第三章 意欲と自信を育もう
 
【9月】
 さあ2学期です
 
 今日から2学期が始まります。今学期もどうぞ宜しくお願い致します。
 さて、子どもたちは日々の生活や営みの中で実に多くの事柄に触れ、言葉ではうまく表現できないような経験をしています。たとえば、林檎をかじれば、林檎の味わい・硬さ・重さ・肌触り・形・色などの違いの面白さを感じ取ります。また、走る行為を通して、速さの違いや空間の広さ・エネルギー消費量などを感じ取ります。遊びや日常生活(衣服の脱着など)でも、身体操作や身体機能の不思議さに、知らず知らずのうちに触れています。要は、子どもたちにとって、これらの経験こそが大切なのであって、そこで「ハッ」としたり「ホッ」としたことが言葉を育んだり、次の遊びや活動を動機付けたりします。つまり、何を知っているのかよりも“何を”“どのように経験したのか”がこの時期特に重要なのだと思います。
 同様に、子どもの時期に、仲間や先生と一緒に遊ぶことの楽しさや、色々な大人と関わり、先達のご苦労や人の温かさや心の純粋さに触れることも大切なことだと思います。先日、あるTV番組を見ていましたら、元オリンピック選手の君原健二さんが“走る”ことへの思い(情熱)を語っておられました。「走ることは他人との競争なのではなく、実は、自分自身との戦いの毎日だった」という言葉の中には、雑念を振り払って辿りついた“素心”が感じられ深く胸を打たれました。心を素にして取り組める“何か”を持っている人は、もうそれだけで「尊い」のだと思いました。小さな子どもたちが、ひたむきに遊びに取り組む姿、それは君原選手の姿と二重写しになって見えてきます。
 9月は、敬老参観に運動会と楽しいことが続きます。おじいちゃんやおばあちゃんの手に触れたり、お話にじっと耳を傾けたり、走るのは遅くても自分の目標を持って精一杯走ることなど−素心で触れるこれらの経験に深い意味を見いだしたいと思います。
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 人や物と温かくかかわりたい
 
 長い夏休み、如何お過ごしでしたでしょうか。今年も昨年同様、とても暑い日が続きました。暑さや寒さが厳しいと、ついつい活動意欲が減退してしまいます。私たちは無意識の内に、気候に大きく影響を受けているのです。
 それと同じくらい大きな存在は、周囲の人々や物です。私たちが生き生き過ごせるのも周りの人が支えてくれているから。そして、気持ちよく過ごせたり、いろいろな思いや考える機会を与えてくれるのは生活に潤いを与えてくれる物が身のまわりにあるからです。いまの生活を大切にしながら、人や物と温かい関係の中で過ごせるようになりたいと思います。
 さて、ご家庭ではきっとこの夏休みを活用して、夏しか味わえないようないろいろな体験をなさったことと思います。時間があっという間に過ぎてしまった人、時間の経つのが遅く感じられた人などさまざまだと思います。それぞれに貴重な体験だと思います。この体験を大切にして、子どもたちにはいまどのような体験が必要なのか、考えてみることは重要なことだと思われます。いま(現在)は今しか無いのですから。
 園内では、この夏休みにいろいろな環境整備をしました。その一つとして、園庭の奥の広場に、さるすべりの木を植えました。丁度いま、きれいなピンク色の花を咲かせて、私たちの目を楽しませてくれています。ところが、この花をめがけて蜂がやってくるのです。“子どもたちは、蜂に刺されないかな”という思いが脳裏をかすめ、このことについて職員室で意見交換−。
  意見1:花を摘んで取り去れば蜂は来なくなるかも知れない。
  意見2:さるすべりの木でなくても、花が咲いていれば蜂はやってくるよ。
  意見3:開花は一時的なことなので、そんなに騒がなくてもよいのでは−。
等など、いろいろな意見が出てきます。そこで、大学の生物学の先生にも意見を求めてみました。“花は見たいし、蜂には刺されたくない、この両方を満たす良いアイデアはないでしょうか?”。そこで返ってきた言葉は、「蜂がやってくるような環境は、自然に恵まれているとてもよい環境です」。
 確かに、蜂も一生懸命に生きているのです。よほどのことが無い限り、人間の都合で環境を変えてしまうのは身勝手と言えるのかも知れません。
 そこで、たどり着いた一つのアイデアは、子どもたちには蜂が居ることを伝えて、蜂に刺されないようにするための知恵を出し合おう、そしてもし運悪く刺されたらどうしたらよいか事前に対策を立てておこう。花の命も、蜂の命も、そして人の命もみんな大切にしたいのです。当然のことですが、このアイデアでは、リスク(危険)を伴います。(どうかこのことで、ご家庭であまり神経質になられませんように。)むしろ、子どもたちが、この環境に触れて、自分の力で、自分の知恵で、花や蜂と仲良くつきあっていくことの方が大切な経験だと考えられるのです。
 このように考えていくと、私たちは、人や自然となかよくつきあっていくためには、いつも安全な所ばかりではない、常に危険な場面と隣接している、ということに気づきます。たとえば、車社会は私たち人間が作りだしたものですが、その便利な生活の傍らでは交通事故という危険と常に隣合っているのです。そこで、私たちは事故防止のために、道路で遊ばないようにしたり、走ってくる車に近づかないように気遣って生活するのです。これも生きる知恵なのです。
 子どもたちが、自分の力で対応(判断)し、他者(or生き物)と関わっていけるような習慣が、この幼児の時期から育まれていけば、きっと子どもたちはいろいろな学習を楽しいものだと思えるようになるのではないか。同じように、人と関わることが自分にとって楽しいことだと思えるなら、これを味わった子どもは多くの人とずっと仲良く過ごすことができるのだと思われます。
 
