連載「子どもと音楽」(3)
「楽しい」と感じられるレッスン作り


 今回は、幼児が「楽しい」と感じられる音楽レッスンを展開するために、大人はどのような配慮が必要なのか考えてみたいと思います。

1.砂場遊びと音楽、その共通するもの

 私は、子どもたちが砂遊びに夢中で取り組んでいる姿を見るとき、その姿は同時に音楽に熱中しているときの姿と重なり合って見えてきます。砂遊びに夢中の子どもは、心の中で「この部分の砂をこうして、あの部分を掘って〜」など、自分なりの完成モデルがしっかりと描いているのだと思われます。そして、製作途中でも随時そのモデルを変更しながら、より洗練された面白い作品に仕上げていくのです。その試行錯誤している時間(過程)が楽しいのです。  砂場遊びと同じように、音楽(歌唱・演奏・動きなど)している時に、自分なりのアイデアを注ぐことができれば、それは楽しい時間になっていくことでしょう。そうした「楽しい」遊びの時間を持つためには、いくつかの要件が必要です。

 第1点は、子ども自身がこれから展開されるであろう遊びの「見通し」を持てること。遊びや活動の行方が自分なりにイメージできて、その流れに身を委ねているときが愉しい時間なのです。そして、多くの場合、見通しがつくようになる前に(いきなり参加するのではなくて)傍観の時間(観察の時間)や、周囲の人の取り組みを自分なりに試してみる場面も必要なのです。つまり、身体の動きとして表される前に、まず始めに「心」が先行して動き始めるのです。 外からは“見えにくい子どもの心が見える”ようになる。これはレッスンを楽しくするための最初のキーポイントになるでしょう。

 第2点は、レッスンでは「自分のできることで参加する」こと。“私にはできない”と思われるような内容に対して、子ども達はなかなかチャレンジしてみようという気持ち(勇気)が湧いてこないようです。“私にも出きるかもしれない”と思われるときに、レッスンに対して興味関心が湧いてくるのです(その結果、うまく出来たり、あるいは出来なかったりするのです)。その一方で、“つまらない”と感じられるときは、あまりに難しかったり、あるいは既に獲得した内容のものであったりします。リトミックにおいても、このあたりの子どもの気持ちを読みとりながら、“自分もチャレンジしてみよう”と思えるような内容に、遊びを調節することは肝心なことです。

2.部分よりも全体

 例えば、家を建てるとき、私たちはまず建物全体をイメージし、その後で玄関の形や装飾品の色合いなど、細かな部分を考えます。そして再び全体に目を向けるのです。つまり、全体と部分は常に切り離せない関係にあります。教育においても、同じような関係を読みとることができます。

 例えば、一般的に大人は、歌を歌ったり、ピアノを演奏したり、作曲したりなど、既に形式化された表現モードとして、音楽活動を捉える傾向があるようです。その発想からは、つい「ドレミが判らないからピアノが弾けない」とか「楽譜が読めないから音楽は作れない」などと考えてしまうのです。しかし、その一方で、カラオケで歌うときは「楽譜が読めないから歌えない」とは言わない(例えば、演歌を譜面通りに歌ったのでは味気ないものになってしまう。それを知っている大人はその曲の情緒性に心を注いで歌うのです)。

 このように、私たちは「学習」を考えるとき、全体を見ることよりも部分に目を奪われ易いように思われます。学習は、まず全体を把握することが優先されるべきなのです。

3.総合化すること

 前述のように「音楽する」とき、誰も最初は楽譜が読めないし、ドレミも知らないのです。そうであっても「音楽に参加する」ことはできます。自分の出来ること、つまりスウィングしたり、手を叩いたりしながら、音楽に身を委ねることができるのです。リトミックが楽しいと感じられるのは、このあたりにあります。

 こうしてリトミックでは、「自分の出きること」を手がかりにして、あたかも芸術家になったかのような、身も心も音楽に浸っている時間を味わいたいのです。このセンスを、イギリスの音楽教育研究家であるスワンウィックは「マスタリー」と呼んでいます(注参照)。つまり、ある時はあたかも作曲家(創る人)になったかのように口ずさみ、ある時は聴衆となって音に聴き入り、またある時は演奏家(表現する人)として演じるのです。このように、様々な役割を総合的に経験することが、幼い時期の音楽経験では特に強調されてよいでしょう。ここでも遊びのセンスが大いに発揮されることになります。

 これを前述の砂場遊びにたとえるなら、仲間と話しあいながら構想を練り(創る人)、砂をいじったり(表現者)、休んだりしながら(聴衆)完成に近づいていく。このように、いろいろな立場を巡りながら、遊びは少しずつ発展されていくのです。まさにマスタリーの世界は、総合的にものごとを捉える学習空間なのです。

 加えて、幼児はリトミックする中で、(自分のできることを通して)存在をアピールしたり、相手の存在(他者の思い)を認めたりすることも貴重な体験となります。つまり、物語遊びやリズミカルなゲームを通して、人との関わりを楽しむことも「楽しいレッスン」作りに欠かせない要件となるでしょう。

 音楽的センスと人間相互の関係作り−この2点を総合的にやわらかく包み込んでいるのがまさに「遊び」のセンスなのです。リトミックが「遊び」と感じられる雰囲気、これは幼児の活動を考える上で特に重要なポイントとなるでしょう。

