第四章 思いやりとやさしさを育む
 
【1月】
 心の充実
 子どもたちの「心の充実」に思いをめぐらせてみました。心の充実とは何なのでしょうか? たとえば、幼稚園での生活が楽しい、友だちに会うのが楽しみ、自分の好きな遊びがある、自分は周囲の人に愛されているという感情、自分の思いを達成できる、など。自分が好きで人も好き(自尊他尊)という感情を持つことであるとも言えましょう。また、日々の何気ない遊びを通して、周囲の環境と関わり、さまざまな物の不思議に出会い、そのメカニズムに興味や関心をむけることも、心の充実に通じると思われます。
 このような人や物との関わりでは、いつも自分の思い通りになるというわけではありません。子どもたちが日々直面する困難は少なくないのです。たとえば、ボタンがはめられない、靴が履けない、自分の思いがうまく伝えられない、我慢ができない、等など。そうした時、子どもは人の手を借りたくなり、大人もつい手を出してしまうのです。幼い時はそれで事が済んでも、それは決して子ども自身の成長にプラスになっていないことも少なくないのです。そこでは、自分の意思で意欲的に挑戦し、自分の力で乗り越え解決する力(自己解決能力)を育むことが大切になります。これは「生きる力」と言い換えることもできるでしょう。自分の力で問題を解決できたときには、達成感や充実感を味わい、大きな自信となります。さらには、次への挑戦の勇気も涌いてくる。
 武田ミキ先生(武田学園創設者)は「教育は愛情であり、情熱であり、忍耐である」と語られました。これは、子育てにたずさわる私たちの基本的態度としてしっかり心に刻んでおく必要があると思われます。子どもたちの健やかな成長を願う親の愛は、子育ての大きな原動力となります。愛情や情熱があればこそ、さまざまな苦難に辛抱強く取り組み、そして乗り越えることができると考えることができるのです。
 子どもたちに託したい願いは尽きることがありません。小さい体の中に秘められた一人一人の個性と可能性を十分に発揮できる子どもたちに育ってほしい。「意欲」や「思いやり」のある子どもに育ってほしい。そうした子ども像へ向かって、気持ちを新たにして、日々の生活の充実に微力を注いでいきたいと思います。
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 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 昨年は、阪神大震災そしてオウム真理教の事件に日本中が騒然とした年となりました。早いもので震災からもう1年も経つのですね。そうした中で清涼剤のような爽やかな印象を与えてくれたのはボランティアの活躍であったように思われます。しかもそれが、いつの時代でも「とかく最近の若者は−」等と苦々しく言われそうな若者であったのは何よりだったと言えます。多くの若者が出かけて行って骨身を惜しまずに動かれたそうです。本当に頭が下がります。
 これまで、ボランティアに対して私自身十分な知識を持ち合わせず、関心もあまり無かったのですが、このたびの出来事で目がさめたような思いをしています。震災時の炊出しや救援物資の配布等はボランティアの活躍で予想以上に早く届いたそうです。アイバンクや腎バンクも、重要なボランティアなのですが、いずれも勇気のいるものです。よ〜く考えてみると、小さな親切運動もボランティア。いずれも人の手助けを必要とする人がいるのです。そして私はこの頃「他人の喜びを自分の喜びとして感じられる」ことが、ボランティアの心だと思うようになりました。
 別の事例を。一昔前と比べて隣近所のつきあいが希薄になったといわれる昨今です。その一例が「いじめ」。虐められている人をみても知らぬ顔して通り過ぎる風潮が、いじめを一層陰湿化させていると言われます。これは大人社会の投影なのだと自省して考えてみることは、とても大切なことです。
 ボランティアといじめ−どちらも困っている人がいて、それを取り巻く人がいる。困っている人を見て何を感じるか。普通の場合は、何かしてあげたいと思う。でも、何もできない、声も掛けられない。確かに、力を添えられないときがあるかもしれません。実際には、このように思案してくれる人がいることがとても大切だ思うのです。
 しかし、もう一つの現実は、困っていることそのものになかなか気が付かない。これは困ったものです。相手の心が感じ取れるか、感じられないか、この違いは実に大きい。
 ん〜。やはり気の付いた人が(自分のできることで)行動を起こすしかないのかもしれません。その行動を見て、気が付かなかった人も気が付くようになる。同じ心(思い)を持った仲間が増えれば、行動はもっとやりやすくなるのですから。
 そこで提案。皆で温かい声を交わそう。声が掛けられないときは、まなざしを交わそう(ニコッ)、これを習慣にするしかないのかも。 
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  バランス感覚を育む
 「国際家族年」や「子どもの権利条約」の文章を通して、幼児教育のあり方を考えるとてもよい機会をいただきました。近年特に話題にのぼる子どもたちを取り巻く多くの問題(例えば、子育て、親子関係や子ども同士の関係、喧嘩やいじめ、不登校、環境問題、食生活など)は、どれをとっても古くて新しい問題ばかりと言えます。いずれも私たち大人の生き方が問われているように思われます。
 これらの問題の多くは、とかく問題の症状に気付かぬうちに次の症状を併発し、事の重大さに気付いた時には迷路に入り込んでしまって真因がどこに在るのかさえわからなくなってしまっている。他人まかせはこうして始まるのかも知れません。いずれの問題も、未だ改善の兆しは見いだせないままです。今後ともみんなが自分達の事として、知恵を出し合うことが必要なのだと思います。
 こうした問題を考える時のヒントになるかどうか甚だ自信はありませんが、ここでバランス感覚について述べてみようと思います。
 私は、音楽教育学を専攻している関係から、子どもたちが音楽と遊んでいる姿を大変興味深く見ています。一般に、3歳頃の子どもたちは身体の動きを音楽の流れ(拍)に合わせられなかったり、音楽の急な停止に身体の動きを制御できなかったりします。合奏などでは各々が勝手に叩いているように見えるときもあります。4〜5歳頃になるとリズムの緩急に合わせたり、拍や旋律の行方を予測したり、歌声の音程もかなり安定してきます。これらは音楽的な能力の成長発達の過程を示しています。勿論、ここでみられる注意(興味)の方向は、その発達段階で明らかに異なっています(この注意の移行が学習に他ならない)。ここで興味深いことは、注意の移行が行われても、そこでは常に心と身体の間にほどよいバランスが保たれていることです。たとえば、手の操作が少しだけ可能になった頃とガラガラを持って興に入る時期が重なるように。つまり、子どもは個体内の発達段階に応じて、注意(思考)と表現(操作)の間のバランスを調節しながら、心の安定を求めつつ遊び学んでいる。