 まなざしと対話
 
 いよいよ2学期が始まりました。今学期もどうぞ宜しくお願いします。
 この夏は、O157で揺れた夏休みでした(それに関連したカイワレ大根のニュースを見ていて、正確な情報と冷静な行動の大切さを感じました)。この夏、皆様はどのように過ごされましたでしょうか。今回のニュースを教訓にしながら、健康には最大の注意をはらいたいと思います。
 さて、引き続いて今学期も、子どもたちの伸びやかな遊びを育みたいと思います。一人一人が自分の遊びを見いだし、仲間との関わり通して、日々、自己実現にチャレンジして欲しいと願っております。私たちも、そのために微力を注いでいきたいと思っております。
 伸びやかな遊びを育もうとするとき、その基礎には「やる気(意欲)」を育むことは欠かせません。たとえば、私たちが何か(生活や遊びなど)しようとする時、楽しさや嬉しさが予感される時には積極的に関わりたいと思います。その一方で、恐いことや悲しいことにはあまり関わりたくありませんね。このことは、日常生活や学習場面でも大切な視点だと思います。楽しさを経験すればまたやってみたいと思うし、誰かにそれを伝えたいとも思う。楽しさは、心を開き、やる気(意欲)を育みます。そして、意欲は表現する機会を与え、相互理解(共感)の場を生むのです。他者と心を交わすことによって、親近感が増し、また一緒にチャレンジしてみたいと思う−このような良い循環が必要なのだと思います。
 しかし、子どもたちの心は揺れやすい。生活の流れの中では、熱中している時(自立している時)と十分に一人で遊べない(不安定で依存的な時)時の間を大きく揺れているのだと考えられます。その揺れる気持ちと関わるとき、子どもは、たとえば「C君は○○ができるんだって」等のような、自立の気持ちをそがれるような言動に敏感でもあります。
 むしろ依存的な状態の時は、とりわけ自分の思いを受け止めてほしい時なのです。大人は、子どもが抱えている課題を自分の力で克服していけるように、背後から追風となって関わることが大切なのだと考えます。
 ある調査によれば、親子の会話で特徴的なのは、禁止や命令(「ダメ」「やめなさい」「○○しなさい」など)のことばで接していることが多いのだそうです。自省したいと思います。みんな、援助と共感の言葉が欲しいのです。それは意欲の源泉になる。(しかし、禁止や命令の言葉がすべて悪いわけではないのです。生命の危機や人の迷惑になる時には、必要な言葉だと思います。)
 人は人に支えられて生きています。子どもたちのやる気(意欲)や思いやりの心は、日々の私たち大人の関わりによって育まれるものと思われます。いま、コミュニケーション(温かいまなざしと対話)の質が問われているのだと思われます。
 
【10月】
 安心感
 
 2学期当初、実は子どもたちの様子について、おそらく不安な表情をするのではないか、長い夏休みで「お家がいい」と言って、泣いて訴える子どもが相当いるだろうと予想をしていました。しかし、その予想に反して子どもたちは実に淡々と自分の好きな遊びを楽しんでいます。保健室へ訪れる子どもたちも昨年の同期に比べて減少しています。すんなりと園生活に入り込めたので、少々面食らった感じですが、その分とても嬉しく思っています。子どもはとても柔軟だと思います。
 このような姿を通して、いろいろと考えさせられます。子どもたちが自分の遊びを楽しんだり、友だちと一緒に遊ぼうとする基礎には「安心できる」から。「自分が出せる」のも相手を受け入れ、自分を受け入れてくれるだろうと感じられるからなのだと思います。たとえば、子どもが親のそばから離れられなかったり、先生の後をついて歩くのも、その方が安心できるから。安心感が得られないときに、遊ぶ気持ちは起こらないのですから。
 「優しさの心は、優しさをいっぱい経験した中で育まれる」。昨年の講演会で聴いた徳本先生の言葉が思い出されます。安心感に包まれて過ごす中で、徐々に周囲の人や物と関われるようになる。そこで見られる関わりの姿は、ちょうど心の姿(感情)が映し出されているのだと思われます。優しさや慈しみの心をいっぱい受けた人は、周囲のそうした心を無意識の中で感じ取り、ごく自然な日々の営み(生活習慣)の中で、思いやりや慈しみの心を育くんでいくのだと思います。
 いま、多くの子どもたちが、園庭や室内で自分の好きな遊びを見つけて没頭して遊んでいます。その姿はじつにダイナミックで、生き生きとしています。仲間との一体感なども、その遊びの中で育まれ、仲間意識となって、徐々に他者の立場(思い)やルールを理解できるようになっていくのです。
 このような観点から普段の生活を眺めてみたとき、友だちと喧嘩(自己主張の場)をしたり、自分の気持ちを抑えられなかったり、片付けがうまくできなかったり、約束が守れなかったりする−このようなときは自己解決能力を育む絶好のチャンスと言えます。しっかり自分の言い分を伝えて、自分たちで解決する機会としたいと考えます。この習慣を身につけるためには、そのような場面が幾度も経験されることが重要となります。よい習慣を獲得するためには時間がかかります。また、子どもがよい習慣を持つためには、大人が変わらなければ−とも思います。ゆったりと関わることにしましょう。
 
