感が、心の安定を促し、自信を与え、正義感や思いやりの心を強めるのだと考えられます。愛される体験が希薄だった者は、人を愛することがうまくできない。これは大切な教えです。リトミックに携わるとき、私たちには、現代が渇望している人権感覚が求められていると思うのです。
ニュースレター第6号、日本ジャック=ダルクローズ協会、2005/spring
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