 別の事例で−。大人が、慣れない子どもの遊びに長時間つきあうととても疲れます。まさに技量の異なる者同士が試合をした時、その面白さがあまり持続しないのと似ています。その原因は次のように考えられます。大人と子どもでは興味や関心の所在が異なり、理解の質もスピードも異なる。それ故に、なかなか一緒に遊びに興じれない。その状態が続くとお互いに興味は薄れ、片方の我慢が限界になるとそこで遊びはおしまい。そして疲れだけが残る。ご家庭でも、このような経験をお持ちの方は多いことでしょう。要は、不均衡な力関係の中では、どちらかが余程の余裕を持ち、自己制御しなければ遊びは継続されないし、そこではどちらかが必要以上のエネルギーを消費することになる。言い換えると、大人が子どもの目の高さに合わせて興じることは簡単のようで大変なことなのです。その逆も同様。つまり、複数で関わり合おうとする時には、一人一人が十分に自己主張できる場が準備されていないと関係は発展されないようです。我慢ばかりでは辛さだけが残る。かくして、自他の関係の中でも、それぞれが心の安定を保ち得る場面が必要となってくるのです。
 子どもたちは、さまざまなバランス感覚に支えられて心の安定を見い出し、喜びの中で多くのことを学びとっています。このセンスは、人間関係、あるいは遊び(学習)を考える時の一つのヒントを与えてくれているように思われます。子ども同士あるいは大人と子どものかかわり、自立と依存、思考と表現、言葉と動作、運動と休息、知性と感情、個人と集団、自然と人間の関係など。個人内でも社会の中でも、バランスを欠いたときに困った症状が表れます。バランスのとれた関係を育む−この中に私たちが歩むべき方向が隠されているように思うのですが。 
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  意欲と勇気を育む
 人は誰でも得手、不得手を併せ持っています。マルチ人間はそういるものではありません。不得意な時には得意な人の力を借りるのも大切なことだと考えます。生活のさまざまな場面で、一人ひとりの得意な場面があって、一人一人が伸びやかな生活を営んでいく。そこでは自然発生的に人との関わりが生まれ、個々の資質は仲間と関わる中で大きな喜びに発展されていくのです。これが共同社会なのだと思います。大人社会はその象徴になるべきです。同様に、子どもと大人、男と女、都会と田舎、動物と人間などの関係も同じように考えたいものです。自尊他尊の心情は、お互いの調和的関係を認めあう中で育まれていくものと思われます。
 さて、今学期はこれまでの生活を基礎にして、一人一人の思いが更に発揮されるように、同時に友だちの気持ちもしっかりと感じ取れるような「心のよりどころ」となる空間作りをしたいと考えています。
 幼児は、生来的に意欲に満ちた存在です。その意欲は遊びや生活のさまざまな場面で発揮されますが、とりわけそこでの大人の役割は、意欲的に遊びに取り組むことができるように環境を整えることでしょう。子どもが安心して過ごせる空間は“意欲を吹き出す土壌”となります。子どもはこの安心空間を基地として、さまざまな興味や関心を開花させ、いま持てる感覚を駆使して自分の想いを膨らませるのです。つまり、安心空間はさまざまな経験のできる場となるのです。そして、意欲はチャレンジ精神(勇気)の芽となり、やさしさや思いやりの心の萌芽となるのだと考えられます。
 しかしながら、一方的に大人が「子どもに良かれ」と思ってしていることが、実際には子どもにとって大きな障害になっていることも少なくありません。たとえば、子どもがボタンをはめようとして苦闘している姿をみかねて、思わず手を出してしまう大人は、子どもの学習機会を奪っていることに気づかないでいる。
 別な例で−。子どもが大人()の仕向けたゲームに参加し、いざゲームを終えた瞬間に「ねえ、もう遊んでいいの?保育者」と素直に心中を告げる−これは衝撃的です。子どもは明らかに自分のやりたい事柄(主体的に取り組むこと)を持っている。この例の場合は、子どもの意欲をうまく汲み取れないでいる大人がそこにいる。
 子どもの意欲や意志を最大限に尊重することは、子どもの主体的な態度と責任感、チャレンジする勇気や粘り強さを育む原動力となるのです。当然のことですが、その遊びが周囲に及ぼす影響にも配慮しなければなりません。その気くばりの中で、我慢することや他者と共存することの大切さも経験するでしょう。
 意欲に溢れた子ども、なんて輝いている存在でしょう。子どもたちの日々の生活は、未知なることに対する小さな勇気の連続でもあります。その小さな勇気を励まし、大きな勇気に育てていきたいものです。 
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【2月】
 地震が教えてくれたこと
 先月の阪神大震災では、5千人を越える多くの犠牲者を出し、物心共に大きな傷跡を残しています。未だに避難生活を余儀なくされている方々もたくさんおられます。大勢の方が今日の日も寒さや病気と闘っておられることを思うと、私たちが日々の生活で些細な事に不平や不満を言っていてはバチが当たりそうです。被害を受けられた皆様には、一日も早く普段の生活を取り戻されるよう心よりお祈り申し上げます。
 さて、今回の震災における皆様のご支援ご協力に触れて、緊急時の「互助」の大切さをしみじみと感じているところです。普段の生活では、健康に過ごせて当り前、飲み食いは好き放題−このような感覚に慣れてしまうと、普段のなにげないことが何だかつまらないことのように思えてきます。健康であることの有難さも、普段は忘れていて、病気等になったときにその素晴らしさに気付きます。そして今回の震災のように不自由な生活を強いられたときに、水や電気に頼って生活していることを思いだし、その有難さを知るのです(私たちも昨夏の異常気象で水の大切さを経験したばかりです)。
 このように、普段は何気なく触れている事が、実は、私たちの生活で最も欠かせないものであることを、今回の地震は教えてくれています。人のあたたかな心も無くてはならないものの一つです。つまり、互助の心の大切さ。社会問題となっているいじめや暴力は、希薄な人間関係から生じるものと考えられますが、もしかしたら、普段は気のつかない“何気ないものはつまらない”といった気持ちが人を排他的にし、人と人との距離をますます遠くしているのかも知れません。生活の便利さや物の豊かさの代償として、人の孤立化が進んでいるとしたなら、それは余りにも悲しいことです。それよりも人の心の温かさに触れていたい。「ぼろは着てても心は錦〜」と歌われるように。このように思っているとき、今回の被災者の皆さんの声として、危機的な状況の中で「見知らぬ人同士が助け合った」というエピソードが多く聞かれました。暗いニュースの多い中で、このような話を聞くとホッとします。互助のもう一方で、自助の構えも忘れてはならないことですが、支えあって人はより逞しくなれる。助け合うあたたかな心が、人に勇気を与え、人をより人間的にさせてくれるのだと思います。
 このたびの地震は大きな傷を残しましたが、その一方で私たちの普段の生活のあり方について振り返させてくれているように思われます。 
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 作品作りは遊びの通過点…行事の見直し
 先日の作品展では、たくさんの皆様に御来園、御協力賜りまして誠に有り難うございました。