 「○○してあげたい」という心
 
 諺にも言われますように、秋はスポーツ、読書、芸術、食欲、どれをとっても絶好の季節です。それだけ気候が良くて、活動に適しているということなのかも知れません。どれでもよいのですが、各々の味わいの違いに心を傾けてみるのもよいことだと思われます。
 さて本園では、次の日曜日に運動会を行います。いま園庭ではその練習(?)で盛り上がっています。子どもたちは、自分の選んだ遊戯やゲームに参加しています。そして自分達で飾り用の旗を描いたり、入場門に手形スタンプの飾りを付けたり、草抜きをしたり等、行事を迎えるためのいろいろな準備にもかかわっています。“私、出演する人、あなた、準備する人”というような関係ではなくて、私もあなたも一緒に演技して、一緒に準備して、応援しあえる人間関係作りを目指したいのです。
 とりわけ、遊びの中で行われる自由参加の遊戯では、子どもたちがとても生き生きしているように見えるのは私だけではないと思います。(自由な遊びのできる時間をいっぱい用意しているのも、本園ならではの試みだと思います。)
 その自由な時間に遊戯の音楽を流しますと、子どもたちは別のどこかで遊んでいても、あちらこちらから集まってきて各自それに必要な道具を取り出して踊り始めるのです。そして終わったら、またどこかへ遊びに行くのです(あるいは別の音楽を要求するのです)。自分達の意思で−。この「意志(意欲)を育むこと」がとても大切なことだと考えています。園庭で行われるリレー・砂場・遊具・大工コーナーそして樹木や草花、ホールにある跳箱・大型積木・落書きボード、室内のままごとコーナー、絵本、音楽等など、それらはみんな子どもたちの興味や関心を引き出し、遊びたいと思う心や人と仲良くかかわりたいと思う心を育むための刺激材としたいのです。
 もちろん皆が常に活動的で意欲的だとは言えません。ぶらーッと職員室や保健室にやってきて、先生や他の子の様子を眺めている子どももいますが、このような傍観的な行動も、その子にとっては次の遊びを始めるための繋ぎの時間(弛緩の時間)として重要な意味を持っているのかも知れません。要は、自分の時間をどう過ごしたいのか、それを自分で解決すること(さまざまな情報を受け止め判断すること)は、幼少時から強調されてよいのだと思われます。むしろ、退屈になれば退屈になったで、何かをはじめなければ楽しくない−と思えるような経験ができたらよいのだと思います。
 しかしながら、それでは自分の都合の良いことしか行わないのでは−と心配されるかもしれませんね。そこで考えられるアイデアは、自分の都合の悪いことであっても(たとえば、遊びに夢中になっているのに途中で大人の都合で遊びを止めさせられる等)あらかじめ事前に余裕をもって次の行動の必要なこと(わけ)を示しておいてあげると、子どもなりに納得して遊びに結末をつけてくれます(たとえば「今日はここまでにしよう」とか「この続きはまた明日」などと自分で決められる)。結末迄にはある程度の時間が必要なのです。最も良くないのは、突然にその場になって中止を告げること−たとえば「出かけるよ」「部屋に入って」など。子どもにだって都合はあるのです。
 ものの因果関係をちゃんと伝えれば、子どもはそれなりに理解してくれます。どの子もやさしい気持ちをもっていて、どの子も人のためになりたいと思っているのです。 その出来栄えよりも「私は〜したい」という意欲、さらに「人に〜してあげたい」という心(他者との温かな関わりを求める心)を育み、その心をしっかりと受け止めること(共感の心)が、この年齢では特に大切なことだと考えます。そうすれば、子どもたちはきっと自信を持って遊びや活動に参加できる。いま運動会を前にして、とても大切な大人の態度だと思うのです。
 
 思いやりの心は安心感から
 
 普段は伸び伸びと遊べるのに、知らない人が見ていると急に動きが止まったり、あるいは自分が大切にしているものを見て欲しいのに、友だちが「見せて」と言うと途端に「だめ」と言って隠してしまう子ども。このような姿は、幼い子どもによく見られるものです。大人でも、気心が知れない人には、なかなか心を開くことができませんね。誰でも、初対面の時はある程度の距離をおいて様子を窺っているものです。別の例で言えば、玩具を独り占めしたいのに、いつも誰かに奪われてしまう、このようなときには、自分の大切にしているものを隠してみたくなる気持ちも理解できます。大切な玩具を貸してあげたとき、その玩具は必ず自分の手元に戻ってくるという確信(安心感)が持てていれば、隠す行為は出てこない筈なのですから。
 同様に、人に親切にしてあげようとしたとき、相手が素直に親切を受けてくださった時には「ああ、よかった」と実感されます。一緒に喜んでくれる人がいればそうした行為は更に継続されることでしょう。
 しかし、もしその親切心を大人の感覚で遠慮したりすると、子どもはとても残念がり、むしろ人前で恥ずかしい思いをしたとか、辛い思いとなって、人目から逃れたくなってしまう。子どもの思いやりの心を育てようとするときに、この親切心を素直に受け止めることは大切なことです。これは、子どもの素直な感情を育むときにも欠かせません。大人特有の照れや遠慮は、子どもたちには全く逆の意味に感じ取られてしまうようです。
 子どもは自分自身を受け入れてくれる人が側にいる時、精神的に安定し、この安定感が素直な心や感覚の正常化を促し、更に思考の深さを導くのだと考えられます。
 初期経験として、人と接することの喜びを味わい、自分が受け入れられているという安心感を経験した子どもは幸せです。思いやりの心は、このような愛に包まれた安心感(信頼)の中で育まれるのだと思うのです。 
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 踊りの輪が広がっています
 
 9月に運動会を終えてから、子どもたちの間では“運動会ごっこ”が続いています。雨で消えたトラックの線を自分たちで描いて、チームを作って走ったり、玉入れをしたり。子どもたちの群れがあちらこちらにあります。
 スゴイのは、選択遊戯で踊った幾つかの遊戯を、踊りたい人が集まっては「先生、テープかけて」とお願いしては、音楽に合わせて一緒に踊るのです。1曲ではもの足りず、2曲3曲と音楽を変えては次々と踊るのですが、それがまた本当に楽しそう。すぐそばで見ていた人たちも、思わずその輪の中に入って踊っています。先生役になって踊る人もいたりして−。
 自分達で自主的に行動する子どもたちの姿をみていますと、本当に気持ちよくなります。一度この様子、そっと覗きにきてください。
 
【11月】
 子どもの表現について
 
 目を輝かせている子どもたちは、実に表情豊かな顔をしています。歌の音程が多少外れていても、絵の線が少し歪んでいても、その時の生き生きした表情は確実に伝わってきます。このような生き生きした表現では、言葉や音や線が生命力溢れています。おそらく子どもたちも自信を持っており、そのことを実感しているのでしょう。しかし、子どもたちはいつも生き生きした表現を見せてくれるわけではありません。絵を描いてもぎこちなかったり、歌を歌ってもか細い声だったり。このような時、私たち大人はついつい表面に見える部分に目が向いてしまい易い。そこで考えてみよう。
 言葉はいきなり喋れるようになるのではなく、それ以前に大人の会話を聴いたり、言葉をまねたり、口の形をまねたりして、それでも意志を正確に言葉にできなかったり、というように色々な発達の段階を辿ります。つまり、意志とそれを表にはきだすための技量が調和していない状況(心と体のアンバランスな状態)の方が多いのかも知れません。このアンバランスな時を、どうしたら楽しく過ごせるのか。このことは、演じる方も、それを見守る方もとても大切なことです。
 一つのヒントは、子どもたちは普段喋りながら絵を描き、歌いながら踊り、動きながら感じるということ。つまり、表現は意志や感情の表出であり、その意志はさまざまな表現モードによって補完されながらあらわされる、という事実です。むしろ子どもには、描くだけ言葉だけ歌だけ動きだけで演じるのは、とても大変なことなのかも知れません。子どもの表現をみるとき、この補完されなければならない部分を読み取ってあげることは大切なことのように思われます。慣れるに従って、徐々にあらわにされない部分が補われて生きた表現に高められていくのだと考えられます。
 このように考えると、細々とした表現に子どもの意志の芽生えが感じ取られてきます。細い芽を大切にして、褒められて、子どもは少しづつ自信を得て、表現を洗練させていくのです。生きた表現は、意志の充実、自信の現れに等しいのかも知れません。
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 表現について(その2)
 
