【有形文化財】

筒瀬八幡神社本殿
【筒瀬八幡神社本殿】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区安佐町大字筒瀬91筒瀬八幡神社
●指定年月日:平成4年3月26日
●概要:身舎 桁行4.89m、梁間3.00m、向拝/桁行1.93m、梁間1.82m/三間社流造、鉄板葺

 中国山地に源を発する太田川は、狭い谷間を蛇行をくり返しながら流れてきます。筒瀬八幡神社本殿はこの川岸で社叢に包まれるようなかたちで建っています。
   現在の本殿は、棟札により江戸時代の中頃にあたる明和5年(1768)の建立であることが判明しており、この時に、神社そのものが現在地に移転したと伝えられています。建物の形式は、安芸地方でよくみられる三間社流造ですが、なんといってもこの本殿の外観を特徴づけているのは腰組です。身合の背面を除く三方に廻した緑を支えるために組物を三段持送った形(三手先)で構成されています。
   整然と並んでいるその姿を見ていると小振りながらも、どこか大規模社寺建築の豪壮でリズミカルな印象をこの腰組は与えてくれています。また、向拝上に設けられている透かし彫りの美しいかえる股や妻飾りの獅子頭などは江戸時代の良作とされ、この建物の時代的特徴をよく表しています。なお、この神社を取り巻く社叢もまた、本市の天然記念物に指定されており、中国地方の川岸の典型的な植生を保っており、歴史的な本殿の景観をより一層高めています。


木造如来坐像
【木造如来坐像】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区安佐町飯室1479 養専寺
●指定年月日:平成5年3月26日
●概要:一木造、像高82cm、膝張73cm

   鈴張川の東岸に走るかつての庄原往環である鈴張街道が大きく東南に折れ、可部へ向かおうとする地点に来ると、重厚なつくりの山門の向こうに養専寺の本堂が見えてきます。その本堂の中に、どっしりとした重量感のある木造如来坐像が安置されています。
 そもそも、如来とは悟りを開いて仏となった者(覚者)のことで、歴史的存在としての釈迦がそれですが、やがて、薬師如来、阿弥陀如来など、いろいろの覚者が考えられるようになりました。如来は当然、人間を越えた存在であるので、肉体的にも人間とは違った特徴を備えており、ふつうは出家姿で装身具はいっさい身につけていません。
   養専寺の木造如来坐像も、そのような外観を呈しています。まず、肉筆といって、髻のように盛り上がった頭部の肉の隆起があげられます。それから、ぶつぶつになった髪の毛の螺髪もそのひとつです。また、薄い柔らかな布を巻き付けたような衣(衲衣)を両肩にかけており悟りを得た成道の姿を具現しています。結跏趺坐と言われる座禅のような座り方をした膝の上に手を置いて印を結んでいますが、残念ながら経年の傷みで指先が欠損しており、阿弥陀如来、釈迦如来のいずれの印か判明できません。光背台座も失われていますが、堂々たるつくりの一木造(頭部と体部が一本の木から彫り出す技法)の像で、その彫法や衣文の刀法から藤原時代の制作と考えられます。
 藤原時代は、末法思想が広がり、仏法が衰える時代と考えられていました。時を違わず、保元・平治の乱(1156・1159)が起き、引き続き源平の争乱の世となり、骨肉相食む悲惨無情を目のあたりに見たその当時のひとは、全く末法時の恐ろしさに怯えたことでしょう。制作者は不明ですが、この乱世を目の当たりにして、やむにやまれぬ信仰心からこの仏像を作り、民衆もこの像を拝み、救済を求めたのではないでしょうか。県下にもまれに見る、藤原時代のものを思わす貴重な遺品です。


土井泉神社文書
【土井泉神社文書】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区安佐町飯室1652 土井泉神社
●指定年月日:平成6年3月25日

   土井泉神社は、広島から北上してきた雲石街道から、可部で西に分岐するかつての庄原往還に面した丘陵先端部に所在しています。この庄原往還沿いには、中世山城跡が多く存在しています。土井泉神社の社殿は、その中の一つの土井城跡の郭の上に建っています。神社は元々、天承元年(1131)に甲斐国から太田川沿いの宇津に分祀され、飯室八幡宮と呼ばれていましたが、戦国時代に土井城主の三須氏の保護を受けたことから、土井城廃絶後この地に移ったようです。
 土井泉神社文書が出されたのは、全国的には秀吉の太閤検地によって田制が貫高制から石高制に移行する時期に当たっています。戦国時代に成立した貫高制は、所領から徴収する年貢高を銭高に換算した額(貫高)によって土地を把握するため、実際の収穫量が把握できないという欠点がありますが、秀吉がはじめた石高制は、所領の収穫量(石高)そのものを把握する、より正確な土地把握の方法です。4通の文書の高表示は、天正17年(1589)が所領の寄付に際して出されたもので貫高表示、残りの3通は検地が実施されるごとに出されたもので、天正19年(1591)が貫高と石高表示の混用、文禄3年(1594)と文禄5年(1596)が石高表示になっています。
 このことから、土井泉神社の所領は、天正17年から文禄3年の間に行われた2回の検地で徐々に貫高制から石高制へ移行したものと考えられます。
また、天正19年の文書には放生会・祭・流鏑馬という村内の信仰にかかる年中行事の記載があり、当時の村の生活の一端をうかがい知ることができ、注目されるものです。


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