第一章 共生社会と子育て
 
 
 狼に育てられた少女の話は余りにも有名です。皆さんもご存じでしょう。その少女は、幼少期に人と触れるチャンスをもたないで過ごしていました。それゆえに、自由に手を使うことも会話する能力も持たず、狼と同じように吠え、獲物を捕って生活をしていました。その後、人間と関わりを持った少女は、いくつかの語彙や生活習慣を身につけたそうですが、その能力獲得のためには余りに長い時間を要したと伝えられています。
 このエピソードは、初期の人間的かかわりがいかに重要であるかということをを示しています。つまり、人は人とのかかわりの中で人間として育まれるのです。
 
 (1)情緒的安定や信頼感を育む
 人とのかかわりに於ける最も源初的な関係は、乳幼児期の母子関係にみられます。その母子関係を「母子一体」と呼ばれるように共生的であり、この時期に経験されるスキンシップや対話は乳幼児の情緒的安定感や信頼感を育むのに欠かせないのです。それは潜在的に備えているさまざまな能力を開花させる土壌となるのです。また、子どもを取り巻いている父や祖父母、兄弟あるいは仲間との関係も重要な学習機会を提供します。つまり、周囲の人々とのさまざまな関わりは、子どもの性格形成や諸能力の獲得に大きな影響力を持つのです。つまり、乳幼児期から児童期の子どもは、周囲の大人の行動や生活態度を模倣し、社会化のための基本的な行動モデルを獲得するための大切な時期なのです。言うまでもなく、その原点は家庭にあり、そこでの温かな人間関係が重要な役割を果たすと言えます。家庭に託されている教育力はこれまで考えられていた以上に大きな役割を含んでいるのです。
 
 (2)子育ての楽しさを育む
 さて、近年のわが国の学校教育は知識中心型の教育から思考・体験型の教育へ、教師主導型の教育から援助型の教育へと変革しつつあります。それは子ども自らが周囲の環境に直接かかわり、経験し、発見し、探索し、思考しようとする子ども中心の教育への脱皮であります。
 同じように、情報化・少子化・国際化などの社会変化に影響を受けながら、「子育て」に対する大人の意識も変わりつつあります。たとえば、一昔前までは幼稚園や学校の参観日は母親に独占されていました。しかし、ここ数年の状況は徐々に変化がみられ、男性の姿が散見されるようになりました。これは、子育ての男女共同参画の一つの現象と見ることができます。勿論、こうした現象の背景には企業や学校などの週休2日制の実施が大きな推進力になっていることは否めません。しかし、その底辺には、仕事中心の生活スタイルから、家庭生活を軸として仕事を考えようとする新しい生活スタイルを眺望する生活者が増えていることを反映していると言えます。
 もう一つの事例をみてみましょう。最近のある調査によれば、母親の多くは子育てを「楽しくない」と感じているという結果が報告されています。その割合は、他国と比較して2倍も多いのです。これは大変なことです。この背後にはさまざまな原因が考えられますが、それが何であれこのことは親子双方にとって深刻な問題であると言えます。
 子育てが「楽しい」と感じられるためにはどうしたらよいのか。いま真剣に考えてみることが必要だです。一つには、誰しも社会の一員として社会参加したいという欲求を退けることはできないということ。つまり、従来型の価値観で、子育てを一面的に女性だけに押し付けるのは一考が必要です。そこでは女性と男性がそれぞれの個性と特性を活かし合い、共に支え合い、共に生きようとする価値感情が育まれることがキーポイントになるように思われます。
 
 (3)子どもと大人が支え合う家族関係を育む
 大人は、子どもに基本的人権の大切さや社会的ルールの必要性を伝え、彼らの自立を援助する重要な役割を担っています。その過程でのさまざまな関わりを通じて、乳幼児は“共生の感情”を芽生えていくのです。この感情は最も小さなコミュニティである家庭で醸成されるのです。つまり、子どもを取り巻く私たち大人が、家族一人一人の存在を認め合うこと、それぞれが担い得る役割は何か考えてみることは重要なことだと思われます。それは、子どもも大人もホッとできる空間(家庭)を築くことにつながることでしょう。そして、その思考する姿が子育てのための最良の環境となるのです。このような気持ちを基礎として、最近、私はいま関わっている幼稚園の保護者の皆さんに次のようなお願いをしました。
 