 子どもの表現は、さまざまな発達段階があります。たとえば、歌声であれば、既存の楽曲の冒頭からきちんと歌われるのではなく、初めは喃語の断片を反復したり、引き延ばしたりして、あたかも喋っているかのように聴こえてきます。初めは音程も不正確です。むしろリズムの方が安定感があるようです。既存の旋律が歌われる時は、最も印象深い所(面白い所)から歌われ、徐々に楽曲は全体に広がって覚えられ親しまれていくのです。
 描画においても、初めは大ざっぱな線や点が身体(腕など)の操作の能力に応じて反復され、やがて微妙な形や色使いの工夫へと高められていくようです。運動能力も、いきなり走ったり投げたりできるようになるのではなく、最初は寝返り→ハイハイ→捕まり立ち→歩行→ランニングという順に、徐々に能力を高めていく発達の姿がみられます。
 このように、幼児の段階では、各々の能力が獲得される道筋があり、その過程を跳躍していこうとすると、多くの無理を生じることになります。言葉の成長、心の成長、あるいは遊びの姿や仲間とのかかわり方においても、同様の発達的な道筋があるのです。
 こう考えてくると、そうした能力の発達に対して大人の関わりは極めて希薄であるかのような印象を覚えます。が、そのような時々の発達的な姿が顕在化されるときには、それまでの大人の意識的あるいは無意識的な接触が大きな役割を担っていると言えます。たとえば、赤ちゃんは言葉を自由に操れませんが、大人はその赤ん坊に向かって執拗に話しかけて、温かな愛情と笑顔を注ぎます。このような接触は、子どもたちのさまざまな能力獲得の基礎となって、能力開花の時期を促しているのです。子どもたちの遊びにみられる諸場面は、能力獲得の諸段階を無理なく辿っていくうえで、より自然な姿を生むところなのだと言えるのです。
 
 甘い柿を一緒に食べました
 
 園庭の隅(裏門近く)に柿の木が2本たっています。その柿の木に今年も色づいた実をたくさんつけました。先日、職員がソッと採って試食してみましたところ・・・何と甘いこと。
 さっそく天気の良い日を選んで、子どもたちと一緒に柿もぎをして、皆で一緒にいただきました。手分けして皆できれいに洗って、先生に皮を剥いでもらい、少しずつ分けていただいたのですが、それはとても美味しかった。
 いつもは「柿は嫌い」と言っていたお友だちも、皆が美味しそうに食べているのを見て「私も食べる」と言って口にしました。実は、その子は柿の種に興味があったらしく、食べ終えた後、柿の種を大事そうに握りしめ、わざわざ「先生見せてあげる」って見せてくれました。おそらく、その子はこれからも柿が大好きで、ず〜っと柿と仲良しでいてくれるものと思います。
 
 『秋祭り』を楽しみました
 
 昨日、幼稚園で秋祭りを行いました。多くの保護者の皆様にもお越しいただき、しかもいろいろな場面でお手伝いをしていただき、誠にありがとうございました。子どもたちは、帰りの会などで「楽しかった〜」「鬼が恐かった〜」などとそれぞれに思いを述べていました。
 祭りの概略はおよそ次のようでした。
 祭りの冒頭では、G先生の和太鼓に合わせて、鬼面を被ったI先生の舞。そして手作りの大蛇も登場する本格的な幕開け(?!)。思わず「オー」という歓声があがりました。子どもたちの中には、鬼を見て半ベソの子もいました。
 その後、お店屋さんを回ったり遊びに興じたりの時間。出店は次の通り。アイス屋、傘屋、お面屋、おそば屋、ゲームコーナー(魚釣り、ボーリング、おみくじ)、昔遊びコーナー(ブンブンごま作り、竹馬、こま回し、お手玉、あやとり等)、お御輿をかつぐコーナーなど。そして柿と芋のごちそうコーナーも。保護者の方に協力して頂いて、園内で収穫したお芋をふかし、柿も剥いて頂きました。決して派手ではありませんが、盛りだくさんで盛況でした。
 さて、この秋祭りに向けて、子どもたちは事前にクラスでいろいろな話合いをして準備にかかりました。子どもたちはいろいろなアイデアを考えます。お店はどんな品物を並べようか、店番はどうして担当しようか、お金の代わりに買物券をつくろう、等など。普段の幼稚園での遊びや家庭での生活の様子をしっかり観察していて、祭りのアイデアを皆で出し合い、そしてそれを実行してみる。本当に逞しいと思いました。
 店番を担当してみると、「なかなかお客さんが来てくれない」そして「店番は何時までなの」など、いろいろな思いが子どもの口から出てきました。作る人、売る人、買う人、遊ぶ人など、いろいろな立場に立ってみて、これまで経験したことの無いさまざまな思いを味わったことと思います。
 買物や店番は、一人でなくてグループ(年少から年長までの7〜8人)で担当しました。グループの行動パターンもいろいろです。リーダーの指示で皆が整然と買物をして回るグループあり、自分のグループがどこに行っているのか迷子状態のグループあり−これもさまざまでした。買物などの場面では、年長児が年少児の手を引いて「まだ遊びたいの?」とか帽子をかぶらせてあげるなどの姿も散見されました。ほほえましい姿です。時には、店番を忘れて傍観している人もいましたが−。そういうさまざまな姿を見ていて私は心の中で“とてもいい光景だ”と思いました。そうした関係性の中で、子どもたちは一人一人自分は何をしたいのか、何の役割を担っているのか、友だちは今何をしようとしているのか等、自分の感性や自分のペースで考える機会を持つのです。みんな、それぞれに「心を耕す」時になったものと思われます。
 いずれにせよ、いま私たちは平素の生活を充実するためにはどうしたらよいのか、生活や遊びの改善に取り組んでいるところです。そこでは、自分のできることで参加し、共に過ごすことが大切な視点だと考えています。今回の秋祭りがそうであったように、他の生活の場面でもこのようにありたいと願っております。たとえば、参観日も保護者も一緒に参加のできる「参加日」にできないか、さまざまな季節の行事もあまり背伸びをしないで、子どもたちが無理なく参加し、実行できる内容でよいではないか、などと考えています。
 今回の秋祭り−保護者の皆様もさまざまなことをお感じになられたと思います。どうぞ、お気づきの点などお教えください。昨日は、本当にありがとうございました。
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 遊びに参加していただきありがとうございました。
 