(注)スワンウィック,K.,野波健彦ほか訳『音楽と心と教育』音楽之友社,1992,p.91

リトミック通信第68号(リトミック研究センター発行、1999/11/1)

x-back.gif



連載「子どもと音楽」(4)
音楽表現の発達のゆくえ

1.二つの事例

 幼児と一緒に生活している大人は、幼児にたくさんの願いを抱きます。例えば、元気に育って欲しい、早く歩くようになって欲しい、自分で服が着られるようになって欲しい、一人で食事ができるようになって欲しい、友達とうまく関わって欲しい等など。その願いは尽きるところがありません。子どものことを思う親のこうした気持ちは、切ないほどに強く感じ取ることができます。しかし、この親の気持ちほどには、子どもはその思いを感じていないのかもしれません。

(事例1)先日のことです。知り合いのYちゃんは1歳になったばかり。そのお母さんと井戸端会議をしていましたら、突然Yちゃんが人差し指を空に向けて「あっ」というような顔の表情をしながら何かを指さすのです。その仕草はとても可愛くて、いくら見ていても飽きません(が、Yちゃんが何を指さそうとしているのか私たちには分からなかったのです)。さて今度は突然にバイバイの仕草をはじめました。本来、バイバイは別れの場面で行われるものですが、Yちゃんは偶発的に手を振る行為を行うばかりです。

 いずれの仕草も、周囲の大人の語りかけや仕草を真似て覚えたようです。その動作を観ながら、私は感じたのです。おそらくYちゃんは指を差し出す行為、あるいはバイバイの“行為そのものを楽しんでいる”のだろうと。むしろ、いまのYちゃんには、動きの意味するところはほとんど関心がないように思われたのです。親としてみれば、適当な場面でその習得した動作をして欲しいのに−。

(事例2)その一方で、例えば、もう少し年長の子ども(例えば児童や生徒)が挨拶をしようとするとき、なかなか「さようなら」や「こんにちは」が言えなかったり、適当な動作が伴わなかったりする場面に出会うことがあります。その子どもは、“さようならの気持ちを伝えるためにどうしたらよいか”ということは理解しているのだろうと思われるのですが、それを動作としてうまく表すことができない(これは照れや恥ずかしさに起因しているのかも知れません)。あるいは、そこで「さようなら」の意志を伝えることが必要だということがわからないのかもしれません(このケースも少なくない)。

このレベルでは、心の表象(思ったり感じたりしたこと)に動きを添えていこうとする姿があります。

2.音楽表現の発達のゆくえ

 ここに挙げた2つの事例は、全く次元の異なるエピソードです。ここには音楽レッスンの方向性が示唆されていると考えられます。すなわち、「幼児は動きそのものを楽しむレベル」から、「動きの意味を発見するレベル」へと高められていく、という表現の発達的道筋を読みとることができます。

 ご存じの通り、乳児が言語を習得するとき、その初期段階で大人の口の動きを真似しながら発語を繰り返し、徐々に語彙の意味を習得していきます。同じように、音楽的表現力(ムーブメント)を獲得する場合、音楽に先んじて動きそのものを楽しむ段階があるようです。その後、その動きに聴覚的な刺激が添えられて少しずつその動きの意味が添えられていくのです。こうして、幼児は周囲の人々に内なる声(メッセージ)を伝えるための適当な手段として様々なスキルを獲得していくのです。

 幼児期のリトミックレッスンでは、Yちゃんにみられたような動作を手がかりにして、その動きに音楽を添えていく。すなわち、“「音楽」の方から「動き」に近づいていく”という視点は特に重要なことです。例えば、リトミックのレッスンにおいて、物語あそびや言葉遊びを手がかりにしながら、音楽聴取と関連づけていこうとするアイデアは、動きを手がかりにして幼い子どもの共感覚的なセンスを磨くよい機会となるでしょう。

 この共感覚的なセンスを獲得する時、焦りは禁物です。この段階では特に、“子どもの成長と発達の歩みとともに過ごす”ことが重要となるのです。しかし概して、大人はこの段階のやり取りをつまらないと思ってしまいやすい。ここに音楽学習がイヤになる大きな落とし穴がある。つまり、そういう大人は、幼児の「音楽する楽しみ」を奪っていることに気がついていないのです。

3.表出から表現へ

 「表出」される動作は他者を意識しない無意識な行動であり、その一方で「表現」行為は他者との関係を意識した能動的な行為と考えられます。言い換えるなら、Yちゃんの動作はまだ「表出」的なレベルにあり、その一方で後の事例(挨拶をしようとしている子ども)は「表現」のレベルにあると考えられます。

 幼い年齢の子どもの場合、「表現」をさせたいという思いが先行して、一方的に知識や技術を教え込んでしまうのは危険です。表出的な動作であっても、それが音楽する喜びに溢れているなら、その経験の方がずっと意味深いと考えられるのです。

 「表出」「表現」いずれであっても、この年齢の子ども達と共に過ごすときには、大人の「共に生きている」というセンスが必要だと思います。乳幼児が語彙を獲得する過程で、大人の語りかけが有効であるように、私たち大人が音楽を楽しんでいる姿は、幼児の音楽を愛好する心情を育む基礎になっていると考えられるのです。

リトミック通信第69号(リトミック研究センター発行、2000/1/1)