 子どもたちは、日々の生活の中で経験したり感じたりしたことを、絵や粘土そして共同製作などに託して私たちに見せてくれました。どの作品にも一人一人の思いや遊びの世界が感じられ、何れも子どもたちの現在の姿(成長のひとこま)が投影された逸品であったと思います。
 常々、作品展のための作品展にならないように、子どもたちの生活や遊びの一過程としてこの行事をもちたい、と留意してきたつもりです。その意味から今回特に印象深かったのは、アジア大会を取り上げて仲間と一緒に取り組んだ共同作品の数々です。
 この製作を通して、色々な物作りに工夫がみられたり、そのアイデアを伝えあったりしました。更に子どもたちは、自分達の周囲で起こっている社会の出来事にも関心を広げることができました。たとえば、マスコット(ポッポとクック)作りやビッグアーチに掲げられた旗作りでは、アジアの国々に対して親近感を持つきっかけとなりましたし、アストラムライン作りでは、私たちの街に新しく生まれた乗り物とその利用について心を傾ける機会となりました。競技場や聖火台の製作では、スポーツする姿を(たとえば走り高跳びなど)いろいろと想像しました。そして、これらの製作は次の遊びを生んでいったのです。作品展当日にも、自分達で作ったアストラムラインで切符を渡したり、運転手になったり、あるいはお客さんになったりして、遊びが膨らんでいったようです。このことは、子どもたちにとって今回の作品作りは“遊び”の通過点であるということを気付かせてくれます。もちろん、ひとりで描いた作品の一つひとつにも、それを通じて遊び心の膨らみが感じられ、とても尊いと思いますが、仲間とかかわり合いながら遊び合う(学び合う)ことは、それ以上に大きな意味を含んでいるように思われます。
 幼児期には、自分たちの周囲のさまざまな存在に興味や関心を広げ、その対象をしっかりと観察し、そこで感じたことや思ったことを自分の方法で伝え、そして自分で工夫したり考えたりすることの喜びや達成感を味わう−こんな経験がとても大切だと考えます。主体的に遊びに取り組める子ども、じっくりと観察のできるこども、思いを伝いあえる人間関係などは、日々の遊びが充実している(遊び込んでいる)ときに育まれていくのだと思います。この作品作りが次の遊びの契機となるように、これからも心通わせアイデアをあたため合って、遊びを育くんでいきたいと思います。
 保護者の皆様の展示も盛況で、本当に嬉しく思いました(12月2日に催されます保護者サークル発表会も子どもたちと一緒に楽しみたいと思います)。今後とも、子どもと大人が共に成長し合えるように支え合っていきたいと思います。 
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 自立のチャンス
 一月イヌル、2月ニゲル、3月サルと言われるように、この時期は特に月日が経つのが早く感じられます。こうして一日一日「春」に近づいていくのです。園でも、もうすぐ小学校に進学するお友だちの体からは、嬉しさが溢れています。おそらく年長児さんのお家では、既にランドセルや勉強机などの準備も済まされて、入学式を待つばかりという方も多いのではないでしょうか。年少児や年中児の皆さんも、もうすぐそれぞれ進級し「(心も身体も)大きくなる」ことの喜びを味わっておられることでしょう。子どもたちのこの気持ちを大切に育み、自立のきっかけにしたいと思います。
 子どもに限らず私たち人間は、“甘えと自立”の両極を大きく揺れながら成長している存在です。丁度、この年度替わりは、春の到来(進級の喜び)の中で「成長の実感」を持てる時期でもあります。「子どもだから…」という大人の見方が、子どもたちの自立のチャンスを狭めているのかも知れません。この時期を機会にして、朝の身支度、食事の準備や後かたづけ、おもちゃの整理、挨拶など、自分でできるところから行なってみるように、子どもたちに促してみましょう。どの子も、それなりにできるはずです。子どもがチャレンジしていたら、そっと(あたたかい目で)見守ってあげるのが、私たち大人の大切な役目だと思います。
 ご家庭で、食事前の準備や簡単な調理への参加も、機会を見つけて参加させてみてはいかがでしょうか。先日わが家でも、子どもたちにおにぎりを握らせたのですが、(できばえは皆様が想像される通りで、周囲にはご飯粒が散らかっていましたが−)自分で作ったおにぎりには愛着が湧くようで、しきりに「美味しい美味しい」と言いながら食べていました。嫌いなピーマンを切ったり、レタスをちぎったりするだけでも「私が作った料理」という思いが膨らみ、さっさと口にするかも知れません。食わず嫌いも自分で参加することによって克服される可能性は高いと思います。そして、自分で作ったという意識は、食事の楽しさを味わい、そして何よりも食べ物を大切にする心を育むものと思われます。
 同様に、生活の中には遊びや学習のチャンスがたくさん隠されています。たとえば、洗濯物の片付け。家族の洗濯物を「仕分ける(分類する)」のは結構楽しいものです。これはお父さん、これはお母さん、そしてこれは私のもの、と分類する中で物の色や形の面白さに気付いたり、その質量に触れて、素材の特徴を実感する機会となります。また、たくさんのソックス(あるいは箸などペアの物)の中から同じ大きさ、同じ色の物を探し出すのは“神経衰弱ゲーム”をしているような面白さがあります。時に、素材(繊維)の質の違いまでしっかり較べてみないとわからない場合もあります。このように、生活の端々で、自分で「できるだろう」ということに遊び感覚でチャレンジしてみることは、自信を育み、さまざまな感覚を刺激するよい学習機会になるようです。
 この時期、子どもたちの自立を促す絶好のチャンスです。そして、私たち大人も一緒に、子どもたちの「違いのわかる」センスの成長を楽しみたいと思います。 
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 遊びの姿…節分と編物
 先日2/3には「節分」にちなんで、みんなで豆まきをしました。鬼の面を作ったり、みんなで豆を蒔いたりして、ひとり一人の心の中にいる悪い鬼を退治しました。(扮装した)鬼が登場した時には、ちょっと涙ぐんだり固まっていた子どもも何人か見られましたが、それでも勇気を出して豆蒔きをして、泣き虫鬼、意地悪鬼、弱虫鬼などを退治しました。子どもたちは、心の中の悪い鬼を外に追い出して「きれいな心になった」と言っていました。その顔はみんな爽やかで生き生きしていました。
 もう一つ園内での遊びの姿をご紹介しましょう。いま職員室では、子どもたちが編物をしている姿が印象的です。みんな黙々と編んでいます。これは、好きな遊びのひとつとして「編物したい人集まれ!」って声をかけたら、女の子を中心に(男の子もいます)大勢集まりました。今では順番待ちも出るほどです。作品(マフラー)ができあがった子どもたちはまだ数人ですが、コツコツと辛抱強く取り組んでいます。編み終えた子は、手作りのマフラーをしてお気に入りです。 
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 片付けの習慣について