(1)先週、参観日を改名し、「保育参加日」として(保護者の皆さんに都合のよいときに登園していただき)こどもたちの遊びに参加して頂きました。人数は十数名でしたが、その中にはご夫妻で参加していただいたご家庭も何組かありました。木工コーナーで腕をふるったり、伝統的な遊びに関わってくださったりして、子どもたちもひと味違った雰囲気を感じ取り、遊びの面白さに気づいたと思います。
 参加された保護者の方からは「園での様子がよくわかりました」「子どもたちみんな元気ですね」「子どもたちのパワーに圧倒されました」との声も聞かれました。さぞかし、お疲れになられたことと思います。でも、その疲れは心がボロボロになる疲れと違って、おそらく爽快感の残るものだったと思います。
 このたびは参加されなかった皆さん、ぜひ次の機会に参観をかねてどうぞお越しください。お待ちしています。
(2)過日には、本園保護者サークルの皆さんに、絵本を読んでいただきました。絵本は「きつねのおふろ」「でんしゃにのって」「こびとの村のおひさまワイン」。子どもたちに声をかけたら、聴きたい人が十数人集まってきました。子どもの真剣な表情が印象的でした。会の皆さん、本当にありがとうございました。また次の機会も宜しくお願いします。
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 表現は感動(こころ)のうねり…ドキドキ・ワクワクしてますか?
 
 子どもは遊ぶのが大好きです。とりわけ自分で見つけた遊びでは時間の経つのも忘れて没頭して遊びます。少し前のことです。M君は園庭で丸い大きな石を見つけてきて「これはモスラの卵だよ」と言いながら、大事そうに抱えています。周囲の子どもは不思議そうに(興味深げに)その姿をみています。M君はその卵を自分が決めた特別の場所に置いて、「これ、赤ちゃんが生まれるんよ」と言って教えてくれるのです。B先生は「そうだね」と言いながらM君の思いを大切にして受け止めておられます。
 数日経った頃、私が「ねえ、モスラの卵どうなった?」とたずねたら、「まだ赤ちゃんが生まれんのんよ」と真剣な表情でM君が答えてくれました。そして私を特別の場所(秘密の場所)に連れて行き、あれこれと自分の思いを教えてくれるのです。そのイメージ(思いや空想、夢など)の豊かなこと。周囲の人に“情愛のある温かい目で見守られている”という実感が、A君の思いを膨らませ、そして伝達する力(表現力)になっていると思われます。
 他の場面(砂場や園庭など)でも同じ様な状況があります。子どもたちは、山やトンネル、川やダム、ツルツル金貨作りなどで自分の思いを実現しようと、ブツブツ言いながら、時には歌を歌いながら作っています。その姿は、まるで作家か芸術家のようでもあります。
 子どもは自分の興味や関心に触れると、没頭して遊びはじめるのです。その遊びの中にあっては、自分の思いと異なる点に修正を加えながら、何回も自分の思いが達成するまで挑戦を繰り返すのです。その過程では、必然的に言葉も発せられますし、形も変化します。失敗や成功のたびに顔や身体の表情が豊かに変化していきます。つまり、遊びの中でみられる子どもの「表現」(造形、言葉、歌、動きなど)は、遊びで味わった感情のうねりの足跡となって残されていくのです。
 遊びの中で尊いことは、このドキドキ、ワクワク、ハラハラ、ホッといった感動体験なのだと思います。この感動を共に喜び、共に味わうことで、お互いの信頼関係が強まっていくのでしょう。
 幼児期においては、語彙を必要以上に増やすことや数を多く知っていること、あるいは上手に絵を描くことよりも、いま持てる語彙や数(その子が持っている能力)を十分に駆使して、自分の思いを吐き出し、感動の体験をもつこと、そして共感の心で受け止めること(情愛のある応答)が大切なのだと思われます。
 何気ない風景や当り前のように使っている物の中に、新鮮な驚きが隠されているかもしれません。私たち大人も、ついつい忙しさにかまけて忘れそうになっている「子ども心(遊び心=ドキドキ・ワクワクの心)」を呼び覚まそうではありませんか。
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 歯科検診の様子……子ども達の姿に感心
 
 歯科検診を行いました。ちょうどこの日は、雨が降っていまして、会場のホールは雨の音がザーザーと響いていました。こんな様子だと、検診を待つ子どもたちは“落ち着かないのでは”と思っていました。が、これまた2学期初日の始業式と同じく、子どもたちが実に要領よく静かに待てるのです。これには私も感心してしまいました。回りにいた先生方も「静かに待たないとダメだよ」と目くじらを立てて見ていたわけでもなく、本当にホッとした感じで付き添っておられたのです。歯科医の先生からも「行儀がいいですね」とおほめの言葉をいただきました。なんだかおもがゆい感じでしたがとても嬉しくなりました。
 子どもたちは一人一人自分で問診表を手渡して、「お願いします」「ありがとう」と自分の言葉で気持ちを伝えていたのがとても爽やかでした。私は内心、「うちの子どもたちも結構やるじゃない」と微笑んだひとときでした。▲Top 
 
 こぼれ話
 
 ご存じの通り、運動会で遊戯をしました。多くの子どもたちは、楽しく参加することができました。が、その中でどうしても踊るのがイヤだったY子ちゃん。運動会後の昨日、クラスみんなでその踊りを踊っていたら、突然出てきて踊り始めたのです。本人いわく「また明日も踊ろうね」って。これには担任の先生もビックリ。何かのきっかけで“踊りたい”という気持ちが吹き出してきたのでしょう。アー、ヨカッタ。
 またまたY子ちゃん、昨日の歯科検診でもお医者さんの前で大泣き。不安で泣いていたのでしょう。何人かの先生の介抱が幸をそうして、どうにか口を開けてアーン。検診の終わった後、再び大泣き。これはホッとして泣いたのでしょう。この様子を見ていた私は思わず「涙の数だけ強くなれ〜るゥ」の旋律が脳裏に浮かんできました。大人にとっては何気ないことが、子どもたちには大きな不安に映ってしまうのでしょうね。Y子ちゃんのここでの勇気に大きな拍手を贈ってあげたいと思います。子どもたちはこうしたやり取りを経て、心の不安を打ち消していって、少しづつ意欲や自信を育んでいくのでしょうね。
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 即席の歌声大会
 