 「子どもはいつの時も自分なりに一人前だと思っています。一人前として認められることは、自立する過程で欠かせない発達要因なのです。子どもは、お家の人のために何かしてあげることは大きな喜びなのです。この感情は、子どもに家族の一員であることを実感させ、生きる自信と生きる喜びを与えてくれることでしょう。 そこで、ご家庭でもお子様のできることでお手伝いの喜びを味わせて頂きたいと思います。」
 
 みんなが気持ちよく仲良く暮らすためには、大人も子どもも、自分ができることで力を出し合うこと。それによってお互いが支えあって生きているのだ、ということを確認しあう機会が必要なのです。
 家庭内でも、すぐできる小さな行動を起こしてみようではありませんか。その一つとして、思いやりの「まなざし」はいかがでしょうか。これは共生社会をはぐくみ、共生による子育て環境を育む最初の一歩として大きな力になると思うのです。
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 自ら感じ、自ら考え、自ら行動する子どもの育成
 
 教育は、一人ひとりがよりよい方向に変容し、好ましい人間的成長を遂げていこうとする営みです。言い換えるなら、学習者(ここでは園児)は、「他者から保護される生活」から「自立して生活する」姿へと徐々に変化していくことと言えます。
 ご存知の通り、乳幼児は生きていく力を十分に備えておりません。生きるためには、大人の手厚い保護の中で安心して過ごすことのできる空間が不可欠なのです。とりわけ乳児は「保護」と「介護」の両面から支えていくことが必要なのです。そして、幼児および児童は、大人との温かい関わりのなかで、少しづつ自分のできることを拡大していき、自分なりに感じたり、考えたり、行動(試行錯誤、探索行動)したりして、事象の面白さを知っていくのです。
 このように乳幼児期の生活は、他律から自律(自立)に向けて、少しづつ生活の質を改善をしていくことが必要です。子育ての面白さや難しさは、子どもの実態に応じて、私たち大人の態度を少しづつ変容させていくところにあるのかもしれません。
 さて、子どもたちにとって幼稚園という空間は、初めて触れる「集団社会」です。そこで一人ひとりが遊びや生活を通して、参加することの喜びを味わう空間です。かなり昔(兄弟や近所の子どもの数の多い時代)では、そうした教育機能が、身近な地域の中に存在していましたが、特に近年は出生率の低下(少子化)や核家族の増加などによって、その機能が失われつつある現実があります。例えば、子ども同士が群れて遊ぶ機会が少なくなったり、同時に地域のコミュニティー機能の低下は、人間関係かによってえられる知識や技能、あるいは子育ての情報(知恵)を伝承していく機能を著しく低下させていると言えます。
 このような社会状況の変化は、おのずから教育機関(幼稚園や保育園など)に期待される役割が変化せざるを得なくなっているのです。その意味でも、幼稚園や保育園、そして家庭での生活のあり方について再点検してみる必要があるのです。
 概して、過保護な生活からは、子どもたちが自立して考えたり、自分で行動したりする習慣が育ち難いようです。これは「指示待ち族」の増加が問題とされる所以でもあります。その一方で、放任の生活(わがままな生活)では、基本的な生活習慣(あいさつ、マナー、モラルなど)や一人ひとりの発達課題に即した欲求(学習欲求や生活欲求など)に十分に応えられないという状況を生みます。
 これらの事例をあげるまでもなく、子どもの生活は、大人の生活態度に大きく依存していると言えます。
 そこで、私たちは微力ながら「自ら感じ、自ら考え、自ら行動する子ども」の育成を目指して、共に考えどもに歩んでいきたいと思います。どうぞ保護者の皆様の格別のご協力をお願い申しあげます。
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 過保護・溺愛・過干渉
 