 最近は連日の寒さのためか、園庭で遊ぶ園児の姿が幾分か少なくなったように思われますが、それでも多くの子どもたちは、園庭に出て、縄跳びやサッカーをしたり、砂遊びや羽子板で元気に遊んでいます。子どもは本当に逞しい。寒いとついつい部屋の中に閉じ込もりがちとなりますが、時には外に出てしっかり身体を動かしましょう。身体の内側から暖かくなると、すがすがしい気持ちになれます。運動と休息は、心身の成長に欠くことのできないファクターなのですから。
 そういうわけで園では最近、室内遊びが盛んです。ある意味で「寒さ」とうまくつき合っているのでしょう。室内では、ままごと、廃材を使った工作、折り紙、大型積木、落書き、独楽回し等などに夢中です。ご家庭にも折り紙などその手作り作品の一部を持ち帰っているので既にお察しのことと思います。これまた大いに喜ばしいことです。
 そうした中で、最近気がかりなことは後かたづけです。遊び終わった後の状況はと言えば、皆様の想像通り、折り紙や発砲スチロールの皿などがあちらこちらに散乱しています。職員室で、この遊びっぱなし状態をどうしたらよいだろうかと話し合っています。子どもたちに「どうしたらよいかな?」とたずねると、みんな口を揃えて「片付けるぅ〜」。「折り紙さん、かわいそう」の声も。大人も子どもも気持ちは同じのようです。しかし、その理解の仕方もいろいろあります。以下は、このことについて職員室で意見交換したことの一部です。
 (1)散乱しているのは一生懸命遊んでいるという証拠。一生懸命になるとなかなか周囲の事には目が届きにくいものだ。常に全てを片付けてしまっては、また1から遊びを始めなければならず、遊びの発展を妨げるのではないか。寛容の心も必要だ。
 (2)子どもたちは片付けたいのだろうけれど、片付け方がわからないのではないか。片付けの方法をシンプルにするとよいのではないか。
 (3)片付けたくなるような工夫が必要だ。たとえば、戸を開けて閉めないことがあるが、その戸を閉めたくなるようなドア(閉めると何かの絵になるとか)にすればよいのでは−。自分達で集めた材料だったら大切にするようになるかも知れない。
 (4)子どもたちには片付けることの必要性が無いのかも。片付けるためには、ニーズを作り出すことや、きっかけを与えることが必要なのかもしれない。
 (5)この時期、遊びの中で成就感や充実感を感じることの方を大切にしたい。
 (6)片付けたり、掃除したりしたあとの爽快感や充実感を感じることも大切だ−などなど意見はさまざま。
 どの意見ももっともです。大人の私だってなかなかうまくできないのですから、頭ごなしに「片付けなさい」と言うのも少々気がひけます。自ら感じ、考え、自ら行動できる幼児に育って欲しい、そのために私たちはどうしたらよいのか。何かよい方法はないものかと試行錯誤しています。
 あれこれと意見交換している時、ふと1学期に拝聴した竹本富子先生(元広島市立上緑井幼稚園長)のお話が思い出されました。先生は「子どもは自分自身の力で育つ部分(運動能力や想像力など)と、他者から教えられて育つ部分(基本的生活習慣など)がある」と述べられました。片付けるという行為は、周囲の大人から教えられながら獲得していくものだから、そこでは大人の関わりがとても重要となる、というものです。
 考えてみると、私たち大人が部屋を片付けたり掃除したりするのは、自分が気持ちよく便利に生活するために必要だから、そして他者に嫌な思いを与えないようにするため。この観点から考えてみると、子どもたちは「片付ける」という行為を通して、自分の思いを満足させたり、他者を思いやる気持ちをまだ十分に感じ取れないのかもしれません。ちなみに、他者に対する思いやりの心は、遊び(ままごと等)の中ではみられるのですが。
 ともあれ、幼児は「片付けはできない」とあきらめるのは早計だと思います。「手を洗う→拭く」のように、玩具を「出す→遊ぶ→片付ける」これがワンセットとなればよい(言うは易し行うは難し、ですが)。これは“けじめ”ある生活の仕方(生き方)を伝えているのだと言えます。まず初めに、自分のできることで片付けに参加する、これを習慣にすることが大切だと思われます。そして、私たちも子どもと一緒に片付けながら「片付けると気持ちいいね」「きれいになったね」などと互いに喜びをわかちあい、皆でその充実感を味わうことが大切だと思われます。性急は禁物、辛抱強い取り組みが必要のようです。よいアイデアをお持ちの方、どうか御教示を。 
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 見えること見えないこと
 今が最も厳しい寒さなのかもしれません。この寒さを乗り越えたら春がやってきます。最近、特にインフルエンザが流行しています。健康には十分に留意しましょう。
 さて、今回は「見えること見えないこと」と題して述べてみたいと思います。
 その一。手品は人の目の前であたかもすべて見せているようで、肝心のところ(タネ)は隠されている。私たちはそのタネを見逃すまいと目を凝らして見ているのですが、マジシャンはその視線をスッとかわして形を変えてしまう。その見えるようで見えない技は実に巧妙で、その奇想天外な行方が実に面白いのです。
 その二。大切なものが無くなってしまった。いくら探しても見つからない。こんな経験をしたことのある人はいませんか?こんな時はイライラします。落ち着いてなんかいられない。不安と絶望と不快感に包まれる(ちょっと大袈裟?)。手がかりが何も無いのでは、探そうとする気もち(やる気)も失せてしまう。かくれんぼも折り紙も基本的に同じ原理です。見つかったとき、わかったときには、それまでの不安は解消され、大きな喜びに変わるのです。
 その三。学習場面でも同じような状況があります。算数の虫食い算はその代表でしょう。見えなくなってしまったところを、前後の脈略を手がかりにして推理し、空白を埋めるのです。考えるエネルギーは、興味関心というガソリンから生まれてくるのです。その答がわかったときは、やはり喜び(充実感)に包まれます。
 その四。子どもたちとの関わりの中で(子どもが)何かを伝えようとしているのだけれど、なかなかうまく言えなくて(聞き手もうまく理解できなくて)互いに困惑してしまう。こんな場面に遭遇することがあります。相手の心がまったく見えないのです。
 その五。大人の社会には、本音と建前の世界があります。たとえば、何かを頼まれたときに「いいですよ」と言いつつ、実は心の中では「困ったな」と思ったりする。返答の「いいですよ」の裏側には、相手に対するさまざまな思いが含まれています。その思いは真心であったり悪意であったりもします。人の心は見えにくいのです。答は一つだけでないから余計に厄介です。大人社会が嫌になるとするなら、その真心が見え難いことが多いからかもしれません。
 わからなかったことがわかるようになる、見えないものが見えるようになることは大きな喜びです。私たちは、生活のさまざまな場面でこの感情を味わっています。相手に何かが見える(わかる)ようにしてあげるためには、さまざまな配慮(気配り、表現、時間、場所など)が必要です。見えたときの喜びは、見えないものの存在(興味や関心の度合)が大であればあるほど大きいのだと思われます。