 先日のことです。子どもたち全員がホールに集まった時、「いまクラスで歌っている歌をみんなの前で歌いませんか?」「歌いたいクラスはありますか?」と声をかけたら「は〜い」と子どもたちから手が上がり、急きょ、子どもたちはステージに上がって歌うことになりました(先生方はあらかじめそのつもりで参加していましたが−どのクラスが歌うのかは子どもたちの様子を見ながら決めよう、ということにしていました)。
 こうして即席の歌声大会(?!)が始まったのです。最初のクラスが歌い終わると「次は僕ら(私たち)のクラス!」と手が上がり、いくつかのクラスがステージに上がりました。いつも歌っている歌なのですから、みんな大きな声で歌います。聞いている子どもたちも一緒に歌います。あっという間に時間が過ぎて「この続きはまた改めて」ということになりました。
 この小さな会も、先日の「みんなの文化祭」と同じように、普段着の感覚で行われたものです。友だちとの共有体験を通して、仲間意識も強められていくだろうと思われました。子どもたちにとって、いきなりの大きなステージは心の負担になることでしょう。このような普段の生活の小さな取り組みが重ねられれば、わざわざ飾りたてたステージのために“特訓に継ぐ特訓”なんて必要ない、とも思われました。むしろ幼児の時期には、歌を一緒に口ずさんだりして、人との関わりを楽しむこと、そして音楽と親しむことが大切なのだと思います。
 この歌声大会。可能な限り、大人に促されて行うのではなく、子どもたちの手で(遊びの延長線上として)取り組めたら素敵だなと思います。そのためにも、平素の遊びにみられる子どもたちの興味や関心(どんな歌を歌いたいのか)を大切にして、それを普段の生活の中に生かせるようにしたいと考えています。
 
【12月】
 意欲と個人差
 
 いま、子どもたちがとても元気です。園では、次週に予定しています発表会を前にしてステージの練習(?)をしています。練習といっても、平素の遊びや集まり、クラス活動の延長線上として捉えていますので、演じる人がいたら、それを観る人がいる。観る人は、演技がつまらなかったらゴソゴソしますし、演じている人は、そのゴソゴソを見て「どうしてゴソゴソするのかなあ?」などと思うのだと思います。この様子は、まるで平素の遊びの空気そのものです。
 こうした様子をみていて従来の子どもの姿と違うなと思うことがあります。従来は、こうした催しをしますと、必ずといっていいほど保健室に駆け込む幼児の姿が何人かあったのですが、ここのところそれがめっきり減少しています。発表会の練習ではゴソゴソ、ガヤガヤはありますが、それでも他の人が演じているのは気になる様子ですし、興味の溢れる時には観ている人も一緒になって、歌ったり踊ったり、あるいは「ここは○○するんよ」などと気づきを述べたりしますから大したものです。
 自分の好きな遊び(仲間と一緒の活動や没頭できる遊び)があって、遊びたいという思いを表現する時間と場所があれば、子どもは、その子なりに遊びを発展することができるし、仲間ともなんとかうまく関わることができるのです。
 幼児期は個人差・個体差が大きい。趣味や能力、興味関心も微妙に異なっているのです。一人一人はみんな抱えている課題が異なっている。この個人差をどう克服するか、集団(仲間)とどのように関わっていけばよいのかが、幼児にとっても大人にとっても大きな課題なのです。
 そういうときに、大人の思いがあまりに先走ってしまうと、子どもの思いとすれ違ってしまい、遊びや活動の発展をさえぎってしまうことになる、ということ。つまり、大人から子どもたちに、一方向的に物事を教え伝えることは、ある意味でとても簡単なことだと思います。その反面、子ども自身が、自ら学んだり遊んだりすること(興味関心、意欲、自学自習)を伝えるのはとても大変なことです。ここにも大きな個人差があるのです。これには“寛容と共感”の心で接することが大切です(一人一人はそれぞれ長所や得意なことをもっています。けっして他の子どもと比較して評することのないようにお願いします)。
 今回の発表会は、一人一人の子どもの遊びや生活の通過点と捉えましょう。できばえよりもステージに臨む一人一人の気持ちを読み取ってやって頂きたいと思います。たとえば、ステージに立ち尽くしていても、その子にはその子なりにさまざまな思いを表現しているのだと。自分の思いを他者に正確に伝えられるようになるためには多くの時間と工夫が必要なのです。それを促成栽培のように育ててしまうと、子どもの心に負担がかかってしまい、楽しさ、喜び、やる気、充実感や達成感などの心を奪ってしまう。発表する姿に、子ども自身のさまざまな思いが注がれていないところには、深い感動も共感も湧いてこないのですから。
 今回の発表会を、次の遊びや生活のステップとしたいと思います。ご声援のほど、よろしくお願いします。
 
 掃除の話
 
 以前に、Aさんからこんな話を聞いたことがあります。掃除についての話です。
 「心の成長はなかなか目に見えてこないものです。これだけ頑張ったのだから、これくらい心が成長した、などとは誰も思わない。心の成長はなかなか見えてこない。その分、余計に、心の成長を推し量る目安が欲しくなるのです。だから、私は掃除をするのです」と。
 そして、「身の回りが整理整頓されていると気持ちいい。雑巾がけをするのも、雑巾がけをしたあとがとてもすがすがしいから。掃除をした分だけ、自分の心がきれいになったのではないかと思える」のだと言われました。
 年末を迎え、ご家庭でも大掃除をされることと思います。掃除をしたら、心もきれいになれる。とても素敵なことだと思います。
 これを書いていて、ふと思いだしました。本園の先生方は実によく動かれるし、掃除もうまい。だから、みんな心が美しいのか〜。はい。
 
