【史 跡】

伊勢が坪城跡
県史跡

    @伊勢が坪城跡
    A高松城跡
    B土居屋敷跡
    C菩提所観音寺跡
●指定年月日:昭和45年1月30日

@伊勢が坪城跡:大林町
 この城は、三入荘の北端にある高さ30mあまりの小さな丘の上に築かれていました。城郭は、根之谷川に向かって階段状に並ぶ3つの郭と、その反対方向にあるひとつの郭と空堀で構成されています。また城の前面を流れる根之谷川も、天然の堀として利用したようです。ここは日常の政務を行う「居屋敷」としても使われており、高松城に移った後は、隠居所として利用されました。

高松城跡

A高松城跡:可部町大字下町屋
   この城は展望がよく、地形も険しい標高339mの高松山の山頂一帯に築かれています。
 
熊谷氏は、もともとあった城を大規模に改築して入城したようですが、その時期については、熊谷氏の力が充実した戦国時代初期とする説が最も有力です。そして天正19年(1591)、毛利輝元に従って広島城下に移るまで、ここが熊谷氏の本拠となりました。城郭は、山頂近くに「本丸」「二の丸」「馬場」「与助の丸」「明堂寺」などと呼ばれる規模の大きい郭が配置されており、東、西、南の尾根には、階段状に数多くの郭が残されています。

土居屋敷跡

B土居屋敷跡:三入南1丁目11番
   土居という地名は、中世の有力な豪族の屋敷を中心とした集落があったことを物語るものです。高松山北西の麓の土居にある、高さ1.5m前後の苔むした石垣は、熊谷氏が日常の政務をとっていたと言われる屋敷跡で、高松城へ移ってまもなく、高直が建てたと伝えられています。巨石を使用した石垣は、L字型に東西44m、南北38mにわたって残り、門の跡と思われる「切りかけ」も見られます。
   この屋敷跡は、中世の豪族のものとしては、山県郡大朝町の吉川氏の館跡(国史跡)と並ぶ貴重なものです。

菩提所観音寺跡

C菩提所観音寺跡:三入1丁目12番

 根之谷川を挟んで土居屋敷跡と向かい合うような位置に、熊谷氏の菩提所観音寺跡があります。かつては大寺院であったと言いますが、熊谷氏が安芸国を離れたことなどもあって衰退し、今では二間(約3.6m)四方の小さな観音堂と井戸を残すのみです。堂内には、熊谷氏の紋(穂矢)を刻んだ須弥壇があります。
   また、すぐ南には40基余りの五輪塔や宝篋印塔が並ぶ墓地が残っています。関が原の戦い(1600)後、毛利氏に従って萩に移った熊谷氏は、その後も時々家臣をここに墓参させていたと伝えられています。

    熊谷氏は、武蔵団熊谷郷(埼玉県熊谷市)から移り住んだ一族で、源平合戦で勇名をはせた熊谷直実の子孫にあたります。直実の孫である直国は、承久の乱(1221)の時に近江国勢多(滋賀県)で討ち死にし、その功によって鎌倉幕府から、その子直時に三入荘の地頭職が与えられたのです。
   三人荘は、現在の大林、桐原、上町屋、下町屋一帯にわたる荘園でした。直時は貞応元年(1222)に、ここへ入り、最初大林に伊勢が坪城を築いて本拠としましたが、後には熊谷氏の本拠は高松山城に移されました。地頭職についた熊谷氏は、長く安芸国守護の武田氏と深い結び付きを保っていましたが、大内氏のすすめや毛利氏の積極的な働きかけの結果、遅くとも天文2年(1533)頃には武田氏を離れ、毛利氏に服属しました。以来、終始毛利氏のために活躍し、毛利氏興隆の柱となります。
   後に毛利氏は関が原の合戦(1600)に敗れ、長門国萩(山口県萩市)に移封されますが、熊谷氏もこれに従い、共に萩へ移りました。


地蔵河原一里塚
【地蔵河原一里塚】
県史跡
●所在地:安佐北区可部九丁目20番
●指定年月日:昭和40年4月30日

    慶長8年(1603)、江戸に幕府が開かれると、交通網も再編成され、江戸日本橋を起点とする五街道が定められます。幕府は、街道沿いに一里塚や松並木を整備して、旅人たちの便宜を図りました。その後、各藩がこれにならい、全国的に交通路の整備が行われました。
   広島藩でも寛永10年(1633)、地方を視察する幕府巡見使を迎えるにあたって、臨時に道橋奉行や一里塚奉行などを任命し、道路の整備に努めました。この時、山陽道(西国街道)は道幅二間半(約4.5m)、雲石両街道は、七尺(約2.1m)、村伝いの小道は三尺と定められ、街道には一里ごとに塚を造り、松または榎が植えられました。
   
広島と山陰の浜田とを結ぶ石見街道は、当時、南原峡沿いに進み、登り三里降り三里と言われる可部峠を越えて、現在の山県郡千代田町本地のあたりへ抜けていました。
   この街道沿いにも一里塚が置かれましたが、明治以後の道路拡張などにより、今ではほとんど見られません。わずかに残されたこの一里塚も、現在の路面が相当地上げされているため、塚の原型は失われています。かつては一里塚の向かい側に茶店があり、可部の牛市へ行きかう人たちの休憩所として賑わっていたと言います。


青古墳
【青古墳群】
市指定史跡
●所在地:安佐北区亀山五丁目35番
●指定年月日:昭和48年5月30日

   福王寺の南麓に広がるなだらかな斜面には、かつて可部古墳群と総称される約百基の古墳があったと言われます。耕作や宅地開発などによってその多くは失われていますが、横穴式石室を持つ小古墳が中心だったようです。
   青古墳群は、その可部古墳群の一部で、住宅地の中に15基の古墳が残っていましたが、現存しているのは4基です。その中の1基には、玄室の床に石を敷き、墳丘の裾にも石を積み上げているなどの特徴が見られます。
   
また、須恵器や土師器の食器類、鉄製の武具、金環などの装身具といったものが出土していますが、これらは古墳時代後半期(6〜7世紀)の特徴を持っており、古墳群がその頃築かれたことを示しています。前半期の古墳がほとんど見られないこの地域に、後半期に入って多くの古墳が造られるようになったのは、鉄製農具の普及により、水田が大規模に開発され、新しい耕地を求めて、それまで人々が住んでいなかったところにも住むようになったためと言われています。
 また、これだけの古墳が1カ所に集中しているのは、おそらく当時は、有力者だけでなく、その下の階層の人たちも横穴式石室に葬られるようになったからだろうと推測されています。


【天然記念物】
燈明杉
カヤ
峠八幡宮のオオツクバネガシ
千代の松
友広神社のイチョウ
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