 大人の世界とは対照的に、子どもは素直に自らの心の内側を(私たちに)表してくれています。表情や動作など、言葉を越えた言葉で、です。そこでは、私たち大人は、子どもたちの心を理解する力(心が見えること)が必要ですし、併せて私たちの温かい心(素直な気持ちや配慮)が子どもたちにも見えるようにしてあげる必要があると思うのです。 
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 遊びの参加と自制心
 自分の好きな遊び(興味関心)をきっかけにして意欲をもって遊びに参加できること。その遊びでいろいろな人とかかわって、自分の思いと他者の思いの差異に気づくこと。自分の思いを達成して充実感をえること。(どんなに小さな事でも)自分でできた喜びを味わい、自信を育むこと。自分の思いや行動を制御(セルフコントロール)することができる力を持つこと。いずれも幼児期に経験したい(味わいたい)ことです。
 さて、昨年もみられましたが、いま園内で編物がはやっています。編物をしてみたいと名乗りをあげた子どもたちが、職員室で(あるいはホールで)黙々と編んでいます。しかし、すべての子が編めるわけではありません。手作りの編物機(?)の数に限りがあるので順番を待たなければなりません。待っている子は、黙々と編んでいる子の手さばきを見つめながら、自分の順番を待つのです。おそらく心の中は「自分だったら○色で編もう」とか「自分だったらこうしたい」という思いを巡らせているのだろうと思います。
 編んでいる子は、隣で編んでいる人の仕上がり具合いも気になるようですが、少し飽きたら別の遊びをして、再び編みに戻ってきます。待っている子の待ち遠しい気持ちまでは、まだ気がまわっていないのかも知れません。この編物のコーナーだけを見ていても、根気強く取り組む子、取り掛かるのに時間のかかる子、すぐに投げ出してしまう子など、それはいろいろです。みんな自分のペースでやっているのです。
 同じような様子は、びゅんびゅん独楽作りにもみられますし、滑り台でも見られます。
 別のコーナーで、一人の女の子が絵(落書き?)を描いていました。とても楽しそうです。その側で友だちがその絵をじっと見つめています。私はつい「あなたも描いてみたら」と声をかけそうになりましたが、ちょっと待てヨ、と思いとどまりました。見つめている中で、その子は絵を描いている人と同じ気持ちになって一緒に遊びに参加しているのだという思いが私の脳裏をかすめたのです。黙って見つめている姿にも、心の動きを感じ取ることができる。
 一人ひとりの姿がみんな異なっているように、一人ひとりの能力、気持ち(心情)、ペース(やり方)はみんな違うのです。子どもたちの遊びの姿を側でみていますと、一人ひとりの考えや動きにそれぞれ「意味」や「思い」があるということに気づきます。そうした一人ひとりの仕草や表情の「意味」を推測するのも、これまた結構楽しいものなのです。
 遊びに参加し没頭できることは、本当に素晴らしいことです。しかし、その傍らで自分の思いを心の内に秘めながら(たとえば、本当はいますぐにでも編物をしたいのだけど)順番を待っている子どもも、これまた素晴らしい経験をしているのだと思います。むしろ、自分の心を制御する力は、活動に参加する以上の大きなエネルギーを必要としているのだと思うのです。その制御(セルフコントロール)の心に、人一倍大きな拍手を贈ってあげたいと思います。 
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 幼児期にこそ“命の尊さ”を伝えたい
 最近、中高生によるナイフ事件が続いて起こっています。それらはいずれも、善悪の判断が可能と思われる年齢によるものなのですから、その衝撃は深刻です。事件の底流に流れている病巣の深さを思わずにはいられません。
 最近の少年犯罪事件の特徴の一つは、普段は問題行動のない「普通の子」であるということです。普通の子の表の顔と、それに隠れた裏の顔が背中合わせで同居している。この二重構造は誰にでもあると思うのですが、その裏の心を自分で抑制できないでいる。これは本人にとっても、周囲の者にとっても大変不幸なことと言えます。警官を襲撃した中学生は、「殺してでも銃が持ちたかった」と言っているそうですが、その短絡的な行動に怒りと同時に、唖然としたものを感じました。命の尊さを思う気持ちが感じられない。
 ナイフを持つのは、存在を示したいから、自己防衛のために、テレビを見てかっこいいと思った、それでナイフを持ちたい−ナイフを持つことで、自分が強くなったかのように思うのは、テレビをみてあたかも自分がその主人公になったかのような錯覚を持つのと似ています。そのフィクションと現実の違いを認識できないでいる。これでは余りにも幼すぎる。自己解決能力が持てていない。
 今回のこの事件を中学生のこと(他人事)として捉えるのではなく、自分たちのこととして考えてみることが重要だと思います。つまり、このような事件は、幼児期の過ごし方に起因するところが少なくないように思われます。とりわけ、少年達は、自己肯定感が持てない、安心感が持てない、存在感が無い。これはもう無い無いづくしです。子どもたちは、いずれも「思いのはけ口」が見つからない、とても不幸な状況に巡り会ってしまったのだと思うのです。
 つまり、少年達は、幼少期に周囲の人のあたたかいまなざしに触れることが余りにも少なかったのではないか。自分は周囲から信頼されている、自己のイメージを十分に駆使して他者と協調しながら自己実現を果たすこと、相互の信頼感が持てること、命の尊さに気づくこと、自然に対する畏敬の念を育むこと、こうした体験の機会を十分に持つことができなかったのだと思います。これも不幸なことだと言えます。
 たとえば、幼児期には、嘘をつく、暴力をふるう、などの場面に遭遇することがあります。こうした行動を、幼児自身がどのようにして解決していくのか、大人はしっかりと見守り、関わることが大切なのだと思います。つまり、子ども自身が納得して解決することが大切なのだと思うのです。そこでは、私達は、悪い行為の底辺に潜んでいる子どもの思いをしっかりと見つめ、その思いをプラスに転じさせてあげる関わりが必要なのだと思います。その一つには、あたたかいまなざしで子どもを包み込んでいくこと(寛容の心・おおらかさを育むこと)は大切なことです。
 今回の一連の問題は、園、家庭、地域が共に考えを交換し、協力して関わっていくことが不可欠だと思うのです。 
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 子どもと先生のかかわり
 子どもたちの表情は、どの子を見てもとても可愛いのです。
 ある日、M先生は、Aちゃんを軽く抱いて「かわいいねぇ〜」と言って頭を撫でてあげていました。すると、その様子を見た数人の子がス〜ッと近寄ってきて、すぐそばに立ってジ〜ッと見ているのです。(その子たちの心の内は? そうです。撫でて欲しいのです。)その姿を見たM先生は、すかさず一人一人を軽く抱き寄せて「かわいいねぇ〜」「かわいいねぇ〜」と撫でてあげました。
 すると、近くにいたKちゃんが、「M先生もかわいいよ!」と言ってくれたそうです。その言葉を聴いたM先生、思わずニンマリ! 