 「ありがとう」の言葉
 
 先日の懇談会、そしてお餅つきを終えて、本日、2学期の終業式を迎えることができました。今学期も保護者の皆様を始め多くの方々にご支援ご協力を賜りました。この場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。
 さて、子どもたちは確実に成長しています。先日も嬉しいことがありました。私はたまたま本園のすぐ横にある土手道を通っていたのですが、本園の子どもたちが園庭端のフェンスによじ登っていました。私は思わず“子どもたちが何か珍しいものを見つけたのかな”と思い近づいてみると、蹴ったボールがフェンスを越えて土手に跳んでいったとのこと(よくある出来事です)。子供達は「そこのボール取ってくださ〜い」。私が「よく跳んだね、よ〜し」とボールを園庭に投げ返すと、子どもたちが口々に「先生ありがとうございました」と言って、またサッカーに興じるのです。「ありがとう」と言われて悪い気持ちはしません。子どもたちが人との関わりの中で確実にマナー(感謝の気持ちを伝えること)を獲得して、それを十分に使いこなしている姿に触れてとても爽やかで嬉しく思ったのです。
 なんだそんな事か−と思われるかも知れません。しかし、実は日常のこのような些細な関わりが、やがて子供達の生活習慣や性格形成につながっていくことを思うとき、子どもたちのこの行為を最大限に受け止め、褒めてあげることが大切だと思うのです(これは「言うは易し、行うは難し」ですが…)。「ありがとうの言葉を聴いて、先生とても嬉しかったよ」と応えあげれば、子どもたちはその行為の意味(相手がどのように感じたのか、自分達のその行為がどんなに大切な事であるのか)がわかるのだと思うのです。
 同じような関わりは、日常的にみられます。子どもたちは折り紙が大好きですが、時折、一生懸命に織った折り紙を「先生、あげる」と持ってきてくれます。その時「本当にもらっていいの?」「いいよ」「ありがとう」。ここまでは一般的なやり取りですが、その後の一言がポイント。「ここの所可愛くて、先生とても好きだよ。」つまり、どこが良くて、何が素敵なのか具体的に伝えられたら、子どもたちは自分の行為の良さを確認してみるとても良い機会になるのだと思われます。
 こうしたやり取りでは、大人の感性が問われることにもなります。一般的に、悪いことはよく見えても、良いことはなかなか見え難いものです。その意味でも良いところをたくさん伝えることが良いように思われます。子どもたちの感性は私たち大人の感性(生き方や感じ方)の投影なのですから。
 大人の気持ち(喜怒哀楽、特に良かったこと)を正直に伝えることは、子どもたちが自分の行為をやりっぱなしにするのではなく、自分自身の行為を客観的に見つめ直してみるとても大切な教育機会を提供すると思われます。何気ない対話の中で、自分の気持ちがどのように相手に伝わっているのか、子どもたちにはっきりと見えるように(わかるように)応えてあげることが大切だと思うのです。
 
 「楽しさ」は自分で発見するもの
 
 幼稚園では、子どもたち一人ひとりが“人やものとあたたかい関係”で過ごせる空間作りを目指して保育を進めています。まさに子どもたちが今、自分を出して伸びやかに生きる姿を願うものです。自分を出していく中で、他者との関わりが生まれ、意欲や自信が育まれ、そして「互いに相手の存在が認め合えるようになれれば素敵だな。そうすれば生きていることが楽しいと思えるようになるだろう」と考えています。園内での試行錯誤は現在進行形です。
 毎月行っている園内でのさまざまな催しや行事(誕生会、運動会、芋堀、秋祭りなど)は生活を彩るアクセントとなっていると思われます。それらさまざまな生活の一つひとつが楽しいと感じられるためには、いくつかのポイントがあるように思われます。
 第1点は、自分のできることで関わりを持ち、自分も参加しているという実感を味わうことが大切なのだと思います。準備や後かたづけは勿論、食事や挨拶、作品作り、読書、運動、歌など、何れも自分のできることで参加し認めあえているから楽しいと思えるのです(その意味でも家庭内でできることでお手伝いの習慣を!)。
 第2点は、行事や催しを迎えるまでの事前・事後のプロセスがとても大切だと考えています。小さな参加を通して、「こうして、ああして」と思いが膨らんでいく過程、つまり予期予測(想像)や思い入れの経験がとても重要だということです。
 第3点は(これ迄の試行錯誤を通して特に思うのですが)子どもが育つ過程では、保護者の皆さんをはじめとする家族や近所の皆様のご協力(支援、援助)が不可欠だということです。協力と申しましても、ここでお伝えしたいのは大人と子どもの関わり(接し方)のことです。
 最も簡単な関わりは「対話」でしょう。たとえば、ご家庭で子どもたちの園内での生活や遊びの様子を尋ねてみてください。「幼稚園で何したの?」「何して遊んだの?」など何でも結構です。子どもが「○○して遊んだよ」と答えたら、初めの内は「そう、楽しそうね」でいいのです。だんだんと詳しく喋ってくれるようになるでしょう。もし「遊んでないよ」と言っても慌てない慌てない。「そう」と軽く受けるのがポイント。子どもは生来的にいつも「何か楽しいことはないか」と思っているのですから。子どもが示す傍観的な行為は、活動前の一服している時間くらいに受け止めるとよいようです。「どうして遊ばないの?」等と、あまり親が深刻に受け止めると子どもは自分の事で親が悩んだり困っている姿はとても辛く感じるものです。深刻に受け止められたらかえって落ち込んでしまうし、遊ぶことが使命感に変わって苦痛になるかもしれません。
 第4点は、「楽しさ」は自分の内側からにじみでてくるものだと思います。たとえば、文字が読めるようになるのも、無理やり教え込まれたのでは楽しくない。持続力も湧かない。何気ない生活の端々で、字の形の面白さに気づいたり、普段喋っている言葉を表すと「こうなる」という面白さに気づいたとき、次々とほかの文字を知りたくなり、そして教えて欲しくなるのだと思われます。ポイントはそこでの大人の関わりです。「これ面白いね」と大人の興味深々の姿をみて、子どもはまた「楽しさ」という財産を増やすのです。自分でその面白さを味わえれば、きっと学習(遊び)は楽しいものと感じられるはずです。
 要は、目で見て、手で触ってその本質(質量感)を身体で味わうことが、この幼児期に大切な経験(学習)だと言えます。理屈はそのあとで十分なのです。話すことが楽しい、歌うこと聴くことが楽しい、いろいろなものを見ることや読むことが楽しい、動くことが楽しい、触ることも楽しい。このように自分の持てる感覚(五感)を総動員して関わることによって「楽しさ」をより深く味わうことができるのだと思われます。
 