 私たち大人は、子どもに対していろいろな願いを持つものです。たとえば、自分のことは自分でできるようになってほしい、自分の思いを素直に表現できるようになってほしい、思いやりの心をもってほしい、等など。その願いは、膨らむばかりです。どれも、子を持つ親として当然の願いばかりです。
 子どもたちは、長い人生の中でさまざまな困難に出会うことと思います。そうした時にあっても、自分を失わないで、周囲の人々と協調し、より良い解決策を見いだして欲しいのです。そこで、幼い時から「自ら感じ、自ら考え、自ら判断し、自ら行動する」習慣を持つことは大切なことだと言えます。
 この習慣の基礎にあるのは、「自発性」です。この自発性を育もうとするときに、周囲の仲間(子ども同士)や大人の存在は看過されません。
 著名な心理学者である平井信義先生は、この「自発性」を抑圧している原因として大人の態度を指摘されておられます。
 最も良くない態度は「過保護」「溺愛」過干渉」の3つに集約される、としています。次に、その論旨を私なりにまとめてみました。
 
 過保護な親は、子どもにまかせることができない。子どもの行動に手のかけすぎ。完全主義の母は過保護になりやすい。またサービスをすることが親切な親のすることだと思っている。このように過保護に育てられた子どもは、親がそばにいないと不安定になりやすい。不安定だとなかなか周囲の仲間と遊ぶことが出来ない。要は、子どものすることにいちいち口を出さないこと。
 溺愛とは、子どものいいなりになる子育て(お菓子が欲しいと言えばその時間でもないのに与える等)。溺愛して育てられると、わがままになる。自分の思い通りになると思っているので、玩具でも独り占め。だから、仲間とうまくかかわれないし、仲間はつまらないと思う。時には仲間の遊びを壊したり、意地悪をしたりする例もある(家庭内暴力の一因にもなる)。このような子どもの場合には、物質的な欲望を一定範囲内にとどめ、がまんをする力を育むことが必要。
 過干渉に育てられた子どもは、いつも親の望む「よい子」でなければならないと思い込まされている。けんかもいたずらもいけないことだと思っているので、なかなか友達の中に入って遊べない。良い子の枠組から早く自由にしてあげることがポイント。
(以上、平井信義「思いやりのある子の育て方」PHP文庫,pp.101-104を、筆者が要約しました)
 
 実に刺激的な内容を含んでいます。子育ては、実は大人が問われているのです。
 幼児は、遊びを通して多くの事を学んでいきます。遊びや生活の中、その中で交わされる他者とかかわりを通して、周囲のものへ興味・関心を広げ、多くの探索行動や協調的な行為を経て、多くの事柄を子ども自らが学び取っていける環境が求められているのです。
 そこで私たち大人は、そうした遊び環境(学びのための環境)を生みだすためのさまざまな「配慮」と、試行錯誤の体験を見守る「寛容な心」が必要になると思うのです。
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保育者はコーディネーター…環境による教育の大切さ
 