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 たくましく感じられる子どもたちの姿
 1月から2月にかけて集団風邪がはやりましたが、いまはもうその時の勢いはなくなったようです。それでも、まだ風邪の終息宣言を出すまでには至っていません。注意が必要です。
 外では冷たい風が吹いていますが、子どもたちの多くはこの寒さの中でも、元気に園庭やテラスなどで遊んでいます。
 このような、子どもたちの元気な姿をみているからなのかも知れませんが、最近特に、子どもたちの遊びがダイナミックになってきたように感じられます。とりわけ、年少児の表情が大人びてきたようです。友だちとのいろいろな関わりの中で、気ごころを十分に交わすことができるようになったり、遊びを通して相手の話に耳を傾けられるようになったり、その中で語彙の数が増えたり、あるいは体もこの一年間でかなり成長してきました。以前に較べて自分の意志をかなり正確に表現することができるようになったように感じられます。とても嬉しく思います。
 どうぞ、寒さに弱い方は、子どもたちのこの「元気」をもらいに、園の方までお越しください。 
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 考えてみよう、日々の生活で使っている言葉
 日々の生活の中でついつい口に出してしまい易い言葉があります。子どもたちを目の前にして、つい「早くしなさい」「ダメダメ」「イヤ、もう〜」など。言葉は心の鏡とも言えます。前述の言葉も、大人のありのままの感情を表しているのですから、この気持ちも大事にしたいものですが、それを聞いてイヤな思いをする人もいます。言葉は使い方次第だとも言えます。
 次の「明元素」と「暗病反」は、一考に値する言葉の分類ではないかと思われます。できるならば、プラス指向の「明元素」の感覚で過ごしたいものです。
(次の出典は不明です。この出典をご存じの方がおられましたら是非教えてください。)
    明元素(めいげんそ)…現状打破言葉

  充実している、 頑張ります、 簡単だ、 おもしろい、 できる、
  すてきだ、 楽だ、 やれる、 金がある、 おいしい、 まだ若い、
  きれいだ、 努力します、 利口だ、 幸せだ、 やってみよう、 楽しい、
  元気だ、 素晴らしい、 試みる、イケる、 可能だ、 美しい、 うれしい

    暗病反(あんびょうたん)…現状維持言葉

  忙しい、疲れた、難しい、つまらない、できない、いやだ、困難だ、
  ダメダ、 金がない、まずい、もう年だ、きたない、どうしよう、
  バカだ、不幸だ、 やりたくない、おもしろくない、困った、マイッタ、
  苦しい、つらい、失敗した、わからない、大変だ。
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心地よい我慢
 さっちゃんは3歳。これは、お母さんと一緒にお買い物にいくときの出来事です。お母さんは買い物に出かけたいのだけれども、幼いさっちゃんを一人で家に置いておくわけにはいきません。そこで「さっちゃん、買い物一緒に行く?」と声をかけました。それを聞いたさっちゃんは、思わず頭の中によいアイデアが浮かんできました。いつも見ているテレビアニメ、セーラームーンのついたキャラクターを買ってもらおうと思ったのです。さっちゃんは威勢の良い返事をしました。「さっちゃんも買い物へ行く」。
 多くの場合、親子一緒に買い物に行って、子どもに好きなお菓子やおもちゃをねだられて、立ち往生した経験のある保護者は少なくないと思います。お母さんは考えました。
「そうね、だけどね、今日はお金がないの。だから残念だけど今日はセーラームーンは、見るだけね」。
 そう言われたさっちゃんは、心の中でいろいろと考えを巡らせるのです。
「そうか、お家にはお金がないのか。…それじゃ仕方がない。今日は見るだけにするか」。
 そう心に思って、いよいよ買い物に出かけるのです。
 お店に着きました。お母さんは、そのお店に入る前に、もう一度、「今日は見るだけだったよね。今度お父さんに買ってもらおうね」。
 お母さんの一言で、先ほどのお家での会話が再び思い出されるのです。
「今日はお金がないんだもの。今日は見るだけ」「見るだけでもいいかァ」。
 お店に入ったら、さっそく「見るだけ」のために、お店の中を巡るのです。お母さんの賢いのは、お店に入って最初に、さっちゃんのウィンドウショッピングにつきあってあげることです。
 さっちゃんが、「これ、いいね」と言うと、あかあさんは「そうね、可愛いね。あっちの**も可愛かったよ」などと、さっちゃんの心を揺さぶるのです。
 ひと通り、ウィンドウショッピングを楽しんだら、今度はお母さんの買い物です。さっちゃんは、お母さんの買い物のお手伝いをして、最後にレジを通ってお家に帰るのです。
 お家に戻ってお母さんは誉めることを忘れません。
「さっちゃん、今日はよく我慢したね。偉かったね。お母さんの買い物も助かったよ」。
 でも、いつも「今日は見るだけ」では、さっちゃんの心は満たされません。 「いつも見るだけじゃ、イヤだ」となり、「どうせ、買ってくれないのだから」となり、ついにはさっちゃんの心はゆがんでしまいます。
 こういうとき、お母さんは次の手を使います。
「あのね、お誕生日のときに○○を買ってもらおうね」とか「サンタさんにお願いしようね」などと話して、買ってほしい物が手にはいるまでの何日間を指折り数えて楽しみに待つのです。待っている数日は「我慢」の日々と言えますが、それは「心地よい我慢」でもあるのです。
 さて、ようやくその日が訪れました。おかあさんが声をかけました。
「さっちゃん、買い物、行く?」。
 これまで何回も「見るだけ」の日があったのですから、品物の下見はしっかりできています。さっちゃんは答えます。
「さっちゃんも、買い物、行くゥ」。
 そこで再び、お母さんの賢い一言。
「あのね、今日はさっちゃんの好きな物を買っていいんだよ。…でもね、一つだけだって」。
 こうして、目的のお店に出かけていくのです。お店に入る前に、お母さんは嬉しそうに(実は念を押すように)「今日はいいねェ。好きな物買っていいんだよ。一つだけ」。
 こうして、買い物を済ませたさっちゃんは一つだけの大切な品物を、大事そうに抱えてお家に帰るのです。やっと手にした品物です。さっちゃんはそれを宝物のように大切に扱うのです。
 このエピソードは、いくつかのこと私たちに気づかせてくれています。
 お母さんの一言は、(さっちゃん自身が)行動の行方をしっかりと描けるような語りかけをしています。その過程では、「心地よい我慢」の経験も積んでいますし、自らが描いた行動を確実にこなして、達成感も感じられています。そして、物を大切に扱う気持ちも経験させているのです。
 現代は、身の回りに物があふれていて、物を大切にする心が育ちにくい環境にあると言えます。一般的に、我慢するときは辛さがつきまといます。さっちゃんのお母さんの賢さは、その辛さを「心地よい時間」に置き換える工夫があるところです。心地よい我慢のすすめ。いかがでしょうか。 
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 少しだけ相手の気持ちになって…人形劇のお話から
 先日、みんなで人形劇を鑑賞しました。その節には、保護者の皆様に格別のご協力を賜りました。この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
 今回の演目は2つでした。「しずかなおはなし」と「ソーニャと森の魔女」。
 ご覧の皆様には重複しますが、ここで大まかなあらすじをご紹介しましょう。
 