 「よかったね」の心
 
 早いのもので、もう師走になりました。お陰様で、入園当初は不安そうにしていた子どもたちも、今ではもう何年も本園で過ごしていたかのような面もちで登園してきます。とても嬉しく思います。
 ご存じの通り、本園では「温かい心を育む」ことを目標として日々の生活を過ごしています。さまざまな遊びや生活を経験する中で、さまざまに感じられる一人ひとりの思いを素直に(自由に)表現できることはとても大切なことです。その基礎にあるのは、安心感であると考えています。
 しかしながら、遊びや生活の中では、うまくいくことばかりではありません。失敗、挫折、トラブル、時には怪我や事故にも遭遇します。子どもたちの中には、時に機を逸してしまって、自分の思いをうまく表せないでいることもあるのだろうと思われます。他者とうまく関われないこともあるでしょう。しかし、“人や物との温かい関係作り”は、その失敗や挫折をどのように乗り切るか、このことがとても重要なことだと考えます。
 強い心(意志・信念・見通しなど)を持った人は、失敗や挫折などの弱い心を持ち前の強い心で乗り切ろうとします。しかし、誰もが常に強い心を持っているわけではありません。私たち大人だって、時には人に頼りたくなったり、助けてもらいたくなったりするのですから。とりわけ、幼い子どもたちはすぐに弱い心につぶされてしまい、ついには助けを求めることすらできなくなってしまう。
 では、子どもたちが弱い心になったときにはどうすればよいのでしょうか。
 弱い心に陥ったとき(まるで花がしおれたようになっているとき)、立ち上がるのはやはり子ども自身でなければならないのだと思います。花だったら、水を注いであげたり、日当りを調節してあげたりしたら、(花は自らの力で)蘇るでしょう。
 先日の出来事です。4歳の子どもとその父親の方が入園手続きのために本園に来られた時の事です。父親の用件が済むしばらくの間、4歳の子どもは父親の膝元でしっかりと待つことができました。そこで「よく待てたね」という労いの気持ちを込めて、手元にあった折り紙を一枚だけその子にプレゼントしました。こういった場面のとき、園では伝統的に好きな折り紙を一枚だけ選べるようにしているのです。
 このようなケースの時、多くの親御さんは「ありがとうは?」と子どもに催促するのが一般的です。しかし、この親御さんは違っていました。「よかったね」と言って本当に嬉しそうに子どもの顔を覗き込み、「一緒にお礼を言おうね」っておっしゃったのです。
 この親御さんの姿は、まさに「共感の心」に溢れていました。私はそのやり取りを見ていて、とても温かい気持ちになりました。
 もう一つ別の事例を。小学生の宿題を見守るときの親子の姿は象徴的です。親が子どもに向かって「宿題やった?」。これはよく耳にする台詞です。子どもが既に宿題を終えているときにはこれで何の問題もなく時は過ぎていくのでしょうが、宿題を終えていなかったときには大変です。「どうして宿題しないの?」。これでは子どもは、対岸から鋭い視線で監視されているような気分になります。共感の言葉では、おそらく次のようになるのでしょう。
 「おかあさんも宿題(仕事)が残っているの。これから一緒にしようね」。 宿題をやり終えたときに、「よかったね!」となるのだろうと思います。
 このケースの場合、先ほどの父親のように、子どもと一緒にチャレンジしてみようとする気持ちが大切なのだと思われます。しかし、これは一見簡単に思われますが、なかなか難しいものです。心に余裕がなければ出てこない言葉なのだと思います。
 共感の言葉は温かい。気持ちをわかってくれる人がそばにいると、少しずつ元気がよみがえってきます。そして、共感の心は、知らず知らずの内に周囲の人を温かい空気で包んでくれるのです。
 心のよりどころ
 
 寒さも厳しくなってまいりました。風邪などひかれませんようにご注意ください。最近は特に日の暮れるのが早く感じられます。皆様はいかがでしょうか。
 いまここに2学期の園だよりを読み返してみますと、本当にいろいろな出来事に遭遇してきたなと思います。
 夏休み明け、園生活にスッと溶け込んだ子どもたちの姿、楽しかったけどちょっと緊張した交通安全教室、運動会でお家の人と一緒に踊ったダンス、先生は緊張したけど子どもたちは普段の伸び伸びした姿を見せてくれた公開保育研究会、ちょっと涙の見えた子もいたけどみんな勇気を出して受けた歯科検診、みんなで掘った芋掘り、お店を出してとてもにぎやかだった秋祭り、素敵なマリンバの響きも楽しんだね。等身大の自分を描いたり、みんなで大きなものを作り上げた作品展。園庭や保育室でも、さまざまな遊びに一喜一憂しました。この他にも、たくさんの事がありました。
 園だよりを読み返しつつ、それぞれの場面が思い出されます。子どもたちが、自分の思いをあるがままに伝えてくれる姿がとても印象的です。嬉しく思います。
時には、友だちとのやり取りの中で、十分に自分の思いが遂げられないで悔しい思いをしたこともありました。思い(意欲・やる気)が溢れているから、笑いも涙も出てくるのだと思います。
 常々思っていることなのですが、子どもたちの成長のためには、園でも、家庭でも、地域でも、みんなから温かく見守られているという実感が不可欠なのだと思います。生活習慣を身につけようとするときにも、遊びを発展させようとするときにも、人間関係作りをしようとするときにも、この心情は不可欠です。たとえば、人に迷惑をかけた時でも「罪を憎んで(悲しんで)、人は憎まない」という心が大切なのだと思います。どんなときでも、自分はまわりの人に受け入れられているという実感(心のよりどころ)があれば、みんな安心して暮らせる。自分の思いを他者が受け入れてくれたことの喜びや嬉しさは、他者の思いを受け入れる土壌になっていくことでしょう。思いやりの心をいっぱい受けた子どもは、いま思いやりの心をいっぱい蓄えているのだと思うのです。3学期には、さらに一人一人の思いを十分に出せるように、そして友だちの気持ちもしっかりと感じ取れるように、一人一人の「心のよりどころ」としての空間作りをしていきたいと思います。

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