 凧揚げ名人は、凧を宙に浮かべるときの微妙な紐の扱いが実にうまいし、風の動きを読む目を備えています。風が無いときには凧揚げはしないでひたすら風を待つ。その一方で、素人はただひたすら凧を持って走り続け、ついには疲れてしまい、凧揚げが嫌になってしまうのです。
 幼児の教育は、この凧揚げの状況によく似ているように思われます。凧は子どもたちの活動、風は子どもたちの心に、そして凧ひもは大人の存在にみえてくるのです。
 別の例をあげてみましょう。元々、幼児は歌が大好きですからどんな状況でも歌を歌ってくれます。しかし、いつも同じ調子で指導をしていると子どもたちは「同じでつまんない」と正直に言い、もう歌おうとはしません。このようなとき、はたして子どもたちは歌を歌いたくなるような状況だったのか、子どもの興味関心はどこに向けられていたのか考えてみる必要がありそうです。
 卓越した保育者は子どもの心を引き込む指導力を持っています。が、単にその能力だけではないようです。むしろ、子どもの心が焦点化してきたら、保育者は一歩退いて子どもの心の動きを束縛しないで見守る。子ども自身が持っている自己教育力を尊重し、子どもの焦点化された心が持続できているかどうかに気を配るのです。優れた保育者は、このような硬軟取り混ぜた技を持っています。
 幼稚園教育要領や保育指針の改訂を機にして、子どもを取り巻く「環境」の大切さが叫ばれています。それは決して大人の存在を過小評価しようとするものではないと考えます。幼児の心と身体の発達に即して経験の場を考慮し、幼児自身が各自の発達課題を達成し得るように状況を整え、幼児自らが試行錯誤し、達成感や充実感を持てるようにする。このような場作りは、保育者自身が前面に出る場面ばかりではないということを認識することは大切なことです。むしろ保育者には、幼児が経験する空間をコーディネートする重要な役割があると考えられます。
 そこで大切なことは、子どもたちを支えているのは保育者だけではないということ、つまり保護者、家族、仲間、そしてたくさんの大人達に囲まれながら生活しているということを視野に入れる必要があります。コーディネーターは、多くの人たちの協力や支援をいただきながら、幼児が多様な人間関係を持ち、多様な学習経験の場を持てるような空間をデザインする大切な役割を担っているのです。それは子どもも大人も共に生きることに通じているのだと思われます。
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 子どもの充実感と大人の存在
 
 先日ある小学校の音楽授業を見せて頂く機会を得ました。卒園した子どもたちは最近どのような生活をしているのだろうか。このような気持ちをもって小学校の門をくぐりました。
 四年生の旋律作り(創作)の活動です。表現するための楽器は何でもよいとのこと。ある子はリコーダーを使って、また別の子は木琴やキーボードを用いて課題に取り組んでいました。幾つかの表現手段の中で、一際人気を集めていたのはコンピュータでした。社会の変化と同様に、音楽の授業にも大きな変容が感じ取られます。
 さて、その授業で取り組んでいた課題は“自分をアピールするためのコマーシャル・ソング作り”でした。その課題を解く過程で、子どもたちは「自分は周囲の人にどのような印象で受け止められているのか」「どんなイメージを与えたいのか」、ひとりひとりが一生懸命に自分の姿や印象を思い描きながら、自分のイメージを最も代表する旋律を創り出していくのです。およそ三十人余りの子どもたちが一斉に活動する授業の中では、何人かは興味や関心が持てなくて、活動に参加できない子がいるものですが、この授業はそうではありません。子どもたちは夢中で創作に取り組んでいるのです。本当に気持ちのよい爽やかな授業でした。
 この授業で特に印象深かったこと、その一つは、旋律作りを通して他者と自分の関係を意識化しようとしているところです。一般に、国語や社会の教材で取り上げられる素材では、主人公の気持ちや働いている人の気持ちなどを推し量りながら、他者の気持ちを読み取ろうとする形で授業が展開されます。しかし、とかく音楽では演奏や読譜などのような奏法に関わる指導に陥りやすものです。なかなか人間関係を意識化させるような取り扱いは難しい。表現するための技術は必要ですが、自分は「何を表現したいのか(思い)」そのために「どの手段を用いるのか(技術)」という方向性を失いがちです。
 たとえば、新生児が泣くのは、お腹がすいたとか身体の調子が悪いなどの意思表示に他ならないのですが、その時点で赤ん坊は泣くという行為を既に持っている。持てる行為を通して意思表示するのです。つまり、授業において、「思い(イメージ)」が無いところからは表現(言葉、絵、身振り、音楽など)は生まれてこない、と言えます。この先生の卓越したアイデアに大きな拍手を送りたいと思います。。
 第二点目は、この爽やかな授業の背後には、一人一人の心を大切にした学級作りや子どもたちの興味・関心の的を得た授業の工夫があると言うことです。つまり、教師の周到な準備です。これを公式で表すと次のようになるのでしょうか。 子どもの好奇心×教材の最適性×指導方法=能力の伸び
いずれの要素が欠けても子どもの資質は高まっていかないのです。当然ながら、大人(教師)の存在は重要と言えます。
 温かい気持ちの通い合う「かかわり」を生む授業の基礎には、一人一人が生かされること、お互いの存在を認め合うことが重要となる、という視点を窺うことができます。遊びの延長線上として授業に臨めたらどんなにか楽しいことでしょう。そのためにも、常に好奇心旺盛で能動的な生活を営むことの大切さをしみじみと感じます。幼児も例外ではないと思われます。大人の存在が子どもたちの充実感と深くかかわっている。この思いを強くした一日でした。
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 耳をそばだてて音楽を聴いてみようよ
 