 「しずかなおはなし」:ロシアのお話です。夜もふけてきて、はりねずみの親子はお散歩に出かけます。その道すがら、親ねずみは、狼から身を守るために身体を丸くして、針をうまく使うコツを子どもねずみに伝えます。でも、子どもねずみは、なかなかうまく身を丸くすることができません。
 その練習の最中、怖い狼がやってきました。必死で逃げる親子の針ねずみ、それを追いかける狼。とうとう襲われると思った瞬間、子どもねずみはうまく身を丸くして針を出すことに大成功。めでたしめでたし。
 「ソーニャと森の魔女」もロシアのお話。ソーニャは元気な女の子。たったひとりのお父さんが仕事に遠くに行ってしまって、今は新しい(いじわるな)お母さんと暮らしています。でもお母さんはソーニャがじゃまでたまりません。とうとうソーニャは森の奥のバーバ・ヤガーの所にお使いに行くことになってしまいました。
 バーバ・ヤガーはロシアの怖い魔女で、ごちそうをむかえるために、朝から歯を研いでいました。それにバーバのお家には、犬や猫、木戸や白樺が住んでいて、二度と逃げ出せないのです。けれどソーニャは親切なおばさんに励まされて、元気に出かけて行きました。おばさんは、いろいろなことを教えてくれました。
「猫がでてきたら好物のソーセージをあげなさい、そして犬が出てきたらパンをあげなさい。そして白樺の木には赤いリボンをつけてあげなさい、そして木戸には油をさしてあげなさい。『少しだけ相手の気持ちになって』接すれば、心を開いて助けてくれるでしょう」と。
 やっとバーバのお家につきました。お家では魔女が待っていました。犬や猫や木戸や白樺が迎えてくれましたが、案の定、犬たちはソーニャの帰路を阻みます。そこでソーニャは親切なおばさんの教えの通り、相手の気持ちになって好物のものをあげました。みんなソーニャのやさしい気持ちに感激して、帰りの道を手助けしてくれたのです。
 家に帰りついたソーニャの姿を見た新しいお母さんはびっくり。帰ってこないだろうと思っていたソーニャが帰ってきたのですから。………
 
 このようなあらすじで展開された人形劇。子どもたちは、特に、はりねずみと狼のリズミカルなやり取り(戦い)の場面や、ソーニャと魔女バーバ・ヤガーのおいかけっこの場面では釘付けになって見入っていました。(迫力満点で感動しました)
 いじわるな魔女の家に住んでいた猫たちも本当はやさしい心の人が大好きだったのですね。素直なソーニャの姿、やさしい猫や犬たちの姿に、共感を覚えた子どもたちも多かったのではないかと思います。とりわけ印象深かったのは、親切なおばさんの言った「少しだけ相手の気持ちになって〜」のところです。心に留めておきたい言葉です。
 また、はりねずみの親子の関わり(親が子に伝える生きる為のさまざまな知恵を伝えるお話)では、私たち大人と子どもの関わりと重なりあって見えてきました。互いが学びあい助け合うことの大切さを教えてくれています。
 子どもたちが、必死に身体を前に傾けて見入っている姿や、お話の中に入り込んで、途中思わず言葉が出てしまったりする姿を見て、私は心から嬉しく思いました。このような鑑賞会の機会をえて、さまざまなお話の世界に心をゆだねてみるのは、とても素敵なことです。また機会をえて、このような会を持ちたいと思います。 
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【3月】
 弥生3月、もう春ですね
 最近はめっきりと春の気配を感じるようになりました。つい最近には梅の花も咲ほころび、吹く風もちょっとだけ暖かさを感じます。気候がよくなると、心もその分だけ和やかになれる様な気がしてきますから不思議です。
 先月(特に上旬)は、インフルエンザで多くの子どもたちが熱や咳で園を休んでいましたが、中旬頃からはその数もグッと減ってきました。ホッとされている方も多いだろうと思います。冬の厳しさを乗り越えて、おそらく子どもたちは一回りも二回りも逞しくなったのだと思います。春の到来を喜ぶと共に子どもたちの成長を喜びたいと思います。
 さて、先日は恒例の(子どもたちと保護者が一堂に会して)「お別れカレーパーティー」を催しました。ありがとうございました。あのホールが、人・人・人で埋め尽くされて、とても賑やかでした。そうした雰囲気の中で、一緒に遊んだ年長さんに手作りの贈物をした子どもたち。一人一人いろいろな想いを胸に描きながら、あの素敵な時間を過ごしたのだと思います。カレーの味はその気持ちと重なり合って記憶にとどめられることでしょう。こうしたささやかな出来事を通して、子どもたちは自らの思いを少しづつ熟していくのです。こうした時間を持つことは大切なことです。
 パーティーの計画から準備、当日の役割分担、後かたづけ、そして反省まで、子どもの心と身体(アイデアと実行力)に合わせて、共に関わることが重要なことだと考えます。大人は陰の演出家になれたらいいな。そう思っています。時折、大人のアイデアが先行してしまって、行事の進行の中で子どもたちが自分の心を寄せられなくなってしまうことがあります。自分の思いをどのようにして表したらよいのか、自分は何をしたらよいのか、他の人は何をしようとしているのか、などなど思いを巡らせる経験が必要なのだと言えます。この時に、自分で考えたり自分でしたことは、心に深く刻み込まれ(もしそれが失敗したとしても)意味のある経験となっていくのだと思います。
 自ら感じ、自ら考え、自ら判断して、自ら行動できる人。いろいろな心を感じ取れる人、(少々欲張りですが)子どもたちにはそんな豊かな心を持った人に成長していって欲しいと願っています。残り少なくなった今年度の日々を、充実して過ごしていきたいと思います。 
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 懇談会を終えて
 春めいてまいりました。本日は、懇談会にお越しいただき、厚く御礼申し上げます。4月には不安でいっぱいだった子どもたちも、いまでは自分の家のように遊んでいます。園内のどこに何があるか、どこに行ったら誰と遊べるか、一人一人が知っているのです。子どもたちの生活の一部として、幼稚園が子どもの心の中にしっかりと位置づけられていること、とても嬉しく思っております。
 さて、この1年を振り返ってみますと、子どもたちの周囲ではさまざまな事件が繰り返されました。
 児童生徒のナイフ事件が連続して発生したことも今年の特徴的な出来事と言えます。無関心・無感動、いじめや不登校児童の増加など、課題は山積みされたままです。少子化、高齢化、情報化、国際化などの社会的な変化、そして受験競争の加熱化なども、子どもたちの成長に大きなストレスとなっている。いずれも看過されません。子どもにも、また子どもを取り巻いている大人にも、皆の心にゆとりがなくなっている。そんなときに問題が生じてくるのだろうと思われます。こうした問題を解決する糸口は、“心のゆがみ”を取り除いていくこと、つまり、信頼関係、安心感などを取り戻すこと、「共感の心」を育むことが必要なのだと言えましょう。口で言うのは易しいけど、これはなかなか大変なことです。だからこそいま、仲間・家庭・地域・園などでそれぞれの思いを交わす「対話」が必要なのだと強く感じます。
 日々の生活は決して感動的な場面の連続というわけではありません。むしろ、何気ないやり取りの連続の方が多いのだろうと思います。しかし、その何気ないかかわりを通して、子どもと大人が共に心を寄せ合い、支え合って生きていくこと(パートナーとしての役割を互いに確認し合っていくこと)が大切なのだと思います。人は、決して一人では生きていけないのですから。
 日々のホッとした心の蓄積が「元気の素」「意欲や思いやりの素」になるのだと思います。本園がそんな空間になれるようこれからも微力を注いでいきたいと思います。 
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 卒園おめでとう
