【有形文化財】

木造地蔵菩薩立像
【木造地蔵菩薩立像】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区可部九丁目34−10 (地蔵堂)九品寺地蔵保存会
●指定年月日:昭和50年4月14日
●概要:板張寄木造、臼型蓮座、像高173cm、36cm

   わが国の仏像、仏画の中で最も多いのが地蔵菩薩だそうです。というのも、地蔵菩薩は釈迦の入減後、弥勒如来が現れて人々を救済してくれるまでの長い間、無仏の現世にとどまって衆生を救ってくれると言うので、宗派を越えて人々の熱い信仰を集めたためです。その姿は一般に、菩薩としては異例の僧形で、右手に錫杖、左手には願いを叶えてくれる如意宝珠を持ちます。錫杖を持っているのは、常に行脚しながら救済活動を行っているからだと言います。
 「お地蔵さん」と人々に親しまれ、道端などの身近な場所に置かれることも多い菩薩です。さて、ここに紹介する像は、広島市ではあまり例のない等身大の木彫像で、よく見かける小柄な童顔の像とは趣が異なり、たくましい体格をしています。身体の表面がかすかに赤味を帯びているのは、後にベンガラという顔料を塗って修理されたためのようです。またこの像には、板状の木材を合わせた「板張り寄木造り」という技法が使われていますが、これはたいへん珍しいものです。
 この地蔵菩薩像があるのは、九品寺という地名のところです。江戸時代の終わり頃に編まれた『芸藩通志』によると、かつて九品寺という寺があり、それが村の名となったと言います。周囲には寺屋敷、大門、門前などの地名も残っていたと言いますから、かなり大きな寺だったのでしょう。
   地蔵菩薩像は、おそらくその九品寺にあったものだろうと言われています。今は新しく建てこんできた住宅に囲まれているお地蔵さんですが、かつては大寺院の中で、静かにたたずんでいたのかもしれません。


銅製梵鐘
【銅製梵鐘】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区可部町下町屋892 三人神社
●指定年月日:昭和48年5月30日
●概要:総高105cm、口径64.5cm


   表面に鋳出されたこつの図柄に特徴のある鐘です。ひとつは二人の仙人と犬、もうひとつは魚にのった人物の図で、どちらも梵鐘としては大変珍しいものです。
 この鐘の由来を刻んだ銘文によると、元亀3年(1572)に熊谷高直が三入神社に鐘を寄進しましたが、その後傷ついたので、延宝5年(1677)に野平九兵衛などが願主となり、安芸郡海田村(海田町)の鋳物師植木六郎兵衛直増に頼んで作り直したと言います。
 三入神社は、熊谷氏の居城であった高松城の北東方向にあたるため、社領を与えられるなど大切にされていました。このような熊谷氏と三入神社のつながりを伝えるこの鐘は、貴重な歴史資料でもあるのです。

金銅五鈷杵
【金銅五鈷杵】
県重要文化財
●所在地:安佐北区可部町綾が谷251福王寺
●指定年月日:昭和37年7月20日
●概要:総長23.5cm


   量感のある大ぶりな作品で、昭和37年6月に大師堂で発見されました。この五鈷杵は、室町時代初期のものと言われ、県内では厳島神社にある五鈷杵に次いで古いものとされています。『福王寺史話』という本には、福王寺第四世の良海僧正の時代、応永元年(1394)11月9日に、足利義満より「天下安全」の祈頑を命じられたことが記されています。その際この五鈷杵も使用されたのかもしれません。

鉄燈籠
【鉄燈籠】
市指定重要有形文化財
●所在地:安佐北区可部二丁目37番 明神公園
●指定年月日:昭和48年5月30日
●概要:高さ 313cm、基礎周囲565cm


   可部町は、昔から鋳物業が盛んなところです。この鉄燈籠は、可部町の歴史を物語る最古の遺物で、その大きさもさることながら、全体の調和もとれ、細部の技巧も優れており、かつての可部町鋳物業の水準の高さを示しています。
 鉄燈籠をよく見ると、「金比羅大権現」「鋳物師三宅惣左衛門延政」「文化五歳戊辰十月…」「世話人天井屋忠兵衛」などの文字が浮き彫りにされています。このことから、この鉄燈籠は江戸時代も後期にさしかかった文化5年(1808)に、可部の鋳物師三宅氏によって鋳造され、天井屋など可部の商人たちの手で「金比羅大権現」に奉納されたものだということがわかります。
 ところで、“金比羅燈籠”はもともと船の安全を祈るために建てられたもので、瀬戸内海の港などに数多く見受けられます。それがなぜ可部の町中にあるのでしょうか。鉄燈籠の置かれている場所にちょっと気をつけてみると、地名が「下の浜」。付近にも「渡り町」「水主町」など、水運にゆかりのある地名が残っています。実はこの場所は、かつて川船の発着場として掘り立てられた「船入堀」で太田川水運の船が盛んに出入りしていたところだそうです。また船入堀のほとりには藩の米蔵が置かれ、周辺の村々や高田、山県郡あたりの諸物資も、ここから船で広島へ積み出されていました。
   しかし、明治、大正と時代が移ると、次第に陸上輸送が発達し、昭和の初めには川船は完全に姿を消します。やがて船入堀も埋められ、わずかに往時の面影をしのばせるのは、公園の南側にある「新川」という水路と、この鉄燈籠だけになってしまいました。

【史跡】
熊谷氏の遺跡
地蔵河原一里塚
青古墳群
【天然記念物】
燈明杉
カヤ
峠八幡宮のオオツクバネガシ
千代の松
友広神社のイチョウ
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