 最近の音楽環境は私が幼かった頃と較べると、とても良くなっていると思います。テレビやラジオ、カセットやCDなどで、いつでも何らかの音楽を聴くことができます。デパートや喫茶店などではいつでもBGMが流されています。幼稚園や保育園の生活でも、生活の端々で音楽が聴こえてきます。音楽は以前とは比較にならないほど私たちの生活の中に深く浸透しているようです。
 このような音楽環境は、良い意味でも悪い意味でも幼児の行動に擦り込まれているようです。たとえば、最近流行のサッカーのテーマソングを“オーレー、オレ、オレ、オレ”とリズミカルに口づさみながら踊っている姿は象徴的です。大人が真似をしようと思ってもなかなか大変です。しかしその反面で、普段は不必要な音もたくさん聴こえていて、私たちの耳と心を侵している。どれも何となく聴いて、何となく覚えて、そして何となく忘れられていく。このようなよくない習慣も身につけているようです。音楽は何かのついでに、添え物のように聴き流されているように思われるのです。これは普段の会話や活動にも当てはまります。
 このようなことを私が思うのは、最近大勢の子どもと接する中で、注意力の散漫な子、落ち着きの無い子、わがままな子が気になっているからかも知れません。この子どもたちは、どちらかと言えば、いつでも何となく物事に接しているのではないか。音楽遊びでも、お絵かきでも、外遊びでも、何となくその時の気分で、自分の都合のよいように−。時に、このような子どもたちは、自由で、心のままに生きている、それが子どもらしいと見なされてしまう。たとえば、リズム遊びの時に、音楽に合わせて歩いているのだけれども、何となく歩きながら音楽に合わせている。駆け足の音楽が聴こえてくると子どもたちは喜んで走りますが、そのはやる気持ちを制御できないで“かけっこ”と化してしまう子の多いこと。そこでは「もっと音楽を聴いてみようよ。耳と目と心を凝らして。そうすればもっと音楽が面白くなるよ。」と声を掛けたくなります。が、子どもたちが耳をそばだてたくなるような音楽遊びをとっさに提案できないときには、その言葉も躊躇してしまう。この習慣は、もはやリズム遊びの時だけの問題ではありません。生活のさまざまな場面で、各々の発達段階で可能な方法で、自分の心と身体をセルフ・コントロールしようとする気持ちを醸成することが望まれます。
 「環境による教育」が叫ばれる中で、大人(援助者)の存在が過小評価されることがあってはなりません。遊びの楽しさだけに終始するのではなく、同時に子どもが今持っている注意力や観察力を駆使し得る環境、物事の違いの面白さに意識が向けられるような環境の構成や援助の方法はどうしたらよいのか−私たち大人の役割は以前にも増して重くなったと言えるでしょう。
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 意欲を育む
 