 年長児のみなさん、卒園おめでとうございます。保護者の皆様、本当におめでとうございます。さぞかしお喜びのことと思います。
 子どもたちは、幼稚園の広い園庭で走ったり、踊ったり、あるいはお部屋で歌を歌ったり、いろんなものを作ったりして遊びました。時には、けんかもしたり、大笑いしたりして過ごしましたが、子どもたちはいつものびのびとした生活の中で、多くのことを自分から学びとってくれました。いろいろな思い出の詰まった園舎とも、これでお別れです。とても淋しい限りですが、この別れも宿命なのです。この卒園をステップにして、いまよりも一回りも二回りも大きく成長してほしいと思います。
 みんなで過ごした幼稚園のこと、お友だちのことををいつまでも忘れないでね。そして「元気いっぱい笑顔いっぱい」で明日に向かって逞しく前進していってほしいと思います。
 4月には、小学校の入学式です。新しいお友だちや先生と、仲良く遊んだり、楽しく勉強したりしてくださいね。
 4月の入園式に始まり、3月の今日まで、いろいろな行事や活動で、保護者の皆様には、大変お世話になりました。お陰様で、大過なくこの一年を過ごすことができました。いまその充実した気持ちを、しみじみと感じているところです。
 この一年を振り返ってみますと、さまざまな出来事がありました。特に、94年度は「国際家族年」でもあり、家族のあり方や人と人との関係(人間関係)について、いろいろと考える機会をいただきました。また、阪神大震災のことはきっといつまでも忘れることができないと思います。
 園での生活や遊び、四季折々の行事等を通して、子どもたちの成長を肌で感じ、一喜一憂しました。これらのさまざまな経験から、実に多くのことを学ぶことができました。人間は一人では生きていけないこと、周囲の人に支えられて一人ひとりが強く生きていけるのだということ。これらのことは当然だとわかっていながら、なかなか人との関係をうまくやっていくことが難しいことなど、改めてその一つひとつの大切さに感じ入っています。この一年、皆様のあたたかいご支援に支えられて、子どもたちと一緒に楽しく過ごすことができました。これも一重に関係各位の皆様の御厚情の賜と厚く御礼申し上げます。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。 
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元気いっぱい笑顔いっぱいの心の美しい人にな〜れ
 今日は卒園式。卒園する年長さん、本当におめでとうございます。保護者の皆様もさぞかしお喜びのことと思います。心よりお祝い申しあげます。
 今年を振り返ってみますと、いろいろなことが思い出されます。4月、新入園児は初めての集団生活にさぞかし不安だっただろうと思います。でも少しずつ慣れて、今ではすっかり主(あるじ)のような面もちで過ごしています。とても嬉しく思います。
 ポカポカ陽気に誘われて、園外でお弁当を食べたり、毎月行われた誕生会も楽しかった。砂場、ブランコ、アスレチックなどで怪我をしたこと。その怪我に付き添って保健室まで一緒に行ってくれた友だちのことも忘れてはなりません。親子遠足(福王寺遠足)は今年も雨で流れました。降りやまない雨を恨めしく眺めたことが思い起こされます。みんなでお店を作って楽しんだ秋祭り。ちょっと恥ずかしかったけど大勢の皆さんの前で精一杯歌って大きな拍手をいただいた生活発表会。人形劇で「舌きり雀」のお話をみんなで見ました。お話の途中で出てきた幽霊が怖かった。カレーパーティーでは、みんなで持ち寄った玉葱やじゃがいもを切って、大きな鍋でカレーを作りました。他にも、いろいろな場面で子どもたちのさまざまな表情が思い出されます。
 子どもと一緒の生活は、とても感動的でした。腹を抱えて大きな声で笑ったり、泣いたり、驚いたり、考え込んだり、叱ったり…。どれも今となっては楽しい想い出ばかりです。どれもこれも大切に心にしまっておきたいと思います。ありがとうございました。
 
   そつえんする こどもたちへ
 
   そつえん おめでとう。しょうがっこうに いっても、せんせいの おはなしを しっかり ききましょう。
   そして こころの やさしいひとに なりましょう。
   ともだちも たいせつにしましょう。
   おうちのひとへも「ありがとう」のきもちを わすれないでね。
   そして、こころも からだも「げんき いっぱい、えがお いっぱい」の
   こころの うつくしい ひとに なりましょう。
   ようちえんで したこと(おべんとう、リレー、うた、うんどうかい、 はっぴょうかい、えほん、
   あそび、など ぜんぶ)は、やさしくて つよくて うつくしい こころを もつためなのです。
   そつえんしても みんなの えんていで みんなであそんだ、みんなのようちえんを おもいだしてね。
   せんせいたちは、いつまでも あなたの おうえんたい です。 
                                       せんせい より
 
 子どもたちの成長をとても嬉しく思います。保護者の皆様と共にこの喜びを分かちあいたいと思います。 
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 たくさんのプレゼントをありがとう
 入園式の時の姿が、つい昨日の出来事のように思われますが、もう卒園。4月からは小学校1年生ですね。一緒に過ごした幼稚園での月日がとても短く感じられます。
 子どもたちと一緒に過ごした生活の中で、私は子どもたちから実にたくさんのプレゼントをもらいました。
 その第一は「元気」です。私は皆さんから毎日たくさんの「元気」を分けてもらいました。朝のさわやかな挨拶、園内ですれ違うときに交わしたニコッとした笑顔、遊びに真剣に取り組んでいる姿。子どもたちの素直な表情は、あまりに複雑で見え難い大人の心を忘れさせ、同時に自分の中にあるもう一つの心を掻きだしてくれました。子どもたちの目は、意欲的で好奇心にあふれています。その心が、元気の素なのだろうと思うのです。子どもたちから「元気」をもらって、私はどんなにか勇気づけられたことかわかりません。
 第二は「やさしさ」です。子どもたちは、遊びの中でしばしば怪我に出会うことがあります。そうしたときに、周囲の子どもたちは実に心配そうな表情をして近づいてきます。喧嘩をして自分が悪かったときには実にバツの悪そうな表情で「ごめんなさい」と伝え、相手の了解を得ることも忘れません。そのやさしい心、いつまでも大切にしてほしいと思います。その子どもたちのやさしい心に触れて、私は何回も救われたような気持ちを味わいました。
 第三は「根気」です。子どもたちは砂遊びが大好きです。砂場は子どもたちの独壇場でした。砂山を創っては壊し、創っては壊しの連続。その根気強い取り組みを側でみていて、私は多くのことを学びました。イメージの大切さ、周囲の人との関係作りの場、試行錯誤の楽しさ、大物を作り上げたときの充実感と達成感、等々。根気強い取り組みが、人を何倍も大きくさせてくれる。
 第四は「ユーモア」です。子どもたちは面白いことが大好きです。本当に面白かったら、「ハッハッハッハ」と大きな声で笑いました。その声はとてもさわやかです。子どもの笑い声に、私の心のモヤモヤは吹っ飛んでしまいました。子どもたちの笑い声は、心の清涼剤でもありました。
 この他にも、子どもたちから実にたくさんのプレゼントをもらいました。小学校に行ってからも、みんなの「元気」「やさしさ」「根気」「ユーモア」を、多くの人に分けてあげてくださいね。
 ご卒園、おめでとうございます。

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