 子どもは生来的に意欲に満ちた存在です。その意欲は、遊びや生活のさまざまな場面で発揮されますが、とりわけそこでの大人の役割は、意欲を失わないで遊びに取り組むことができるように環境を整えることでしょう。子どもが安心して過ごせる空間は“意欲の吹き出す土壌”となります。子どもはこの安心空間を基地として、さまざまな興味や関心を開花させ、持てる感覚を駆使して自分の想いを膨らませるのです。つまり、安心空間はさまざまな経験のできる場となるのです。そして、意欲はチャレンジ精神(勇気)の芽となり、優しさや思いやりの心の芽になるのだと考えられます。
 しかしながら、大人が「子どもに良かれ」と思ってしていることが、実際には子どもにとって大きな障害になっていることも少なくありません。たとえば、子どもがボタンをはめようと苦闘している姿をみて、すぐに手を出してしまう大人は、子どもの学習機会を奪っていることに気づかないでいる。ここでは子どもの苦闘を温かく見守る態度が重要です。
 別な例で−。大人に誘われてゲームに参加した子どもが、いざゲームを終えた瞬間に「ねえ、もう遊んでいいの?」と素直に語る−これは衝撃的です。その子どもは明らかに自分のやりたい事を持っている。この場合は、子どもの意欲(主体性)をうまく活かせないでいる大人がそこにいる。
 子どもの意欲や意志を最大限に尊重することは、子どもの主体的な態度と責任感、チャレンジする勇気や粘り強さを育む原動力となるのです。当然のことですが、その遊びが周囲に及ぼす影響にも配慮しなければなりません。その気くばりの中で、我慢することや他者と共存することの意味も感じ取ることでしょう。才能や可能性は、それらの後を追うようにして伸びてくるのです。
 意欲に溢れた子ども、それは輝ける存在です。子どもの日々の生活は、未知なることに対する小さなチャレンジの連続でもあります。その小さな勇気を励まし、大きな勇気を育てること−これは子どもの教育を考える上で特に重要なポイントとなるのです。
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 自由さと自律の心を育みたい
 
 子どもたちは玩具屋の前で好きなおもちゃを見ているときや、いくつかのケーキの中から好きなものを一つだけ選ぶように促したとき、輝いた表情をしています。そこでは好みをすぐに示せる場合もあれば、長い時間が必要なときもあります。いずれの場合も、自分の好きなものを選り分ける時には、時間が経つのを忘れさせてくれる楽しさがあるものです。
 それでは、どちらも好きで甲乙つけがたいとき、一つだけを選ぶのには困ってしまうとき、あるいは目の前にあるのは好きではないがどちらかを選ばなければならない時、子どもたちの心はどのような様子なのでしょうか。
 こうした状況に照らしながら、保育活動を考えてみたらどのようになるのでしょうか。幼稚園や保育園では、保育の活動を「設定保育」「選択保育」そして「自由保育」などに保育を分類する習慣があります。設定保育は保育者が活動内容を決定して子どもたちにおろしていくような保育形態を指しています。選択保育は、あらかじめ保育者によって示された幾つかの活動の中から子どもが一つを(あるいは幾つかを)選び、それを中心として活動を展開していく保育形態のことを指しています。活動の内容によって、使い分けることは賢いアイデアだと思います。
 私は、後者の場合のように、自分の選んだ活動に参加できること、一人ひとりに選択機会をもたせる「選択保育」の考え方は素敵だと思います。しかし、それ以上に私は、子どもの主体的な取り組みに多くを委ねる「自由な保育」が素敵だと思うのです。一人一人の興味や関心を中心にして、自分で思考し、それを「愉しく悩む」こと、この一見無駄に思える試行錯誤の時間の中に学習の面白さがあるのではないかと考えるからです。この主体的な取り組み、幼い子どもたちにとって実に大切な経験をもたらしてくれると思うのです。
 たとえば、私たち大人が洋服店で買物をする時のことを考えてみましょう。服一着を選ぶのに、とても長い時間と思案を必要とすることがあります。たとえば、形は?色合いは?材質は?その服をどの様な時に着るのか(季節は、時間帯は)?予算は?最後にそれが自分に似合うのか等などいろいろと考えます。その結果として、一着の服が選ばれるのですが、その試行錯誤の時間は楽しさに彩られています。あたかも宝探しのようです。大人は自分の必要性(こんなのが欲しい)から服を選ぶのですから、品定めにはそんなに時間はかからないだろうと思うのですが、悩めば悩むだけ時間がかかってしまうというののも皮肉なものと言えます。悩んで買って、いざ家に帰ってその服を着てみたらイメージと違っていたというのもよくある話です。
 同じように、子どもたちは「選択」した遊びに参加しようとするときに悩むのだろうと思われます。そこでは大いに悩めばよい。自分の意志で選んだのに、それに参加しているうちに嫌になることも少なくありません。そこで自分の選択は正しかったのかどうか、また考えるのです。どうしても好きになれないとき、それは自分の選択が誤っていたことに気付くのですが、その時点では自分で納得せざるを得ないのです。それ以上に自分の好きな「選択活動」に遭遇しなかったときはなお一層辛い思いを味わうことになるのです。
 正月になると多くの子どもたちは凧揚げ、駒回し、羽根つきなどの遊びを目にするでしょうが、その遊びを見たみんながそれをしてみたいとは思わないかも知れない。遊びに参加してみて、はじめてその遊びの面白さに気付くのかも知れない。
 ここで私は思うのです。子どもたちは、活動の必要性(必然性)や自分の力(可能性)に基づいていないものには、その活用方法がイメージできなかったり、遊びを発展できないのではないか。だから、遊びにチャレンジする気持ちが涌いてこないのではないか。より的確な判断の為には、思いを巡らせる時間と経験が必要なのだということ。そして自分なら「できる」かも知れないことにチャレンジするから、好きになったり自信を育んだりできるのだと思うのです。
 自分の思いから始めた活動はチャレンジ精神に溢れている。この心を大切に育みたい、と最近特に思うのです。これが意味する所は、決してそこにケーキやおもちゃがあるから選ぶのではない。ケーキやおもちゃや遊びが欲しくなったから選ぶのだということです。この違いは大きいと言えます。「選択保育」の限界もこのあたりのところにあるのかもしれません。
 言い換えるなら、モデルが示されて、それに近づくことは容易です。それよりもむしろ、幼い時から(ごっこ遊びにみられるように)自分でモデルを想像し、自分で目標を作り、そこに自分の力で近づいていくような自由さと自律(自立)の心を十分に育みたいと思うのです。モデルに近づくだけの教育が思考の停滞を生み「指示待ち族」を生んでいるのかもしれないのですから。
 この意味から、私たち大人は、子どもたちに、思考の時間と経験の場をできるだけ豊かに、そしてそっと準備し、そしてそれに参加した喜びを共に味わいたいと思うのです。
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 強い心と弱い心
 
 故武田ミキ先生(武田学園創設者)は、私たちに「心を育み、人を育てる」というとても大切な指針を残してくださいました。古い時代にあっても、また現代のような高度情報化社会にあっても、時代を越えて「思いやりのある心豊かな人」が求められています。このことには異論の余地はないと思います。
 それでは、幼児期に育まれる「心」とは何なのでしょうか。「優しい心」「我慢する心」「思いやりの心」「素直な心」「美しい心」「正義の心」などなど、いろいろな心が考えられるでしょう。それらは、いずれも言葉で言うのは易しいけれど、実際にその心で過ごすことはなかなか容易ではありません。たとえば、私も経験があるのですが、どうしてもやり遂げなければならない仕事があるとき、ついつい眠さに負けて寝入ってしまったり(怠け心)、遊びに心を奪われてしまうなどはよくある話です。こんなときには、後になって「ああ、私は、なんて心が弱いんだろう」と思うのです。
 子どもたちも私の例と同じように、弱い心といつも隣合わせて過ごしているのだろうと思います。一般的に、幼児は自己中心的で、わがままで、依存的だとみなされがちですが、これらはいずれも弱い心の代表です。
 その一方で、実は、子どもたちはお母さんやお父さんの手伝いをしたり、自分で夢中になれる遊びをみつけたり、あるいはお友達に親切にしてあげたりなど、自分の思いを巡らせたり、やさしい思いを周囲の人に向けていくこともできるのです。どの子もこのような「強い心」も持ち合わせているのです。たとえば、友だち同士で(たとえば年長が年少に)「○○くんの靴箱はここよ」「シールはここに貼るのよ」などのやり取りはよく見られます。しっかりと「人を気遣う心」が見られるのです。これは本当にほほえましい光景です。
 子どもは、刻一刻、心の様子は異なっていますが、人との関係(遊びや生活)の中で、それぞれがやさしい心を発揮したり、安心感を得たりして、さまざまな心に触れている(心をこねている)のです。
 年度のはじめの新しい環境の中で、子どもたち(特に新入園児)は不安でいっぱいです。子どもたちが自分のいまの素直な気持ち(心)を表せるように、しっかりと一人ひとりの思いを受け止めていきたいと思います。
 このような大人の態度、つまり人のことも大切に思う習慣が子供の回りにいっぱいあるとき、子どもは自然に思いやりの心(強い心)を育くんでくれるのだと思います。
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 ホワイトヘッドの言葉
 
 先日、保護者の方から次のような記事を見せて頂きました。とても嬉しく拝読させて頂きました。ありがとうございました。何はともあれ、その記事を御紹介したいと思います。
 
 「子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか。それはいつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ」。ルソーの教育論〈エミール〉の一節である◆先週出された中教審の報告を読んでいて思いだした。ほしがるものを与え続ければ、子どもはやがて弱くなる、という意味だろう◆中教審報告の主旋律である「生きる力」もつかない◆現代っ子の周りにはモノがあふれている。そればかりではない。授業に宿題、塾やけいこと追いまくられてもいる。飽食や過食をもじって、「飽育・過育の時代」という言い方をする学者も現れた◆バランスを欠いた教育は、子どもの学ぶ喜びや意欲をそぐ。ひいては心の健康もむしばむ。中教審報告の副題を「子どもに『生きる力』と『ゆとり』を」としたのは、こうした現実への危機感も込めたのだろう◆そのために、教育内容の「厳選」にむけて大ナタを振るうという。完全学校五日制が前提だから、当然のことだ。浮いたゆとりは、遊びや自然体験・生活体験に振り向けたい◆知識の量で測る「学力観」を変えなければならない。中教審は英国の哲学者・ホワイトヘッドの言葉を引用して言う。「あまり多くのことを教えるなかれ。しかし、教えるべきことは徹底的に教えるべし」 (読売新聞「編集手帳」から)
 
 示唆に富む文章です。私も同感です。私たちの幼稚園もこの考え方に沿って、日々試行錯誤しているのです。この文章の中で、特に印象深いのはホワイトヘッドの言葉です。
 「あまり多くのことを教えるなかれ。しかし、教えるべきことは徹底的に教えるべし」。
 さて、ここで言う「教えるべきこと」、皆様はどのようにお考えでしょうか。
 文章の中にもいくつかのヒントが隠されているように思われます。「意欲」「学ぶ喜び」「思いやり」「健康な心」。そして、ここには記されてはいませんが、「命の尊厳」「基本的な生活習慣」など、いろいろとあげられることでしょう。
 しかし、そうした願いとは裏腹に、私たちは子どもに良かれと思って手を差し出していることが、却って子どもたちの自律や意欲、興味や関心をそいでしまっていることも少なくない。この点について、私たち大人の自省が必要です。
 あくまでも学ぶ主体は、子ども自身であること。大人は子どもの背後で、追風となることが望まれているのだと言えます。その意味からも、私たち大人が、子どもたちの「鏡(モデル)」となって意欲的に生きる姿(課題に取り組む姿)を示すことが重要なのだと思います。子どもの姿は、我々大人の鏡なのですから。
 教育を考えるときに重要な視点は、一つには子どもの「個性(長所)を生かす」ことだと考えます。教育の善し悪しは、この「個性(長所)」を大人がしっかりと読み取ることができるかどうかにかかっている。二つ目は、人はみんな顔や形が異なり足の速さが異なるように、感じ方も異なっているということ、この差異を認め合い、思いをお互いに伝え合い、それを共感できるかどうか。お互いの気持ちを伝え合う中で、共に喜んだり悲しんだりするのです。この感情の共有を通して、相互の信頼感が深まり、その情愛によって“共に生きたい”と思えるようになるのだと思います。
 そして、大人は子どもの将来を思えば思うほど、子どもが学んでいる姿を「寛容な心」(これには自制と忍耐が必要です)と「愛情に包まれた厳しさ」の両面から受け止めていくことが大切なのだと思われます。子どもの歩みの速さに沿って……。

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